第2話「記憶を喰らう絵師」

 ある古びた貴族屋敷の一室で、シルヴェリオ少年は問題の被写体モデルと向き合っていた。柔和な視線を少年絵師に向けているのは年老いた婦人である。

 この屋敷が用意したイーゼル画台を立て、大振りのスケッチブックを開いてセットした。道具箱から黒鉛筆を取り出し、全体を感じつつ縦に一本の線を描く。依頼はこの老婦人の肖像画だ。

 庭に突き出たサンルームに作られた急造のアトリエは、午後の採光は十分である。窓の外には大きな庭が広がり、マラカイト岩緑青色にディープオーカー濃い黄土色がアクセントとなり雰囲気が良い。緑は被写体モデルをリラックスさせる。

 続いて何本かの横線をひく。老婆は静かな微笑みを浮かべその姿を見つめていた。

 シルヴェリオはその視線をしっかりと受け止める。そして傍の画台にある、少し薄茶に変色した人物、肖像画画を見やった。そこには老婦人の五十年以上昔の姿が描かれている。

 それを見てしばし考えにふけった。

 モゼッティ子爵家は古く戦乱の時代から王家に仕えた由緒ある家だ。フィオレンツァ家のような成り上がり公爵家とは伝統の格が違った。

 目の前のモゼッティ・ヴァレーリア婦人は未亡人として前当主を務めていて、今は息子のエルマンノ卿が当主となっている。


 そばに置かれた長いソファーには老婦人の孫、この家の令嬢が座り二人の姿を交互に見ながら口を開く。

「私も何度か絵を描いていただいけれど、とても神々しいというか静謐な感じなのですね」

「いえ……」

(忘れていたな……)

 シルヴェリオの緊張感が解けた。被写体モデルとの対話も絵画芸術の重要な要素である。

 金糸の巻き髪に屈託のない笑み。白と青の清楚なワンピースは【ヴェロイア】縫製工房の新作デザインだと分かる。この青色の服飾は初めて見た。

「とっても可愛らしい絵師さんですね。おばあ様はうらやましいな」

 可愛いと言われ、シルヴェリオは少々顔に出してしまった。物心ついた時から散々言われてきたが、やはり未だに慣れない。

 そんな話ではなかったと思い返し、集中する。

 絵師はその対象となる人物と適切な会話を交わさなければならない。それは必ず完成した影響を与えると、シルヴェリオは師匠から教えられていた。たとえ天才であってもこの工程をおろそかにしてはいけないと。

「この人物画はどなたが描かれたのですか?」

 傍の一枚をもう一度見やる。変わった依頼であった。そこに描かれる令嬢、若き日の肖像画を参考とし、この頃の老婦人を描くのが今回の依頼である。

 つまり今の時間で若き日を描くのが依頼人の希望だ。

 ソファーに座る孫の令嬢は、絵の面影があり参考被写体モデルとして控えていた。

(父上も厄介な仕事を持って来てくれるなあ)

 厄介には当然理由があり、それはシルヴェリオにも分かっていた。

「もうずいぶん昔の話です。私のとても大切な人に描いていただきました。私が乞われたのでしたか……。もう忘れてしまいましたわ」

 ヴァレーリア婦人はそう言って笑う。笑顔の本質は昔のままであった。

「とても良い絵だと思います。絵もあなたも信頼している。そんな絵師の作品ですね」

「はい。そう言われて、彼もとても喜ぶと思います」

 シルヴェリオは父親との、やっかいなこの依頼についての会話を思い出した。



「お前。ヒマだろう。夏休みだし」

 息子が書斎に現われるなりガンドルフォ公爵はそう言って書類から顔を上げた。立ち上がりあごをしゃくる。シルヴェリオは数歩進みソファーの前に立ち、腰を下ろす父親を待ってから自身も着席した。

「忙しいですよお。これでもかなり――」

 頭の中で予定を整理する。師匠、芸術の巨人ビアジョッティ・ヴィットーレ翁のアトリエへ通い、中央広場での修行。そして何よりも優先する課題があった。

「――マリアンジェラとのお出かけは最優先ですよ」

「それは必須だな。夏休みだし。頼まれ事だよ。なあに、いつものように絵を描いてもらえば構わない。お前向きの依頼だろ?」

 父親は当然シルヴェリオのスキルについて知っている。そしてこの依頼が重要だとシルヴェリオも分かっていた。

「絵師の仕事でしたら歓迎ですけど――。曰く付きの相手なのですよね?」

「そうだ……」

 シルヴェリオの能力スキルを使えばたとえ何十年前であっても、その人物の真理を垣間見ることができる。それはこの世界に必要な力だった。

「分かりました」

「悪魔を殲滅しろ。神に愛されているなら簡単だろ?」



 思考がサンルームのアトリエに戻り、絵師は再び被写体モデルと対峙する。静かな時が流れていた。

(あなたの記憶を探ります――)

 ヴァレーリア婦人の凛とした瞳の輝き。その底に渦巻いている魔力にシルヴェリオは集中した

(――ストーク捕食っ!)



 小さな山荘の傍で焼却炉にくべられた絵画が、パチパチと音をたてて燃えている。ここは老婦人の記憶の中だった。

 森の木々の先に大きな屋根が見える。ここは貴族の別荘であり、そこから少し離れた場所に山荘が作られているようだ。そして燃える絵画。シルヴェリオはここがアトリエであると思った。

「失敗作だから燃やすなんて……」

 同じ創作者としては奇異に思う光景である。キャンバス地を外し張り替えれば再使用は可能なのだ。しかし自らの絵ごと無き物にしたいにとの衝動があるとも知っていた。シルヴェリオには無縁の感情だ。


 開け放たれたアトリエの扉から令嬢が両脇にキャンバスを抱えて出てきた。若き日のヴァレーリア婦人である。

 泣きながら、何かに対して怒りを向けるような表情で足早に進むと、焼却炉の赤レンガの前に二枚の絵を投げ出す。そして思いっきり蹴りを入れた。

「このおっ!」

 そこに描かれている被写物を見て、シルヴは目を見張る。人間の姿をした黒い羊の頭部には湾曲した大きな角。両手の指が奇妙な形に折れ曲がり、何か禍々しい術をかけるような仕草だ。

悪魔崇拝画サバトか……」

 悪魔を信仰しその忠誠を描くこの絵は、神との決別の証である。悪魔崇拝者たちが集まりこのような絵画に陶酔し悪魔憑依を願う。

 サバトは基本集会であるが、悪魔に係わる事例全ての隠語でもあった。

「いったい誰がこれを?」

 バラバラになった絵を炉にくべ、令嬢ヴァレーリアは振り向いた。シルヴェリオきつく睨むように見つめる。

「まさか見える? 僕が? ありえないだろう……」

 ここは過去の現実ではない。ただの過去の記憶の中だ。記憶の持ち主が干渉などはできない。見ることができるのは、同じ力を持った者だけである。

 シルヴェリオは自身の手を見て己の存在を確認した。

 令嬢ヴァレーリアは表情を緩める。

「驚いたわ。時々精霊さんの気配を感じるけれど、こんなふうに人間を感じるなんて」

「僕を人間と理解しているのか。気配だけでもすごいけど……。この令嬢の魔力は王宮魔導士レベルなのか?」

「あなたはなぜこんなところに来たのかしら? やっぱりこの絵よね……」

 両手を広げた背後には、バラバラになったキャンバスに悪魔の顔が歪んで見えた。それを拾って炎の中に投げ込む。

「いいわ。見せてあげる。来訪者さん。こっちに来て!」

 ヴァレーリアはこの世の終わりを見せるために山荘へと向かい、シルヴェリオの気配が後を追う。

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