第九章 その罪は誰がために
全てを済ませた後、ガウェインはやるせなさに叫び出したくなる衝動を抑えながら夜道を走り、パウエルの医院までやってきた。
あの緑色の液体。
あの匂いはまさしく、診察室で嗅いだ小瓶のものだった。
パウエルは確か『新しい特効薬』と言っていた。
もし、あの薬に予期しない副作用があったとしたら?
とうに閉められた医院のドアを力任せにこじあけ、暗い待合室に入る。
「おい、パウエル! 出てこい!」
叫ぶと、階段の上からパウエルが姿を現した。
もう深夜をまわっているにも関わらず仕事をしていたのか、まだ白衣をまとったままだった。
「その姿は……? 自分の血というわけではなさそうだね」
パウエルは警戒したように問いかける。
「あんたの患者の血だよ。あの緑の薬、今すぐ捨てろ」
「どうしてだい?」
「とんでもない欠陥があるからだよ!」
苛立ったガウェインが再び叫んだその時には、パウエルはすでに何が起きたのかだいたいの予測がついたようだった。
パウエルが纏っていた緊張感が消え、その表情が弛緩する。
「……あれはまさしく特効薬だよ。私の狙い通りによく効いてくれる」
「は……?」
ガウェインは呆然とパウエルを見上げた。
「君は事件の犯人を見つけたみたいだね。あの人狼はアンナ・ファーカーさんの恋人だ。数日前、腕を怪我して二人で私のところにやってきた。
とても仲が良さそうで、私の決心も揺らいでしまいそうだったのを覚えているよ。職場からの帰り道はいつも迎えにきてくれるのだと、アンナさんが話していたね。
簡単な手当をして、包帯を替える時に家であの薬を使うようにと処方した」
パウエルは笑みさえ浮かべ、階段を一歩ずつ降りてくる。
「全部知っててやったのか?」
ガウェインの語尾が震えた問いかけなど聞こえなかったかのように、パウエルが言葉を続ける。
「あの薬について教えてあげよう。大部分の人ならざるものに対しては、痛みを和らげ心を落ち着ける効果がある。
ただし――人狼の神経には少し変わった作用のしかたをするようでね。普段は無意識に抑え込んでいる獣の特性を、最大限にまで引き上げてくれる。月の出る夜はなおさら効果があっただろう」
「どうして……」
「人狼は人であり獣である存在だ。
他の人ならざるものとは違って、獣と人との間を常に不安定に行き来している。
いわば、両方の要素を強く併せ持つがゆえの脆弱性だね。
月の満ち欠けに影響されるのもそのせいだ。おそらくその特徴が――」
「お前の講義を聞きにきたわけじゃねえ。どうして、何のためにあんな薬を作った!」
牙を剥くと、パウエルはやっと笑みを消した。
「人狼は獣よりも恐ろしい獣だ。人里に降りてきたなら、駆除する必要がある。そうじゃないと……犠牲が出るんだ。妹のように」
「はあ? あんたの妹は不慮の事故で死んだんじゃなかったのか?」
「警察はそう判断した。でも違う!」
パウエルが激昂したように語気を荒くする。
「あの子は優しい子だった。医師の真似事をして、森の中に薬草を取りに行くのが好きで……森の中で出会った人狼と、友達になったのだと嬉しそうに語ってた。
でもある日、帰りが遅くなったんだ。森で迷子になったのかもしれない。私はそう思って、夕暮れの森に迎えに行ったよ。そこにいたのは、草むらの中で血を流し倒れたあの子だった。傍らには人狼がいたよ。爪も頬も、あの子の血に染まってた。
私が呆然としている間に、人狼は逃げていった。調査した警察は崖からの転落が死因だと言ってたけど、そんなのは嘘だ!
あの人狼が妹を殺した。獣が血肉を求めるのは自然なことだよ。でもそれなら、人と交流を持つべきじゃない」
ガウェインはつばを飲み込み、からからになった喉をなんとか潤した。
「もし、その話が本当だとしたら……それじゃあ、お前はなんであの薬を人狼に使ったんだ。被害者が出ることはわかってたじゃねえか」
「――あれは、必要な犠牲なんだよ」
パウエルが疲れたような笑みを浮かべる。
それは、今まで見た穏やかなものとは全く違っていて、パウエルを10も20も老けさせたようだった。
「私が人狼の危険性を訴えて、それがすんなり受け入れられると思うかい?
この国は、もはや半分人ならざるものたちに支配されてるんだ。実際に被害が明るみにでなければ、いつかは人狼も町で暮らすようになる。
森はこれから開拓されていくだろうからね。実際に、君をはじめとしてすでに町中に来始めているだろう?
このままでは、互いにとって悲劇を招く。これ以上の悲しみは止めなければいけない。
そのために、まずは私たち人間が犠牲を払わなくてはいけないんだ。
妹は優しい子だったから、最期にその危険性を世に示す役割を果たしてくれた。それが、あの子の人生での為すべきことだったんだよ」
「――なにを勝手なことを」
この男は狂っている。
一連の事件の犯人だったさっきの人狼よりも、よほど。
「君に知られてしまったなら、仕方がないね。私も最期に必要な犠牲の一人になろう」
そう言って、パウエルは白衣のポケットから小瓶を取り出した。
そこには緑の液体が満たされている。
「っ……」
ガウェインが身構えたその時、辺りに凜とした声が響いた。
「パウエル、そこを動くな」
開け放たれたままの医院のドアの方を見ると、そこには銃を構えたクライヴの姿があった。
「クライヴ。なんでここに……」
「気分転換に窓を開けたら、お前が脱走した形跡が見えた。外に探しに出てすぐ路地裏であれを見つけて……あとはお前の足跡を追った。血がついていただろう。
ここに来てからは、ドアの影に隠れて、お前に追い詰められたパウエルがすべて吐いて行動を起こすタイミングを伺っていた」
楽な役回りだけしやがって。
ガウェインが内心舌打ちをする。
「さっきまでの話も全部聞かせてもらった。お前も動くな」
言葉の後半は、ガウェインに向けられたものだった。
「……おい、まさか話を聞いた今も俺が犯人かもしれねえって思ってるのか?」
「違う。お前が暴走してパウエルに飛びかかるのを懸念してる」
「人を暴走癖があるみたいに言うな」
「自分の姿を見ろ」
クライヴが診察室の窓を示す。
ガウェインもガラスに映った自分の姿を見た。
牙を剥き、恐ろしい形相をした人狼が映っている。
あの人狼を手にかけてから、ずっと興奮していたらしい。
「……このままただ捕まるのは避けたいところだね。私にはまだ成すべきことがあるんだから」
パウエルが自嘲気味に呟いたかと思うと、素早く身を翻す。
クライヴがその姿を追ってすぐさま引き金を引くが、外れたようで、パウエルはそのまま奥にある診察室へと駆け込んだ。
「てめえ、今更逃げられると思うなよ!」
「待て!」
クライヴの制止よりも早く、ガウェインが診療室のドアを開ける。
その途端、医療用のハサミを持ったパウエルがガウェインに飛びかかった。
とっさに腕で急所を庇おうとしたその時、身体を強く突き飛ばされ床に倒れる。
「な……」
さっきまで自分が居た場所には、クライヴが立っていた。
小さなハサミが腕に突き刺さり、制服越しに血が滲んでいる。
「くっ……」
クライヴは力任せにそれを引き抜くと、パウエルを突き飛ばす。
パウエルの体は壁に打ち付けられ、床にくずおれた。
ガウェインはすかさずパウエルを立たせ、その腕を後ろから捻りあげる。
これでもう何もできないだろう。
ほっとしながら、クライヴの方を見る。
「言っとくけど、礼は言わねえよ。あんな小さなハサミ刺さったってどうってことねえっての。お前もぼやぼやしてねえでこいつに手錠を――」
そこまで言ってから、クライヴの様子がおかしいことに気づく。
「……一体何をした」
顔を覆った両手の隙間から、クライヴが絞り出すように言った。
ガウェインは、とっさにハサミが載っていたとおぼしき銀のトレーを見る。
その上には、空の小瓶と、緑色の液体が薄く広がっていた。
「刃先に『特効薬』を塗っただけだよ。傷口がないと効果がないからね。……でも、吸血鬼である君に効果はないはずなんだけど」
苦しそうに息をつき、顔をあげたクライヴの瞳は、いつもの灰青ではなく――濃い血のような赤に染まっていた。
◆
「……ああ、なるほど。クライヴくん、君はルムナウ病か。
確かあれも、吸血鬼と人の特性を強く併せ持つ者が発症する病気だったね。となるとこの薬は、人狼以外にも――不安定な存在にはこういう作用をするのか」
現実が急速に現実感をなくし、パウエルの言葉がどこか遠くで聞こえる。
体の奥底から湧き上がる熱にも似た飢えが、思考まで支配していった。
「冷静に分析するな! 解毒剤はないのかよ」
「ない。それはあくまでも薬だからね」
「くそっ、何が薬だ」
聞こえてくる言葉の意味が曖昧になる。
思考が曖昧になる。
クライヴの眼差しがパウエルに固定された。
呼吸とともに上下する喉元の皮膚。
あれを食い破れば、すぐにでも芳醇な匂いを放つ赤い血潮にありつける。
楽になれる。
――この男に対してなら許されるだろうか。
この男は罪人だ。血を飲み尽くして殺しても構わないのではないか。
誘惑じみた考えがぐるぐると頭を巡る。
あの男を咬めば。化物になりきってしまえば。この罪悪感からも逃れられる。
唇がめくれ上がり、普段は隠れている牙が現れた。
ふらりとパウエルへ一歩踏み出した時、ガウェインが耐えかねたように吠えた。
「――ふざけんじゃねえよ!」
ガウェインは無造作にパウエルの首に腕を回し、素早く頸動脈を抑える。
そしてあっけなく気絶したパウエルをクライヴから引き離すように遠くへ投げた。
その事実を認識するよりも先に、今度は自分が遠慮のない力で殴り飛ばされる。
起き上がるより先に、背中を踏みつけられて身動きを封じられた。
「そんなに血が欲しいならくれてやる。飲んで正気になれ、バカ!」
頬を生暖かいものが伝い、唇を伝っていく。
視線をあげると、ガウェインが掲げた拳から血がぽたぽたと顔の上に垂れてきた。
自らの爪で手の平の皮膚を破ったのだろう。
「こんな薬にやられて人間を襲うなんて、相手がどれだけクズでもお前みたいな奴には耐えられねえだろ」
けほ、と自然と咳き込む。
人間の血とは違って、悪酔いしそうな味だった。
その味に退けられるようにして、ほんの少しだけ、思考を覆っていた霞が晴れる。
本来なら吸血鬼が口にすることのない人狼の血は、一種の気付け薬のような役目を果たしたようだ。
「……まずい」
「は? なんだと?」
クライヴの唸るような呟きに、ガウェインが不服そうな声を上げる。
「どけ」
「うおっ!?」
片手でガウェインの膝裏に一撃入れる。
不意を突かれたガウェインはバランスを崩し、クライヴの横で床に尻餅をついた。
気づけばひどい渇きは幾分満たされ、瞳の赤が引いていく。
けれど刺された腕はじんじんと妙な熱を持ち、それに伴ってまた思考に靄が戻ってくる。
――このままではだめだ。またすぐにおかしくなる。
クライヴは唇を噛み、痛みで正気を繋ぐと、制服のジャケットを脱いでシャツの腕を引き裂く。
ハサミが刺さった箇所に目星を付け、そこに自分で思い切り噛みついた。
「お、おい」
動揺したようなガウェインの様子には構わず、周囲の肉ごと薬が入り込んだ傷痕を食いちぎり、床に吐き捨てる。
べしゃりと嫌な音を立てて床に落ちた肉片は、緑の液体に浸食されているのが見えた。
毒を吸い出すような応急処置だが、もう無理矢理本能を引き出されるような感覚はなくなっていた。
「正気か? それとも狂っちまったのか?」
「正気だ」
短く答え、破った袖でぞんざいに止血をしてから、壁に半ば背中を預けるようにして立ち上がる。
灼けるような痛みは無理矢理意識の外へと追い出した。
しばらく腕を動かすことはできないが、幸いもう無理矢理本能を引きずり出されるような感覚はない。
「そいつを拘束する。手伝え」
「あ、ああ」
ガウェインは尻餅をついたままこくこくと頷き、立ち上がってパウエルの元にむかった。
クライヴから手錠を受け取り、いまだ気絶したままのパウエルの両手を拘束する。
「それにしても、こいつの妹が人狼に殺されたなんてな」
ぽつりと零された言葉は、この男にしては珍しく酷く感傷的だった。
――そうか。
クライヴは今更ながら思い当たる。
この人狼は、森での暮らしを知らない。
誤解と思い込みから重大な過ちを犯したパウエルと同じように。
「人狼の葬式には、守り人が必要だ」
「は?」
「森の中で暮らす人狼は、森の獣たちの中では圧倒的な強者だ。ただし、死ぬまでは。死ねばその肉を他の獣たちに荒らされる。
だから人狼が死ぬと、葬式の準備が済むまで遺体の側に護衛の者がつく。つきっきりでな。
だから、パウエルが見た人狼も、友人であるパウエルの妹の遺体を偶然見つけて、誰かが来てくれるまで必死で守っていたのかも知れない」
「それって……手や顔に血がついてたのは、他の獣を撃退してたからってことか?」
「すべて推測でしかないが」
ガウェインは遠い日を思い出すように視線をさまよわせた。
「――それなら。それなら、あのときの俺も――」
少しの期待が込められた言葉は、ためらいの中に消えていく。
ガウェインが期待した可能性も、同じくまた推測でしかなく、なんの慰めにもならないと感じたのだろう。
クライヴはかける言葉を探したが、気の利いたものは見つからなかった。
ただ、この自分とは対局にいる男が、自分とよく似た恐怖を抱いていることはわかった。
自分の意思とは裏腹に人間を襲ってしまうかもしれないという恐怖。
幼い頃の事件の容疑を否認していても、記憶がない以上、自分自身への疑いが晴れることはない。
クライヴ自身の変化を目の当たりにしたガウェインもまた、クライヴが抱く恐怖に薄々気づいていることだろう。
「他の者を呼ぼう。お前には、報告書作りのため一緒に警視庁に来てもらう。いいな?」
「……ああ」
それ以上、今この場で必要な言葉はなかった。
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