第30話

 僕はもう見ていられなかった。


 僕は腰の剣を船底に横たえる。そして、マルグレット卿の顔を正面から見つめ、手を広げた。


「ショルツ卿、何の真似ですか? 本当にあなたも殺しますよ。」


 マルグレット卿が警告するように口を開いた。


 それを無視して、僕はマルグレット卿に向かって一歩ずつ足を進める。


「私は! 本気です! 死にたいのですか、ショルツ卿は!」


 激昂げっこうしたようにマルグレット卿が叫ぶ。次の瞬間、放たれた矢が僕の頬をかすめて後方へと飛んでいった。


「次は、当てます。」


 れするほどの手際の良さで、マルグレット卿はすぐさま次の矢をつがえた。冷たく、マルグレット卿が言い放つ。


 その、復讐の激情に駆られた瞳をじっと見つめる。


「マルグレット卿、僕はあなたを信じている。」


 マルグレット卿が当惑とうわくしたようにつぶやいた。


「ショルツ卿、何を………?」


 僕は大きく前に一歩足を踏み出した。マルグレット卿が慌てて弓を構える。


「マルグレット卿は、僕の知る限り最も心優しい騎士で、素晴らしい人格の持ち主だ。」


 僕はさらに一歩足を前に出す。マルグレット卿の瞳が揺れた。


「そして何よりも、僕はマルグレット卿が強いことを知っている。そんな復讐心に、過去にとらわれて何の罪もないパトリシア殿下を手にかけないことを知っている。」


 僕は一旦マルグレット卿に近づくのをやめ、その目を真っすぐ見つめた。マルグレット卿は僕を睨み返す。


「ショルツ卿、私を説得しようというのですか。甘い、無駄です。もう覚悟は決めています、たとえショルツ卿、あなたでも今の私なら殺せる。」


 僕はまた歩き出した。マルグレット卿が弓に力を込める。


「いいや、僕はマルグレット卿を信じている。僕は、僕の知るマルグレット卿を信じている。ふとした時に見せるマルグレット卿の優しい笑み、それを信じている。」


 僕はマルグレット卿との距離を半分にまで縮めた。マルグレット卿が焦ったように叫ぶ。


「それ以上近づくなら、本気であなたを殺しますよ! 本気です!」


「いいや、マルグレット卿、あなたは僕を殺さない。」


 僕は足取りを一切緩めることはない。かっとマルグレット卿の顔が真っ赤になった。


 瞬間、僕の肩に激痛が走る。矢が当たったらしい。僕は一瞬よろけたものの、なんとか声だけは歯を食いしばってこらえた。


 そして、また一歩足を進める。マルグレット卿が動揺したように視線を僕の顔と肩との間を往復させた。


「あ、ショルツ卿、これは……。っ! 見たでしょう! 私はあなたを殺そうと思えば殺せるのです!」


 一瞬うろたえたマルグレット卿は、無理やり表情を作り上げた。


「いいや、殺せない。もし殺すのなら、心臓を狙えば終わりだった。」


 僕はもうマルグレット卿まで数歩の位置にまで来ていた。マルグレット卿の見開かれたきれいな目がよく見える。


「あ、くっ、私がどうなろうともいいじゃないですか! ショルツ卿、あなたには関係が」


 マルグレット卿が矢を見当外れの方向へと放つ。そして、かんしゃくをおこした子供のように地団太じだんだを踏んだ。


「あなたは僕の一番の友人だ、それ以上の理由はいらない。」


「あ……。」


 もう、マルグレット卿に手が届きそうだった。マルグレット卿の手から弓がこぼれ落ちる。


「ショルツ卿、私は……。」


 マルグレット卿がぽつりと呟く。


「ほら、マルグレット卿はやっぱり優しかった。」


僕はおどけたように口にした。瞬間、マルグレット卿がすがりつくように抱き着いてくる。


「ああああぁぁぁぁああ!」


肩越しに嗚咽おえつが響くのを耳にしながら、僕はゆっくりとマルグレット卿を抱きしめ返した。



 マルグレット卿が泣き止むのを待って、そっと体を離す。


「あっ……。」


 マルグレット卿がどこかさびしげに声をらしたが、いつまでも抱き合っているひまはなかった。僕は振り返り、跪く。


「パトリシア殿下、このショルツ一生の願いです。どうか、マルグレット卿の不敬をお見逃しください。」


「なっ!」


 マルグレット卿がすっとんきょうに叫ぶ。


 しばらくの間船底に横たわったパトリシア殿下は動く気配を見せなかったが、僕がひざまずくのを止めないとみると、諦めたようにもぞもぞと身を起こした。


「ショルツ、お前はバカ正直というかなんというか……。私が寝たままで何も聞いておらんかったことにしたほうが百倍簡単だったろうに。」


 パトリシア殿下がじとっとした目を僕に向けてくる。


「いえ、未遂みすいとはいえ、命を狙っていたのです。殺されかけていた殿下に内密にするわけにはいきません。」


 パトリシア殿下が呆れとも感心ともとれぬ大きなため息をこぼした。背後でびくりとマルグレット卿が震えたのが分かる。


「確かに、命を狙われたからには責任を取ってもらわざるを得んな。が、かといってマルグレットやショルツほどの優秀な騎士を失うのは単純に主君として失格だ。

 よかろう、マルグレットを糾弾きゅうだんし、首をはねるなどはしまい。」


 よかった。僕は内心胸をでおろした。が、その後にパトリシア殿下が笑みを浮かべたのを見て嫌な予感がする。


「ただし! ショルツ、この恩は後々いろいろと返してもらうぞ。特に、私が私のすべきことに向き直るために、いろいろと手伝ってもらおう!」


 なにやらパトリシア殿下が楽しげに指を折っている横で僕は天を仰いだ。


 穴から見える空は青く、天高くに鳥が舞っている。


 晴れ晴れとした天気とは対照的に、僕の心は重くなった。また、面倒ごとに巻き込まれるに違いない。

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