第3話 【雨音を聴きながら】


意識のしきみの遠くで、水の音が聞こえる。


辺りは、湿った空気が充満して、肌寒い。


物音一つせず、静かだ。


優吾が目覚めた時、外は雨だった。

気がつくと、部屋の片隅にあるベッドの中で優吾は、寝ていた。

そしてベッドのすぐそばに、バナナやクルミやミカンやキャベツが載(の)った大籠(かご)が置いてあった。


それを目にした瞬間、優吾は飛びついた。

見る間に籠(かご)の中の果物や野菜をたいらげていく。

7房あったバナナは、あっという間に皮だけになった。

蜜柑(みかん)は勢い余って、手の中に握り潰しながら、むいた。

キャベツは丸ごとカジリつく。

籠(かご)の中に果物ナイフが入っていたが、使う気も起きない。

最後に芯だけになったキャベツを先から噛み砕きはじめた時、ふいに後ろから声が聞こえた。


「あーあ、まるで猿だね」


振り向くと、そこには一人の女が立っていた。

やっと優吾の目に、あたりに散乱した果物や野菜のくずが飛び込んでくる。

優吾は、それをしばらく呆然と見つめた。自分がこんなに散らかしたなんて、信じられない。やっと我に返り、優吾は目の前の女を眺めた。


ボサボサの長い髪に、擦(す)りきれたコートを羽織(はお)っている。

30代半ばくらいだろうか。身なりから想像して、この女もホームレスなのだろう。


「ここはどこだい? 」


「ここかい。ここはね、動物病院の中さ。あんたはさっき運ばれてきたんだよ、人間様が死なないようにって慈悲深いことだね」


優吾にはこの女が何を言っているのか、よく分からなかった。


「ここはあの世ではないんだね? 」


「あんたみたいなこと言う人、これで18人目だよ。安心おしよ。ここはあの世なんかじゃないからさ。ただの動物園だよ。上野動物園の中さ」


それを聞いて、優吾は呆気にとられた。


「驚いたかい。ここに運ばれて来た奴は、みんなそうやって驚くよ。

でも、まだ驚くのは早いわよ。あんたをここまで運んできたのは誰だと思う? ねえ、誰? 聞いて腰抜かさないでよ。正真正銘のゴリラよ。ゴリラのジュジュ」


ケムクジャラの黒くて大きな背中が優吾の脳裏に蘇ってくる。

衝動のままにその背の上から思いきり跳び上がった時、

すぐに足をつかまれ宙づりの恰好になったっけ。

そうだった、あの時、目にしたのは……。


段々とぼやけた焦点がハッキリしてくる。あれは、逆さまのゴリラの顔だった。

優吾はそれをやっと思い出した。

霧が晴れるように、優吾の頭の中が徐々に整理されてくる。

まるで、一つ一つのつじつまが、ジグソーパズルを合わせるように繋(つな)がっていくように。


優吾はふいに女の顔を訝(いぶか)しげに見て、呟いた。


「あれは、いったいなんだったのだろう? 宙に浮かんだ細い道を渡ってきたようだったけど……」


女はしらじらしいため息を一つついて、投げやりな言い方で、こう言った。


「おおかたモノレールの線路の上を通ってきたんでしょうよ。いい加減目を覚ましなさいよ。ここは、上野動物園の中にある動物病院で、あんたは死にかけていたところをゴリラに運ばれてここまで来たのよ。分かる? 」


優吾は静かにかぶりを振る。


「やっと納得できたようね。私もあんたと同じよ。三ヶ月前に公園内で倒れたわ。それで動物に運ばれてここへ来たの。私を運んだのはカンガルーだったわね。それ以来、ここに住んでるわ。外よりもここの方が楽だからね。あんたは初めて知ったと思うけど、今では、上野公園に一杯あふれているホームレスたちを保護して食べさせているのは、上野動物園の動物たちなのよ」


それを聞いて、優吾は、びっくりした。


しかし、よくよく考えてみると、今の世の中、何が起こってもおかしくはない。

例え動物に人間が面倒を見てもらうことになったにせよ、何も問題はないではないか。そんな気がしてきた。


優吾はあらためて、女に名前をたずねた。


「ケイコよ」


女は優吾に優しい眼差しを向けた。


「身体が快復するまで、ゆっくりここで休みなさい。

今日はこんな雨降りだし、表には出ないほうがいいわ。食事は一日一食だけど、動物たちが差し入れたものをあたしが持ってくるから、心配しないで」


ケイコという女は、そう言いながら部屋を出ていった。


優吾はベッドに横たわったまま、しばらく、雨の音を聴いていた。


昼間だというのに、部屋の中は薄暗かった。

天井に染みがついている。

見上げていると、不思議とそれがゴリラの顔に見えてくる。

あの黒くて厚みのある肩にしがみついていた時の、手の感触が蘇ってくる。

それは決して悪いものではなかった。


やがて、部屋中が水の音と闇に包まれて、優吾は深い眠りに落ちていった。



〈続く〉

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