Bubbles Love ~トーチリリーのわずらい~
ふりったぁ
Bubbles Love ~トーチリリーのわずらい~
こぽり、と
小さな泡の群れは緩やかに眼前を通り、空へと昇っていく。見失うのは一瞬だった。
水色の空には画筆で描いたかのように薄く伸びた白い雲が漂っている。初夏に差し掛かった季節だというのに朝方はまだ寒い。
「ウタァ、まーた空見てんのか」
背後から小生意気な声をかけられても、
声を掛けてきた人物は反応のない
「おはよ」
「おう、おはよーさん」
耳の上で切り揃えた黒い短髪に小さくて丸い目。極端に整ってはいないが女性受けする顔つきであり、他人に壁を作らない性格もあってムードメーカーのような人物である。
「今日は何が見えてんの」空を眺めながら
「クジラ」
「魚かぁ」
「クジラは哺乳類」
「大きいのか?」
「大きいね」
「どんくらい?」
「ヤバいくらい」
「何色?」
「夕日色」
ここまでの会話は二人にとって挨拶代わりの応対でしかなく、中身なんて詰まっていない。昨日はクラゲ、一昨日はエイ。カメと答えたこともある。今日の
「今日の英語の小テスト、自信ある?」
「単語だけなら、そこそこ」
「さてはラスト二問の英文捨ててんな?」
「単語間違えなきゃ合格ライン越すし。文句ある?」
「ないけど、単語すら覚えられないオレはどうすりゃ良いと思う?」
「赤点取れば良いと思う」
「無慈悲」
ガクリと肩を落とす
「英語より地理の心配でもしたら? 問題当てられんの
「あー……忘れてた。最悪。ウタ、ノート見せて」
「嫌だし。つか、女子のノート見るとか最低じゃん。だから
「そこまで言う?」
当たり前でしょ、と
字の癖、ペンの使い分け、授業のまとめ方。たまに描く暇潰し程度の落書きはすぐに消しているから問題ないにしても、紙面上には
だから
――ウタの字めっちゃきれいで、まとめ方も上手くて判りやすかったわ。さんきゅーな
笑顔でそう感謝されて以来、
「ウタの字めっちゃきれいで、ノートのまとめ方も上手くて判りやすいから好きなんだけどなー」
「は? 絶対貸さない」
「何でキレてんだよ」
「
小さな
「ばーか」
こぼれ出ていく泡のことをシャボン玉みたいだと思った時期もあったが今は無色で、鮮やかな虹色とは程遠い。故意に生み出されるものではないところが決定的だ。シャボン玉は作り手の居る娯楽であり、この泡は勝手にあふれる
可愛らしい空想だったと思う。
「馬鹿って言うほうが馬鹿っぽいぞ」
言い返してくる
「はいはい。わたしは馬鹿ですよ」
「流すなよ。売られた喧嘩を買えよ。寂しいだろ」
「そういうとこだし馬鹿」
「ウタちー、マレくーん、おっはよー」
十字路の角から現れたクラスメイトの
おはー。おはよーさん。各々のタイミングで挨拶を返せば、
「まぁーた朝から
「ウタがさっさと歩かないから行き合っただけ」
「後から来た
「はいはい。そうだね、ご馳走様」
「コト、そこは流すなよ。何かしらいじってくれよ」
「
「無視はやめてマジで」
「あー、ホント二人共おもしろい」
この十字路で
部活の自主練習があるからと誰よりも早く校庭に居ることもあれば、十字路を過ぎ校門が見えてくる辺りで「寝坊したーっ」と半泣きで走りながら二人を追い越していくこともある。
だから
「なぁコト、地理のノート見せて。今日オレ問題当てられる」
「えーっ。嫌だしー。タキのんに見せてもらいーよ」
「あいつが律儀に
「偏見だ。ウタちー、マレくんがクラスメイトに偏見持ってる。最低だ」
「
「なんでお前らオレを貶める時いつも生き生きしてんの? 授業爆睡常習犯のタキがきれいにノート写してたら、逆に尊敬の眼差しを向けるって」
「確かに。そうだったらあたしもタキのん尊敬する」
「わたしも」
「そういう訳でノート……」
なおも縋ろうとする
「購買のアップルパイ、ふたつ」
一拍置いて、
「ふっかけようったってそうはいかねーよ。ひとつだ」
「ふーたぁーつー」
「コトは昼にパンひとつしか食べねぇ少食さんだろ。アップルパイなんかふたつあっても余らかすだけだって。もったいねーよ、ひとつにしとけ」
「もったいなくないし! あたしとウタちーの分でふたっつなの。これは譲れないっ」
「オレとコトの交渉にウタは関係ないだろ」
「そうだよ
「ノート絶対貸さん宣言したやつは黙ってろ。つーか注文つけんな
「
「
「ってかマレくん選択の余地なくない? あたしらマレくんが問題答えられんくても困らんし」
「援護射撃くらいしかできないよ」
「援護射撃?」
「こいつ前回の授業でスマホのアプリゲームやってました。だからノート写してないんです」
「お前――見てたのか」
「わたしの席から丸見えだし」
「あーっ。なるほど、告げ口!」
「判った、判ったよ。購買のアップルパイとスコーンだな。追加あんなら今のうちだぞ」
「マジで? やったねウタちー。言ってみるもんだよ」
白い歯を惜しみなく晒して
知り合ったばかりの頃からそうだった。どんな髪型であろうと手入れに余念がなく、だから
――ちょっとだけ羨ましいんだよね
隣の芝生は青いとはまさにこのこと。
「じゃあじゃあ、クッキー。購買のおばちゃんお手製のやつ。アールグレイ味ね。んー、ダージリンも捨て難いけど……やっぱアールグレイでしょ!」
「おっけー、アールグレイな。四個入りのやつ?」
「そうそう。四個入りで、黄色いリボン付いてるやつ。青がダージリンね。あっ、でも黄色と青を一個ずつでも良いよー。あたしクッキーなら何個でも食べられるし」
「一気に食ったら一気に太るんじゃね?」
「は? マレくんそういうこと面と向かって言うから女子にモテないんよ」
「うわっ、
「面倒くせぇなあ女子!」
笑い声をあげる
まっすぐ空へ昇っていく泡と、その周囲を
泡の軌道をぼんやりと目で追っていけば、水色の空が途端に水面のように見え、水没した住宅街を歩いている錯覚を起こさせる。
――あぁ、このきれいさが正しいんだろうな
いっそ嫌ってくれたほうが楽なこともあるのだ。
「アップルパイで思い出したけど、来週末ソフトテニス部が練習試合なんだって。ミコちーが言ってた」
「それはオレも別のやつから聞いたけど……アップルパイとソフトテニスに何の関連性があんだよ」
「ミコちーがアップルパイ好きだから」
「実にシンプルな連想。さすがコト」
「んんっんんー? 馬鹿にしてない?」
じとりと半目で
「いやいやまさか、そんな。つーかあいつ前に話したとき、果物苦手っつってた気がすんだけど。本当にアップルパイ好きなのか?」
「あー、
「目を
「アップルパイは何の問題もなく食べれんのにねー」
「そういうのは、ほら、あれだ。果物じゃないって思い込むのが重要なんじゃね? アップルパイは果物じゃないからイケる的なやつ。実際のところありゃパイだろ。タカも言ってたぜ。メロンは食えねーがメロンパンは何個でもイケる! って」
「いやあ……えぇ……」
「なんかさぁ……タカちの言うことってビミョーに焦点がズレてんだよねぇ……知ってる? メロンパンってね、メロン使ってないの。名前の由来にメロンは無縁なの。わかるー?」
「言い聞かせるなら憐れみの目を伴ってタカ本人にどーぞ」
「タカちは天然が強すぎてちょっと……」
「コトを以てして引かれるタカのヤバさ、ヤベーな」
「マレくんの語彙力の低さもだいぶやべえと思うよ。ねーウタちー。……ウタちー? どしたの?」
数歩ほど離れた位置で
「ごめん。忘れ物した。家に戻る」やや早口で
「えっ。でもウタちー、校門もう目の前――」
「大丈夫。ごめん。取ってくる」
言いながら
「取ってくるって、ウタ、一限の数学に間に合わねぇぞ」
「一限捨てる」
「お前そんなざっくばらんと」
「大丈夫、ホントに大丈夫。わたし
「息を吐くようにオレを
「慌てていても完璧な
「うん、ありがと。ごめんね。なんか、腹痛とかテキトーに言い訳しといて」
そして言い終わるや否や
実のところ
「……はぁ、はぁ……は……」
全力で走っている間は邪魔でしかなかった鞄をようやく床に下ろすと、どしん、と大きな音が出た。それから数秒、
おもむろに身じろぎをして仰向けになる。
――最悪だ
見たくないものを見た。
知りたくないことを知った。
子ども同士でも信じてはもらえず、次第に
――ウタにはウタにしか見えないものがあって羨ましいな!
そう目を輝かせて言ったのは幼い頃の
空を眺めていると「今日は何が見えてるの」と
成長するにつれて
「はぁ、はぁ……」
呼吸が落ち着くにつれて目頭が熱くなっていく。
何をきっかけにして泡が噴出するのか、それを
以来、
いつから変わってしまったのか。今では陽光に透けても無色で、無機質で、空へ昇っていくだけの
周囲の人々みたいに鮮やかでもなければ可憐でもない。視界を遮ることもあって忌々しいことのほうが多くなっていたというのに。
――ウケる。わたし、傷付いたんだ
クラスメイトと話をしているときも、
鈍いとも異なる、興味の薄さと呼ぶべきか。虹色の泡を抱えていた頃は胸中穏やかでいられなかったものだが、昨今ではそんなところが
――つーかあいつ前に話したとき、果物苦手っつってた気がすんだけど
同級生の
見間違いかと
極小の泡は断続的に現れ、次第に数を増やしながら、色を認識できる程度の大きさにまで変化していく。時を同じくして水面に差し込む
その瞬間に
ごぼり。
ごぼごぼと大きな泡が一斉に飛び出してきて、反射的に
泡と泡が混ざり合い、表現し難い形を成してもやはり無色に変わりなく。授業で見た微生物のように蠢きつつ天井にぶつかると、暫しその場を漂ってから
――まるで溺れてるみたい
泡という指針を持つがゆえに、泡を出さない
自分を傷付けたのは、自分自身だ。
きっとこれからは空を眺めることもなくなるのだろう。
けっきょく
Bubbles Love ~トーチリリーのわずらい~ ふりったぁ @KOTSUp3191
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