第八章 慟哭する獣

 クライヴが事件の究明にいそしんでいる間、隣の部屋ではガウェインが限界を迎えていた。


「だめだ、死ぬ! 息が詰まって死ぬ!」


 ガウェインは枕を床に投げつけ、ベッドで足をばたつかせる。

 元々自由と孤独を好む性質だ。

 あの堅苦しくて顔が良いだけの陰気な吸血鬼――クライヴと、寝る時以外は常に一緒に居るような生活は、たとえまだ数日しか経ってなくともとてもじゃないが息ができない。


 夕方に子供たちと会話をしてすがすがしさを感じてしまったからこそ、そろそろ自分に限界が来ていることを自覚できた。


「かといって、この忌々しい首輪がある以上勝手に行動するわけにも……いや、待てよ? あいつが寝てる間なら平気なんじゃね?」


 夜のうちに抜け出して、パブにでも行き、クライブがまだ目覚めていない朝方に帰る。

 我ながら完璧な計画だった。


 思い立ってしまったからにはすぐに実行する必要がある。

 ガウェインは『警視庁の一時協力者への支給品』として与えられた上着に袖を通すこともなく、ボタンを3、4個開けたままのシャツをぞんざいに整えると、窓を開けて身を乗り出した。


 そのまま下に飛び降りようとしたところで、ちょうど眼下に物騒な鉄柵が敷き詰められていることに気づいた。


「危ね!」


 鋭い装飾がことごとく上を向き、まるで口を開けたサメの歯が並んでいるようにも見える。


「なんだよこれ、罠か? 殺意だろこんなの」


 そっと窓を閉めながら、クライヴの用意周到さに舌打ちをする。

 大家の趣味のガーデニングによる副産物だということは知るよしもなかった。

 ガウェインはくるりと部屋の中を振り返る。


「仕方ねえな。ちょっとめんどくさいが……やるか、あれ」


 

 1時間後、ガウェインは久方ぶりの自由を満喫していた。


「やっぱりあんな堅物と常に一緒ってのは耐えらんねえな!」


 労働階級がひしめくパブで、フィッシュ&チップスをつまみにビールを飲みながら、久々の解放感に酔いしれる。


 脱出の方法はこうだった。

 爪を利用してシーツを細く裂いてから端と端を結び、長い紐状になったそれを限界まで窓際に寄せたベッドの足に結びつけ重しとする。

 あとはその紐を窓から垂らし、伝って静かに滑り降りるだけだ。


 これは以前牢で隣になった脱獄常習犯から教わった方法だった。

 朝までに垂らしたままのシーツをたどって部屋に戻れば、クライヴにばれることもないだろう。

 あの涼しい顔をした男を出し抜けたと思うと、気分がよかった。


 ちなみに、八つ裂きになったシーツが見つかった時の言い訳などまるで考えていない。

 このあたりの浅慮ぶりが、ガウェインが何度も軽犯罪で逮捕された理由を如実に示していた。


 とはいえ、これは文字通り自分の首をかけた行動だ。

 万が一にも脱走がバレて、あの物騒なスイッチを押されるわけにはいかない。


 ガウェインは最後の一口を惜しむようにビールを口に流し込むと、少しだけ夜風を浴びてアパートに帰ることにした。

 異変を感じたのは、アパートのすぐ側に来た時だった。

 出て来た時にはなかった匂いが、かすかに風に乗って届いてきた。


「これは……血か?」


 そして、それにかき消されるようにほのかな、どこかで嗅いだことのある異臭。

 頭上に輝く満月が、不吉な予感を倍増させた。

 知らぬふりをしてアパートに戻ろうかと一瞬迷う。

 しかし夕方に会った子供たちの顔がちらつき、ガウェインは頭を掻いた。


「……くそ、面倒だな」


 踵を返して、匂いをたどる。

 そうしているうちに月が雲に隠れ、あたりに濃い暗闇が訪れた。

 道を何度か曲がって、やがて狭い路地裏にたどり着いた。


 歩みを進めるごとに、嫌な臭いと、すすり泣きのような声が近づく。

 路地の突き当たりまで来ると、暗い闇の中で誰かが身を震わせて泣いている背中が見えた。

 男にしても大きい背中。シャツの下からわずかに見える手には、動物の毛が生えているのが見えた。


「……おい。何やってんだ? あんた」


 ガウェインが静かに声をかけると、男がゆっくりと振り向く。

 その腕の中には、すでに事切れているとわかる少年が横たわっていた。

 あたりに飛び散った黒は、月明かりに照らされれば赤に変わるだろう。


「あ……ああ……どうして……。俺はなんてことを……」


 人狼は頭を抱え、亡骸の上に涙をこぼす。


「お前がやったのか?」

「違う! ……いや、そうだ。でも俺の意思じゃない。こんな、こんな惨いこと……俺を人狼と知っても受け入れてくれたアンナさえこの手にかけるなんて」


 ――アンナ。

 一瞬間を置いて、一人目の被害者のことだと気付いた。

 男が覚束ない足取りで立ち上がり、すがるようにこちらに近づく。

 伸ばされた腕に包帯が巻かれていた。


「殺してくれ。月が雲に隠れている今のうちに。俺を殺してくれ!」

「落ち着け。説明しろ」

「お願いだ。早く、早くアンナの元に逝かせてくれ。俺が完全に俺じゃなくなる前に」


 その瞬間、雲が切れ、路地裏に月光が射し込んだ。


「あ……ああっ……!」


 うめき声を上げた男の包帯の下から、緑色の液体がどろりと溶ける。

 この匂い。このせいで、こいつはおかしくなってる。

 ガウェインはそう直感した。

 この奇妙な液体が、この男に、自身の何よりも大切な存在を殺させた。


 ◆

 

 ガウェインに大切な存在はいない。

 作る気も起きなかった。友達も、恋人も。

 幼い日の事件は、もちろん身に覚えがない。

 あの日あの時以前の記憶は綺麗さっぱりなくなっている。


 でも、もし本当に自分が犯人だったとしたら。

 正気をなくして、ただの獰猛な獣に成り下がって血肉を求めてしまったのだとしたら。

 そしてもし――あの遺体の山の中に、自分にとって大切な存在がいたとしたら。


 遺体の山の側で途方に暮れるところから、ガウェインの人生の記憶は始まっている。

 だからあの時になぜか感じた、とてつもなく悲しくて切なくて、宝物をなくしてしまったような気持ちは、ガウェインに否応なく最悪の想像を促した。


 記憶を持ったまま同じ過ちを犯すようなことがあれば、自分は生きていけるだろうか。

 いや。死んだ方がましだ。

 だからもしいつか記憶を取り戻して、自分の最悪の想像があたってしまったら、その時は――。


 ◆

 

 目の前の男は、もう一人の自分だ。

 ガウェインは束の間の物思いから浮上し、男を真っ直ぐに見据える。

 この男は記憶を無くすこともできず、抜け殻となったまま、ただ獣の本能に従うしかない。


 このまま生きていても壊れていくだけだ。

 男を狂気に走らせた原因が取り除かれたとしても、自分のしたことに内側から蝕まれ続けるだろう。


 それなら、引導を渡してやる方がずっといい。

 なるべくひと思いに。苦痛のないように。きっとこの男はもう充分に苦しんだから。


 ざわり、とガウェインの身体が揺らぐ。

 薄い唇から鋭い牙が覗き、肉を引き裂くための爪が伸びる。


「あんたの無念、必ず晴らしてやるよ。だから――安心して眠れ」

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