第2話 【あの世の使者】
気がついた時、山田優吾(ゆうご)は思わず声をあげた。
自分がおぶさっているのは、黒いケムクジャラの背の上だったからだ。
その黒くて大きな背の上から必死に逃れようとするが、両の太股(もも)を強い力でしっかりと握られていて、どうにも逃げられない。
思わず訳の分からぬ状態で後ろを振り向くと、真後ろには呼吸を荒らげた獣の顔がある。
ドキモを抜かれるとは、このことだろう。
獣の顔は、よく見るとトラである。
テレビで「野性の王国」を見ていた時、牙をのぞかせ悠々とサバンナの中を歩いていたあの雄姿だった。優吾は黒い背中にゆっくりとうなだれかかり、そのまま死んだフリをしながら考えた。
そうだ、これはきっと夢に違いない。起きたら覚めるはずだ。
……いや、まてよ、俺はもう、食うに事かいて、力尽きたはずだ。
そうだとすれば、もしや今起こっているのは、あの世の出来事なのだろうか。
俺を抱えてまっしぐらにどこかへ走っている黒い毛むくじゃらや、それに従うトラは、あの世の使者のようなものだろうか。もしそれが事実なら、礼節をわきまえて接しなければ、あとで大変なことになるかもしれない。
なにしろこの後に天国か地獄かというお裁(さば)きが待っているのだろうからな。
優吾はあの世の事に関しては、これまで深く考える機会を持たずに過ごしてしまった。そのせいでこのような事態が起こった時、昔話に出てくるような人のいい爺さんのような考えしかでてこない。
とどのつまり、あの世からの遣いの者には決して逆らわない態度で望んだほうがいいということだ。その方が天国へ行かせてもらえる可能性が高いと純粋に思ってしまう。優吾が薄目を開けたとき、黒い大きな背は、細い一本の道をひょいひょいと身軽に渡っている最中だった。
細い道と言っても、宙に浮いている細い道である。
いよいよあの世が現実味を帯(お)びだした。
トラは、後ろからタンタンと走ってついてくる。
優吾はもう覚悟を決めた。俺は死んだのだ。
俺を担いでいくこの者たちはきっとあの世の使者だ。
もう惑わされぬぞ。俺は死んだのだ。この身体もきっと幽霊なんだ。
そう思っているうちに、優吾はだんだんと感情的になっていく。
やがて、その感情は胸中で渦を巻き、はけ口を求め出す。
俺が幽霊ならば、ここから飛び出しても大丈夫だろう。
と、そんな衝動がこみ上げてくる。
気がついたら、優吾はその衝動に身をゆだねていた。
思いきり、飛んだ。黒いものの背から反転して身をよじり、黒いものの肩を蹴り上げ、道の外の空間に身を投じた。
落ちていく優吾を寸前のところで、黒い手がむんずとつかんだ。
優吾は黒いものに足をつかまれ、逆さまに持ち上げられた。
優吾の目に、逆さまのゴリラの顔が写る。優吾は、気が遠くなっていくのを感じた。
******
山田優吾が上野公園に無一文のままやってきたのは、半年前の秋のことだった。
まる二年失業していてアパートの家賃が支払えなくなった優吾は、家財道具をそのままそっくりそこに残して、三ヶ月分の家賃を踏み倒したまま、夜逃げした。
はじめは妹の所へ転がり込むはずだった。
そしてもしも妹に頼んでお金を借りることができたら、アパートに戻ろうと思っていた。しかし、妹のマンションに行った時、偶然妹の彼氏が来ていて、
「お兄ちゃん、こちらが祐介くんよ。わたしたち、来年結婚するの」
と、妹から男を紹介された優吾は、心とは裏腹に、二人に祝福の言葉をかけて、嬉しそうに振る舞った。その後、妹の手料理をご馳走になりながら、妹の男とやけに会話が弾んだ。結局、何も言い出せないまま、優吾は妹たちと別れた。
そしてそのまま、自分のアパートには二度と戻らなかった。
気がつくと、優吾は不忍池のほとりに立っていた。
平日の夜の上野公園は、思ったほど人けがない。
ここへ来る途中、公園の森の中やベンチのそばに、ホームレスの簡易小屋を幾つも見かけた。ビニールシートで覆(おお)われた四角い箱は、人が一人入れるくらいの小さなものが多い。中には明かりが灯っているものもある。
優吾は何とはなしに、池の水面に映るビルディングやネオンの明かりを眺めていた。
その逆さまに映った上野の街の灯を眺めていると、自分が来るべきところに来てしまったという実感が、胸にこみ上げてくる。
歩きはじめたのは、とにかく寝る場所を確保しなければならない、という焦りからだった。辺りを見回してみると、道の隅っこや、目立たない場所にはすでに人が住んでいて、リヤカーが止まっていたり、ビニールシートで覆(おお)われた小屋ができている。
当てもなくうろうろしていると、上野公園の夜の闇が、目の前で、ますます深まっていくように感じられ、それが目の回りをぐるぐると渦巻き、身に染みてくる。
辺りの木々の緑が闇に包まれ、冷たく静止しているようにも感じる。
静止しているものは、木だけではなくて、不忍池の水も、暗闇に寄り添う人たちの影も、神社の屋根も、真っ直ぐ伸びる道も、古びた階段もどれも止まっている気がする。
その中で自分の鼓動だけが動いているのが分かる。
街の灯が、夜空にぽっかり浮いて見える。
街と空が遊んでいるように、夜と静けさが戯(たわむ)れているように、
優吾という一個人と、この先待っているであろうホームレス姿の優吾は、お互い楽しむように距離を縮めながら、一人に重なっていくようである。
当てもなくうろうろしているのにも疲れ、再び不忍池のほとりに戻り、その場で屈(かが)みこんだ。
鼓動がやけに近づいてきて、鼻先で響く。
優吾は辺りを見回した。とにかくどこかで休みたかった。
道の真ん中ではなく、もっと落ち着ける場所がいい。
ふいに向こうに立っているやけに太い木の幹が目に飛び込んできた。
彼はそこまで這っていった。木の下まで行き、太い幹に背を寄せる。
そうしていると、心地良い気分になった。
そのまま彼は、うとうとしはじめた。
それからというもの、この場所が優吾の寝る場所になった。……
〈続く〉
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