Bubbles Love ~トーチリリーのわずらい~

ふりったぁ

Bubbles Love ~トーチリリーのわずらい~

 こぽり、と気泡きほうが出る。


 小さな泡の群れは緩やかに眼前を通り、空へと昇っていく。見失うのは一瞬だった。


 水色の空には画筆で描いたかのように薄く伸びた白い雲が漂っている。初夏に差し掛かった季節だというのに朝方はまだ寒い。


 詩子うたこは鼻を啜った。ツンとした痛みが鼻腔びこうの奥を突いた。


「ウタァ、まーた空見てんのか」


 背後から小生意気な声をかけられても、詩子うたこは空を眺めたまま動かなかった。こぽこぽと自分の口からこぼれた泡を黙って眺め続ける。


 声を掛けてきた人物は反応のない詩子うたこに気分を害した様子もなく歩み寄り、彼女の隣に立った。そこでようやく詩子うたこは横を向く。伴って気泡きほうの群れが僅かに揺めき、一瞬だけ柔らかな曲線をえがいた。


「おはよ」

「おう、おはよーさん」


 詩子うたこより少々背の高い彼は近所に住んでいる幼馴染、ほまれである。


 耳の上で切り揃えた黒い短髪に小さくて丸い目。極端に整ってはいないが女性受けする顔つきであり、他人に壁を作らない性格もあってムードメーカーのような人物である。


 詩子うたことは軽口を叩き合う程度に気を許した仲で、今年、中学二年生に進級した折に数年振りの同クラスとなった。とはいえ通学路が小学校時代から共通であるため、顔を合わせないことのほうが少なかったのだが。


「今日は何が見えてんの」空を眺めながらほまれが尋ねる。


「クジラ」

「魚かぁ」

「クジラは哺乳類」

「大きいのか?」

「大きいね」

「どんくらい?」

「ヤバいくらい」


 詩子うたこが言うと、「そりゃヤベーな」ほまれが小さく笑った。嫌味のない笑い方だったが、多少の呆れは混ざっていたのかもしれない。


「何色?」

「夕日色」


 詩子うたこほまれの問いかけに答えてから歩き出す。「嘘だけど」


 ほまれはきょとんとした顔で詩子うたこの背中を見ていたが、すぐにまた彼女の隣に並んだ。


 ここまでの会話は二人にとって挨拶代わりの応対でしかなく、中身なんて詰まっていない。昨日はクラゲ、一昨日はエイ。カメと答えたこともある。今日の詩子うたこはクジラの気分だった。それだけのことだ。


「今日の英語の小テスト、自信ある?」


 ほまれからの新たな問いかけに詩子うたこは肩を竦める。重量のある鞄が微かに揺れた。


「単語だけなら、そこそこ」

「さてはラスト二問の英文捨ててんな?」

「単語間違えなきゃ合格ライン越すし。文句ある?」

「ないけど、単語すら覚えられないオレはどうすりゃ良いと思う?」

「赤点取れば良いと思う」

「無慈悲」


 ガクリと肩を落とすほまれの様子を眺めながら詩子うたこはさらに言葉を続ける。


「英語より地理の心配でもしたら? 問題当てられんのほまれからだよ」

「あー……忘れてた。最悪。ウタ、ノート見せて」

「嫌だし。つか、女子のノート見るとか最低じゃん。だからほまれモテないんだよ」

「そこまで言う?」


 当たり前でしょ、と詩子うたこは胸中にて悪態をつく。


 字の癖、ペンの使い分け、授業のまとめ方。たまに描く暇潰し程度の落書きはすぐに消しているから問題ないにしても、紙面上には詩子うたこの個性が端から端まで詰まっているのだ。


 だから詩子うたこは他人に、特にほまれにノートを見せるのが嫌だった。たった一度だけ、不承不承ながらに貸したこともあったが――。


――ウタの字めっちゃきれいで、まとめ方も上手くて判りやすかったわ。さんきゅーな


 笑顔でそう感謝されて以来、ほまれには一生手紙も出すものかと誓っていた。


「ウタの字めっちゃきれいで、ノートのまとめ方も上手くて判りやすいから好きなんだけどなー」

「は? 絶対貸さない」

「何でキレてんだよ」

ほまれが馬鹿だからだよ」


 小さな気泡きほうが詩子の口元からあふれ、二人の間を抜けて空へ昇る。


「ばーか」


 こぼれ出ていく泡のことをシャボン玉みたいだと思った時期もあったが今は無色で、鮮やかな虹色とは程遠い。故意に生み出されるものではないところが決定的だ。シャボン玉は作り手の居る娯楽であり、この泡は勝手にあふれるわずらいでしかない。


 可愛らしい空想だったと思う。詩子うたこの泡は、シャボン玉ほどの清らかさも美しさも持ち合わせていないのだ。


「馬鹿って言うほうが馬鹿っぽいぞ」


 言い返してくるほまれ詩子うたこは片手を振りながら投げやりな言葉を返す。


「はいはい。わたしは馬鹿ですよ」

「流すなよ。売られた喧嘩を買えよ。寂しいだろ」

「そういうとこだし馬鹿」

「ウタちー、マレくーん、おっはよー」


 十字路の角から現れたクラスメイトのことがこちらを見て手を振ってきたため、二人は一旦言葉の応酬おうしゅうをやめた。


 おはー。おはよーさん。各々のタイミングで挨拶を返せば、ことはニンマリと悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「まぁーた朝から夫婦めおと漫才してんの? ホント仲が良いよねぇ」

「ウタがさっさと歩かないから行き合っただけ」

「後から来たほまれがせわしなく歩いてきたせい」

「はいはい。そうだね、ご馳走様」

「コト、そこは流すなよ。何かしらいじってくれよ」

ことちゃん、ほまれの言うことは無視して良いよ」

「無視はやめてマジで」

「あー、ホント二人共おもしろい」


 ことは笑いながら詩子うたこの隣に並ぶ。詩子うたこを中央にして道路側をほまれ、反対側をことが歩くのはいつの間にか決まった彼女達の並び方だった。


 この十字路でことが合流し、三人一緒に登校するというのは日頃からしばしばあることだ。ただし、家を出る時間がおおむね決まっている詩子うたこほまれとは違い、ことの朝は不規則である。


 部活の自主練習があるからと誰よりも早く校庭に居ることもあれば、十字路を過ぎ校門が見えてくる辺りで「寝坊したーっ」と半泣きで走りながら二人を追い越していくこともある。


 こと詩子うたこ達を面白いと言うが、詩子うたこにしてみるとことのほうが何倍も見ていて飽きなかった。そしてそれはおそらくほまれも同じだろう。


 だからほまれことのことを嫌っていないと、詩子うたこも密かに理解している。


「なぁコト、地理のノート見せて。今日オレ問題当てられる」

「えーっ。嫌だしー。タキのんに見せてもらいーよ」

「あいつが律儀に板書ばんしょ写してる訳ねーじゃん」

「偏見だ。ウタちー、マレくんがクラスメイトに偏見持ってる。最低だ」


 こと詩子うたこの肩にもたれかかって非難の声をあげた。ならばと詩子うたこも便乗する。


ほまれさいてー。滝斗たきとくんに謝れー」

「なんでお前らオレを貶める時いつも生き生きしてんの? 授業爆睡常習犯のタキがきれいにノート写してたら、逆に尊敬の眼差しを向けるって」

「確かに。そうだったらあたしもタキのん尊敬する」

「わたしも」

「そういう訳でノート……」


 なおも縋ろうとするほまれに対し、ことは身を乗り出しながらとびきりの笑顔を向けた。


「購買のアップルパイ、ふたつ」


 一拍置いて、ほまれも負けじと一笑した。


「ふっかけようったってそうはいかねーよ。ひとつだ」

「ふーたぁーつー」

「コトは昼にパンひとつしか食べねぇ少食さんだろ。アップルパイなんかふたつあっても余らかすだけだって。もったいねーよ、ひとつにしとけ」


 詩子うたこはさり気なく半歩後ろに下がって二人のやりとりを眺める。その折、ぽこぽことことの口から無数の泡が舞い上がるのを見たが、何も気付かなかったふりをした。


「もったいなくないし! あたしとウタちーの分でふたっつなの。これは譲れないっ」

「オレとコトの交渉にウタは関係ないだろ」

「そうだよことちゃん、わたしスコーンが良い」

「ノート絶対貸さん宣言したやつは黙ってろ。つーか注文つけんな太々ふてぶてしい」

ほまれ、字面がセクハラ」

太々ふてぶてしいって単語に謝れ」

「ってかマレくん選択の余地なくない? あたしらマレくんが問題答えられんくても困らんし」


 ことが同意を求めて詩子うたこを見る。はたして詩子うたこは頷いた。


「援護射撃くらいしかできないよ」


「援護射撃?」ことが首を傾げたので、詩子うたこほまれを指差した。


「こいつ前回の授業でスマホのアプリゲームやってました。だからノート写してないんです」

「お前――見てたのか」

「わたしの席から丸見えだし」

「あーっ。なるほど、告げ口!」


 ことが勢いよく両手を合わせたところでいよいよほまれが降参した。


「判った、判ったよ。購買のアップルパイとスコーンだな。追加あんなら今のうちだぞ」

「マジで? やったねウタちー。言ってみるもんだよ」


 白い歯を惜しみなく晒してことはまた笑う。陽光に焼けた明るい茶色混じりの黒髪がさらりと宙を泳いだ。ワンレングスに整えられたそのボブヘアーは如何なるときも、例えば早起きした日も寝坊した日でも崩れたことはない。


 知り合ったばかりの頃からそうだった。どんな髪型であろうと手入れに余念がなく、だからことの髪はいつ見ても柔らかできれいなのだ。


――ちょっとだけ羨ましいんだよね


 詩子うたこは自身の癖毛に指を絡めた。もちろん詩子うたことて手を抜いている訳ではない。ただ、いくらことと同じくらい手間をかけようとも、地毛の性質だけはなかなか覆らないのだ。


 隣の芝生は青いとはまさにこのこと。ことは自然にウェーブを作る詩子うたこの髪を羨んでいたが、詩子うたこは陽光に映えて美しいことの直毛に憧れていた。


「じゃあじゃあ、クッキー。購買のおばちゃんお手製のやつ。アールグレイ味ね。んー、ダージリンも捨て難いけど……やっぱアールグレイでしょ!」

「おっけー、アールグレイな。四個入りのやつ?」

「そうそう。四個入りで、黄色いリボン付いてるやつ。青がダージリンね。あっ、でも黄色と青を一個ずつでも良いよー。あたしクッキーなら何個でも食べられるし」

「一気に食ったら一気に太るんじゃね?」

「は? マレくんそういうこと面と向かって言うから女子にモテないんよ」

「うわっ、ほまれさいてー。セクハラー」

「面倒くせぇなあ女子!」


 笑い声をあげることの口から気泡きほうがあふれる。


 まっすぐ空へ昇っていく泡と、その周囲を螺旋状らせんじょうに巡る泡。ときおり、ぷかりと浮かぶ大きめの泡がまるで生命を宿したかのような動きで漂い、詩子うたこの傍へと寄ってくる。そして詩子うたこからこぼれる無色の泡に触れると一緒にくるくる回りながら上昇し始めた。


 泡の軌道をぼんやりと目で追っていけば、水色の空が途端に水面のように見え、水没した住宅街を歩いている錯覚を起こさせる。


――あぁ、このきれいさが正しいんだろうな


 ことの魅力はこんな些細なところでも輝きを放つ。ただの可愛らしい空想を、共に分かち合おうとする慈悲を見せる。まだ美しい。まだきれい。詩子うたこわずらいを連れて踊ることの泡は愛着と友愛の均衡を保ち続けている。


 詩子うたこはそれが羨ましく、悲しかった。

 いっそ嫌ってくれたほうが楽なこともあるのだ。


「アップルパイで思い出したけど、来週末ソフトテニス部が練習試合なんだって。ミコちーが言ってた」

「それはオレも別のやつから聞いたけど……アップルパイとソフトテニスに何の関連性があんだよ」

「ミコちーがアップルパイ好きだから」

「実にシンプルな連想。さすがコト」

「んんっんんー? 馬鹿にしてない?」


 じとりと半目でほまれを睨むことほまれは慌てて目を逸らした。


「いやいやまさか、そんな。つーかあいつ前に話したとき、果物苦手っつってた気がすんだけど。本当にアップルパイ好きなのか?」

「あー、なまだと駄目みたいだねぇ。火が通ってると大丈夫っぽい。コンポートも目をつむれば食べれるって」

「目をつむる必要はあるんだな」

「アップルパイは何の問題もなく食べれんのにねー」


 ほまれは視線を上に向けながら頭を搔く。


「そういうのは、ほら、あれだ。果物じゃないって思い込むのが重要なんじゃね? アップルパイは果物じゃないからイケる的なやつ。実際のところありゃパイだろ。タカも言ってたぜ。メロンは食えねーがメロンパンは何個でもイケる! って」

「いやあ……えぇ……」


 ことは顔を顰め、引きつった表情を浮かべた。


「なんかさぁ……タカちの言うことってビミョーに焦点がズレてんだよねぇ……知ってる? メロンパンってね、メロン使ってないの。名前の由来にメロンは無縁なの。わかるー?」

「言い聞かせるなら憐れみの目を伴ってタカ本人にどーぞ」

「タカちは天然が強すぎてちょっと……」

「コトを以てして引かれるタカのヤバさ、ヤベーな」

「マレくんの語彙力の低さもだいぶやべえと思うよ。ねーウタちー。……ウタちー? どしたの?」


 数歩ほど離れた位置で詩子うたこがピタリと立ち止まっていることに気付いてことが足を止める。ほまれも何事かと詩子うたこのほうを振り返った。


「ごめん。忘れ物した。家に戻る」やや早口で詩子うたこは言った。


「えっ。でもウタちー、校門もう目の前――」

「大丈夫。ごめん。取ってくる」


 言いながら詩子うたこは後ずさりしている。すぐにでも駆け出したい様子が二人にも伝わった。


「取ってくるって、ウタ、一限の数学に間に合わねぇぞ」

「一限捨てる」

「お前そんなざっくばらんと」

「大丈夫、ホントに大丈夫。わたしほまれと違って態度も成績も良いし。先生ウケ良いから何とかなるし」

「息を吐くようにオレをおとしめるのやめろ」

「慌てていても完璧な夫婦めおと漫才、ご馳走様です」

「うん、ありがと。ごめんね。なんか、腹痛とかテキトーに言い訳しといて」


 そして言い終わるや否や詩子うたこは踵を返し、登校する生徒達の中を逆走し始めた。気を付けてねーと労わることの声が背中にまとわりつく。しかし愛想を返す余裕はすでになくなっていた。


 実のところ詩子うたこは走ることがあまり得意ではない。ゆえにすぐさま息が上がり、喉と胸の辺りが苦しみに圧迫されていく。だがそれは、おそらく、突然走り出したことだけが原因ではないのだろう。


 詩子うたこの短い呼吸に合わせて滑り、こぼれ落ちる泡の群れは乱れた軌道をえがきながら空へと呑まれていった。



 詩子うたこの両親は共働きである。祖母も同居しているが数日前から友人と旅行へ出掛けているため、詩子うたこが戻ってきても出迎えてくれる人は居なかった。もちろんそのほうが今は好都合だ。


「……はぁ、はぁ……は……」


 詩子うたこは額や首筋に浮かぶ汗を拭うともせず、手持ちの鍵で玄関を開けて帰宅する。内鍵を閉めた後は乱暴に靴を脱ぎ捨て、大股で歩きながら一直線に自室へと向かった。


 全力で走っている間は邪魔でしかなかった鞄をようやく床に下ろすと、どしん、と大きな音が出た。それから数秒、詩子うたこは荒い呼吸のまま立ち尽くしていたが、やがて倒れ込むようにしてベッドの上に転がった。


 おもむろに身じろぎをして仰向けになる。生成きなり色の天井が視界一面に広がった。


――最悪だ


 詩子うたこの動きに合わせて掛け布団が音を立てる。折り目の整った制服のスカートも今の所作でれてしまったことだろう。皺になるから注意してと母親に口酸っぱく言われていたが、詩子うたこは気にせず足を折り曲げた。


 見たくないものを見た。

 知りたくないことを知った。


 詩子うたこは物心ついた頃から泡が見えていた。しかし理由も原理も不明であり、大人に相談しても「子どもの空想」と判じられてまともに耳を傾けてはもらえなかった。


 子ども同士でも信じてはもらえず、次第に詩子うたこはこのことを他人に打ち明けなくなった。


――ウタにはウタにしか見えないものがあって羨ましいな!


 そう目を輝かせて言ったのは幼い頃のほまれくらいである。だから詩子うたこほまれにだけは泡の話をしていた。


 空を眺めていると「今日は何が見えてるの」とほまれが尋ねてくるので、詩子うたこも理解者の居る喜びに浸りながら答えを返す――そんな時期もあったのだ。


 成長するにつれて詩子うたこは泡のことを語らなくなり、伴ってほまれも自然とその話題には触れなくなった。そうして二人は秘密を共有し合う仲ではなく、ただの幼馴染に戻っていった。


「はぁ、はぁ……」


 呼吸が落ち着くにつれて目頭が熱くなっていく。


 何をきっかけにして泡が噴出するのか、それを詩子うたこが理解したのは小学校四年生の頃だ。いつものようにほまれと話をしているときに、ぽこり、とあの泡が自分の口から出てきたのである。


 以来、ほまれのことを考えていると泡があふれ出たため、詩子うたこも理解せずにはいられなかった。きれいな虹色の泡だった。空へ消えていくのがもったいないと思うほどで、手放し難い宝石のようにも感じていた。


 いつから変わってしまったのか。今では陽光に透けても無色で、無機質で、空へ昇っていくだけのわずらいである。


 周囲の人々みたいに鮮やかでもなければ可憐でもない。視界を遮ることもあって忌々しいことのほうが多くなっていたというのに。


――ウケる。わたし、傷付いたんだ


 詩子うたこほまれの口から泡が出る瞬間を見たことがなかった。


 クラスメイトと話をしているときも、詩子うたこことと他愛もない話で盛り上がっているときも、教師の話やテレビに出る俳優の話をしたときでさえ見かけた試しがない。


 鈍いとも異なる、興味の薄さと呼ぶべきか。虹色の泡を抱えていた頃は胸中穏やかでいられなかったものだが、昨今ではそんなところがほまれらしいと気にも留めなくなっていた。


 ほまれの性格に胡座をかいていたと言っても過言ではない。甘えていた。盲信していた。一方的な関係と自己愛に酔っていたのだろう。


――つーかあいつ前に話したとき、果物苦手っつってた気がすんだけど


 同級生の御子柴みこしばについての話題になった直後、小さな小さな、よく見ていなければ見逃しかねないくらい小さな泡が――ほまれの口からふわりと出た。


 見間違いかと詩子うたこはさらに目を凝らす。その疑念が決定的な瞬間を目撃させた。


 極小の泡は断続的に現れ、次第に数を増やしながら、色を認識できる程度の大きさにまで変化していく。時を同じくして水面に差し込む光芒こうぼうの如く、建物の間から降り注いだ陽光がほまれことを一瞬照らした。


 その瞬間にほまれの口からこぼれた泡は、清らかで美しい虹の――。


 ごぼり。


 ごぼごぼと大きな泡が一斉に飛び出してきて、反射的に詩子うたこは口元を抑えた。その振動で目尻に溜まっていた涙が滑り落ちる。


 泡と泡が混ざり合い、表現し難い形を成してもやはり無色に変わりなく。授業で見た微生物のように蠢きつつ天井にぶつかると、暫しその場を漂ってから生成きなり色の空をすり抜けていった。


――まるで溺れてるみたい


 詩子うたこはぼんやりと思う。そうだ。ずっと溺れていたのだ。大海の底で、浮かび上がれないほどの感情に押し潰されて。ずっと昔から詩子うたこほまれの隣で動けずにいた。


 泡という指針を持つがゆえに、泡を出さないほまれに本音を渡すことが恐ろしく、ならばせめてこの距離に甘んじていられたら良いとさえ思っていた。


 自分を傷付けたのは、自分自身だ。

 きっとこれからは空を眺めることもなくなるのだろう。



 けっきょく詩子うたこが登校したのは、三限が始まる少し前の休み時間だった。

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