第4話 【匂いの源泉 】


〈2012年3月28日〉



眩しかった。


鳥の声や動物の声がしきりに聞こえる。

窓ガラス越しに朝の光が差し込んできて、それが優吾の顔にまんべんなく降り注ぐ。


目覚めると、身体が思ったより軽い。

試しに上半身を起こしてみようとする。

まだ頭が少しふらつく。でも、ゆっくりなら起き上がれそうだ。

徐々に身体を持ち上げてゆく。

外から聞こえる鳥の声や動物たちの気配が、起き上がるごとに、ハッキリしてくる。

そう、ここは動物園の中だった。


優吾はベッドの上に座り込みながら、しばらくぼうっとしている。


下半身を覆(おお)っている薄手の古びた毛布が、ふと気になる。鼻を近づけてみると、やはり、動物の匂いがする。

優吾は、首をかしげて考え込む。物覚えがある匂いだった。

確か、これは何の匂いだったろう?


匂いの源泉を辿(たど)っていこうとするうちに、照りつける太陽のイメージと共に、記憶の綾がほどけていく。

優吾のまぶたの裏に、幾重にも重なり伸びていく風紋の波立つ光景が目に浮かぶ。



――3年前の夏に、優吾は海外旅行に出かけた。行き先は、子供の頃から憧れていた中国シルクロードだった。


タクラマカン砂漠やゴビ地帯。


遠く砂丘や平原の向こうに見えるボゴタ山脈や天山山脈。

いつも砂ぼこりにまみれるように砂漠の中にポツリと点在している小さな町々というオアシス。それらオアシスを結ぶ天山北路や天山南路、西域南道。


出かける前に、優吾は大きな地図を広げた。

そのシルクロードの縮図を見ているだけで胸が弾んでくる。

優吾は子供の頃、中国の『西遊記』という有名なお話しが好きだった。


父親が夕御飯の後、よくその本を読んでくれた。

三蔵法師一行の天竺(てんじく)までの旅路は、ハラハラドキドキの連続だった。

お話しが面白くなってくると、父親も興奮してくる。

部屋の薄い天井がビリビリと鳴るような力強い張りのある声が、優吾の顔にのしかかってくる。その父親のとり憑(つ)かれたような迫力に、お話しがますます面白さを増していく。


そんな時、優吾の小さな胸は、遥か遠く、中国大陸まで飛んでいた。


学生になっても、『西遊記』の舞台になった西域への憧れは消えなかった。

むしろ、更に強くなっていったような気がする。


ゲンジョウ三蔵の記した『大唐西域記』を読んで、自分も三蔵法師の旅した足跡を辿ってみたいと、本気で思うようになった。

それから7年後、とうとう優吾は中国大陸の地に降り立った。

優吾はその時、27歳だった。


パキスタン方面から雪の降り続くフンジェラブ峠を越えて、中国に入る。

やがて、カシュガル。クチャ。ウルムチと天山北路をバスで移動していく。

優吾は天山山脈に近いウルムチの町の食堂で、知り合ったばかりのカザフ族の青年から、アルタイ地方の話を聞いた。

ロシアとモンゴルを2千キロにも渡って伸びるアルタイ山脈の、麓にある高原なのだそうだ。アルタイ地方はとても広くて、ロシアとモンゴルと中国にまたがっている。

その中で一番魅力的なのが中国領土にあるアルタイ地方だという。


その中国のアルタイ地方には、『幸福』という名の村があるのだそうだ。

そこがとても面白い。自然も満喫できるし、何よりも訪れる外国人のすべてが魅了されるのだという。


「ゼヒ、ユウゴモ、行クベキヨ」


模様のある絹布を頭に巻いて、黒髪を長く両耳の横にのばしたカザフ族の青年は、大きな目で優吾を見つめる。


彼の目には、どこか力がある。


「ユウゴ、アルタイの意味、ニホンゴデ、ナンテイウ、ワカル? 」


優吾は首を横に振る。


「ゴールド、オウゴンノ、テイウ意味ダヨ」



ウルムチの町から、アルタイ行きのバスがあった。

出発の時刻まで6時間ほどあったが、優吾は、朝、ホテルを出た。


バスターミナルは、人ごみであふれていた。

優吾は、ベンチの上で、時刻まで一休みすることにした。

横になると、喧騒(けんそう)が輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。

そう、人の集まる場所は、どこでもうるさい。


その喧騒(けんそう)のただなかにいて、ふと、思いがけなく、

自分だけやけに静かな空間に取り残されているような気分になるときがある。

そんな時は、きまって、自分の耳元だけが静かなのだ。


というよりも、自分の半径50センチメートル範囲だけ音を失っている。

何故なのかは分からないが、そんな現象が起こった時、優吾は時間が止まっている感覚に襲(おそ)われる。


周りの世界は動いているのに、自分だけの世界が止まっているように見える。

そのような状態の時は、決まって誰も話しかけては来ない。

まるで、他人との接触回路が遮断(しゃだん)されているような感じだ。


しだいに優吾は、このまま時間の止まった世界に、自分だけ閉じ込められるのではないだろうか、という不安にかられる。自分だけが透明人間になったかのように、道行く人から無視され続けている気がする。

優吾は必死に、通り過ぎる人の前に立ちはだかり、自分に気がついて、と手を広げる。


人々は、優吾の身体をむなしく通り抜けていく。

優吾はその場にへたり込み、無意識にうなだれて叫ぶ。


「誰か。俺に気づいてくれ! 」




その時、優吾はふいに肩をつかまれた。


「大丈夫? 」


見上げると、若い女性が、立ちながら優吾の顔を覗(のぞ)いている。

優吾はやっと気がついた。自分がベンチから転げ落ちたことに。


いや、そうではない。ケイコという女が心配そうに優吾の顔を覗き込んでいる。

ここは……優吾は、我に返り、ケイコの顔を見返した。


「大丈夫? 」


ケイコはもう一度優吾にそう尋ねてから、もし、体調がいいようだったら、一緒に外に出よう、としきりに勧めた。優吾はそれに頷(うなず)いた。

ケイコの後ろへついて外へ一歩出た時、優吾は急に棒立ちになった。


目の前の光景が信じられない。



〈続く〉

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