第33話

 鐘の音がきこえる。

 三年間、何度も耳にした。王立魔法魔術学院のチャイムだ。

 急いで清掃に回らなければ。だが仕事道具が見つからない。どこかに置いてきてしまったのだろうか。


 ミスイは悠長に校内を散策する。仕事もせずに、ふらふらと。

 広大な敷地面積を誇る学院だが、どこもかしこも学院生だらけだ。居心地が悪くてしかたない。だがミスイにも安寧の場所があった。


 時計塔の最上部だ。ハシゴを使わなければ上れないため、人は滅多にこない。

 頂上に到達し固い床に腰を下ろす。涼しい夕暮れの風が疲れた体に心地よく、ミスイは自然と一息ついていた。


 ここからの景色が好きだ。何度も眺めたくなるくらいには。

 夕陽に染まったアルムグレーンの街並みが見渡す。色々な国でひどい光景ばかり見てきた。せめてこの国は、優しい賑わいに満ちた場所であってほしい。


 視線を落とす。中庭に誰かがいる気がして、ミスイは目を凝らす。

 そこには茶髪と藍髪、二人の少女がいた。彼女たちは楽しそうに、歌うようにして詠唱を口にした。

 無数の水玉が宙に浮き、風に流される。水玉は夕陽に照らされ、光を反射した。

 もしミスイが異世界の知識を有していたら、こう口にしていただろう。シャボン玉みたいだ、と。


 光輝く水玉に目を奪われていると、茶髪の少女がこちらを見上げてきた。

 ずっと遠い距離なのに、目が合うのがわかった。彼女は頬をゆるませると大きな声でこちらを呼んできた。


「ミスイもはやくー! こっちにきてよー!」


「……ああ! いまいく!」


 そんな返事をして、ミスイは時計塔から飛び降りた。

 アルマが待つ、その場所を目指して。



 まどろみから抜け出し、薄目をあけた。

 視界は靄がかかったみたいにぼんやりしているが、どうやら仰向けに寝かされているらしい。暗い夜空にわずかばかりの星が輝く。


 ついで、歓声のような騒がしさに襲われる。顔をしかめて起き上がったとき、不思議と体に痛みは感じなかった。


「目が覚めた?」


 左隣から声がかかる。

 リュシーはこちらに目を合わせるでもなく座り込んで、ぼんやりと空を眺めていた。着の身着のまま、ボロボロな姿だった。


「……ここは?」


「学院の中庭。負傷した人たちはここで治療を受けてる」


「さっきの水玉は」


「水玉?」


 ようやくリュシーがこちらに向き直る。

 怪我一つしていない、端正な顔がそこにあった。


「寝ぼけているの?」


 呆れを含んだ声に、ミスイは頷きそうになった。

 夢をみていた気がする。ずっとみていたいと思うくらい、幸せな夢を。

 ミスイは異変を感じ、左手で右肩に触れる。ガイルに斬りつけられた傷。それが綺麗に治っていた。それだけじゃない。疲労感もない。


「体が軽い」


「カザミナの魔力が抜けたせいか、回復魔法への抵抗が弱くなってた。治療は完了してるけど安静にしていて」


 リュシーの言葉に理解が追い付いていくうち、自然と意識が明瞭になってきた。

 ずっとそばにいたであろう彼女に、確認せずにいられない。


「アルマは、どうなった」


 ミスイが持っていた全ての魔力はミルファナに明け渡された。しばらくは魔力ナシ同然の生活を強いられるだろう。だが、そんなことは些細なことだ。

 気を失う前、ミルファナが約束した絵空事は本当に実行されたのだろうか。


 リュシーが無言でミスイを指差す。いや、正確にはその後ろのほうだ。

 身じろぎをしたとき、右手に違和感を覚えた。けれど、それは嫌な感触ではなかった。むしろ、あたたかくてやわらかい。


 そちら側に顔を向けるのが、正直怖かった。心臓の鼓動は異常なほど速まっている。

 どうしようもなくなって固まっていると、リュシーは柔らかい笑みとともに告げた。


「だいじょうぶ」


 後押しされてようやく決心がついた。

 右隣に目を向ける。予想していたはずなのに、鳥肌が立った。


 少し癖っ毛な茶髪。

 楽しい夢でもみているような、幸せそうな寝顔は姉妹でそっくりだ。

 血で真っ赤に染まった制服に不安を駆られたが、喉元の裂傷は跡形もなく消えている。綺麗な肌がのぞいていた。


「アルマ……」


 アルマだ。

 死んだはずのアルマが、穏やかな寝息を立てている。

 彼女の両手がミスイの右手を握り込んでいる。まるで、ミスイがどこにも逃げられないように……。


「あなたが目を覚ますまでそばにいるって……でも限界がきちゃったみたい」


 喉の奥が痙攣してきた。

 感情があふれてしまう前に、ミスイはつっかえながら言葉を紡いだ。


「成功、したのか。本当に」


「あなたが気を失ったあとで、あの女がアルマに魔法をかけていった。てっきり大掛かりな魔法陣でも展開するかと思ったのに、ほんの数秒だった。そうしたらアルマが本当に目を覚まして……」


 リュシーの瞳にいっぱいの涙がたまっていく。

 ずっとこらえていたのだろう。堰を切ったように彼女は泣き出した。

 それを見て緊張の糸が途切れた。強張っていた体から力が抜けていく。


 生き返った。本当に。


 半信半疑だったが、ミルファナは本当にミスイの願いを叶えていった。

 魔力を探知しようとするが、奴の行方をたどることはできなかった。自分が本調子じゃないからか、それともあいつがカザミナの力を手にしたからか。原因はわからなかった。


「そろそろ泣き止めよ」


 すると、リュシーは真っ赤な顔で睨み返してきた。


「あなただって泣いているくせに」


 そこで初めて、ミスイは自分が涙を流していることに気付いた。

 どうして泣いているのだろう。悲しいこともつらいこともなくて、むしろ嬉しいのに。

 ミスイは静かにたたずんでいた。


「こうなっては認めざるを得ない。人間性はともかく……彼女は歴史に名を刻む魔法使いになる」


「人ひとりを蘇生させた魔法使いは、誰もいなかったからな」


「ひとりじゃない」


「なんだと」


 講堂の方で、再び歓声があがった。

 そちらの方は多くの人間が出入りしている。魔導士団や騎士団もいるが、そのほとんどが壮年の貴族たちだった。丁度、学院生の親世代くらいの……。


「ミスイ」


 背後から野太い声がかかった。

 振り返り、その巨躯を見上げる。ミスイは戦慄した。


「ガイル……なのか」


「お前も無事で良かった」


 騎士団長ガイル・テールベルトは、無骨な表情をやわらげた。

 困惑は深まるばかりだ。ガイルは致命傷を負って死んだ。彼の最期を看取り、亡骸は空き教室においてきた。ミスイの記憶に間違いはない。


 ミスイは中庭に視線を走らせた。

 そういえば学院生の人数が多いと思っていた。人質として捕らわれていた生徒とは別の顔ぶれがいくつも見つかる。


 まさか。そんなことが可能なのか。


「全員、生き返ったのか。今まで死んだ学院生が?」


「その通りだ。それどころか教職員、護衛にあたっていた騎士団員まで例外なく。身体の損傷も含めて全て元通りだ」


 ガイルは右腕をかかげた。

 ギードのスラッグ弾で撃ち落されたはずの右手が、しっかりとついている。胴部分にも撃たれた痕跡は見受けられない。


 こんなことがありえるのか。

 蘇生魔法というより、時間を巻き戻したような感覚。いや、時空魔法も魔法学的には不可能とされた究極魔法ときく。どちらにしろ奇跡にちがいない。


「一度死を覚悟し、実際命を落としたはずなのに。今こうして息をしている。夢でもみているのか、俺は」


「俺だってまだ信じられない」


「二人とも安心してください。これは現実ですよ」


 リュシーが控えめに主張する。その言い方がなんだかおかしくて、ミスイは笑った。ガイルもそれにつられる。むっとしたリュシーが怒ろうとして、けど結局一緒になって笑った。初めてみせる笑顔だった。


「でも本当に全て元通りなのか。記憶が抜け落ちていたり、前と感覚が違うとかは」


「それは……」


 ガイルは少しだけ言い淀んだ。


「いや。ここではよそう。命あっての物種だ。それに、学院生はともかく俺には一切不利益がないからな」


 ミスイはガイルを見つめた。


「きいてもいいか」


「なにをだ」


「お前————王家の血筋か」


 息を呑んだのはリュシーだった。

 問いかけられたガイルは慌てるでもなく、真っ直ぐな目をミスイに向けてきた。


「なぜそう思う」


「なんとなくだ」


「……妾の子なんだ」


 決定的な告白が飛び出してくる。

 ガイルはぼんやりと星空を眺めた。


「あの人がずっと若いころ、城の給仕係だった母と関係を持ったらしい。母は魔力ナシだったから俺は王家の魔力を受け継ぐことはできなかった」


「母親はいまどうしてる」


「もう城にはいない。いまは下町の酒場での給仕に勤しんでいる」


「早く会いにいったほうがいい。きっと心配している」


 ガイルが意外そうに目を見開いた。


「お前……そんな物言いができたのか」


「別に。ただ、羨ましい。親が国王かよ。交換してくれ」


 そんなつもりじゃなかったのに、重い沈黙が降ってきた。

 風の吹く音だけが、耳に届く。

 ミスイはその場を去ろうとした。その背に声がかかった。


「お前はクロカミ・ユラクの子どもだ。それだけは覆しようがない。俺が、陛下の血を引くのと同じで」


 ミスイはその場に立ち尽くし、ガイルの言葉に耳を傾けた。


「だが、その呪縛に苦しめられているのなら、俺はそれを解き放ってやりたい。お前は父親とは違う」


 父親とは違う。

 死に際のガイルも同じことを言っていた。

 あのときは反感を覚えたが、いまではどうしてか素直に受け取れる。


「出自についてとやかく言われるのは俺にも覚えがある。騎士団長になれたのは王の口利きではないかと、よく言われる。子は親を選べない。だがどう生きていくかは決められる。人を殺める道なんてもう歩むべきじゃない」


「こういう歩き方しか知らない」


「なら、騎士になれ。俺が剣を教える」


 静かながらも必死な訴えにミスイは固まった。

 なれるわけがない。クロカミの自分が騎士になんて。そもそも剣を扱った経験すらない。

 だが、そんな問題が些細に思えてくるほどに力強い言葉だった。


「ミスイ。騎士になり損ねたらルトストレーム家にきて。あなたならいい仕事を紹介できる」


 ガイルからは見えない角度で、リュシーは器用にウィンクしてみせた。

 ルトストレーム家の諜報活動を指しているのだろう。表立って動く騎士よりは向いているかもしれない。


「仕事とは? 清掃員として雇うのか」


「まあ。そんなところです」


「少しもったいなくはないか。こいつの身体能力は中々だぞ」


「それもそうですね。でしたら————」


 本人をそっちのけで、ミスイの将来を語りだす二人。そして隣にはアルマがいてくれる。

 不覚にも涙腺が緩むのを感じる。

 形容しがたい感情に襲われたせいだ。今日は未知の体験をしてばかりいる。

 絶対に手に入らないはずだった、心安らぐ団らんの時間。与えられた幸運ではない。まぎれもなく、ミスイの行いが引き寄せたものだった。


 誰にも手を取ってもらえず、スラムの片隅で朽ち果てる人生。

 だがもしかしたら、全然違った未来もありえるのかもしれない。


 にわかに周囲が騒がしくなった。

 魔法使い然とした者たちがぞろぞろと押し寄せ、ミスイたちを取り囲んだ。誰もかれもが油断ならない鋭い目つきをしている。


「な、なんだ。お前たちは」


 人の波を割って、ふてぶてしい顔をした男が歩み出てきた。


「おい貴様、クロカミ・ユラクの血筋だな? ここから逃げられると思うな。お前はもう終わりだ」


「誰だ」


 リュシーが耳打ちしてくる。


「王国検察官のザッカス・シュティリー。検事総長の一人息子でかなりの曲者。法務長との繋がりもあるから下手な重臣よりも権力がある」


 難しい肩書きばかりで頭に入ってこない。

 だが、ミスイを敵視しているのだけは明らかだった。


「クロカミ。国家反逆罪の容疑でお前の身柄を拘束する」


 魔法使いたちがじりじりと距離を詰めてくる。

 ガイルはミスイを守るように前に出た。


「待て、ザッカス! 突然現れて何を言い出すんだ」


「俺はクロカミに話をしている。魔力ナシは引っ込んでいろ!」


 魔力持ちにありがちな差別言動。

 ミスイの嫌いな人種だった。


「今回の騒動で使用された武器は、かつてクロカミ・ユラクが使用したものと酷似している。父親を亡き者にした国家に対する復讐なのだろう? どうなんだ、ええ?」


「何も知らない」


「何も知らないはずないだろう。その返り血はなんだ。一体どれだけの命を奪ったんだ」


「誰も死んではいない。ミルファナが生き返らせた」


「ほう。では殺害は認めると? 語るに落ちたな、悪魔め。おい、殺人の自白だ! しっかりと書き記しておけ」


 ミスイは口を閉ざした。

 こいつには何を言っても無駄だ。ハミッシュ達と同じにおいがする。こちらの発言を勝手に拡大解釈した挙句、証拠としてでっち上げてくる。相手をするだけ面倒だ。


「詳しい事情は独房できいてやる。こちらに来い」


 行くわけがない。捕まれば最後、二度と外には出られないだろう。

 だがこれだけの人数の魔法使いを前に、逃げ切れる算段が立たない。カザミナ族の魔力をなくした今、ミスイはただの一般人だった。


 そのとき、魔法使いたちが突如として跪いて道を空けた。

 逃走用のスペースが開いた。ミスイは立ち上がりかけ、中腰のまま固まった。

 ザッカスは舌打ちをして声を張り上げた。


「貴様ら何をしている! とっととクロカミを捕まえろ!」


 だが魔法使いたちは誰一人として動かない。

 癇癪を起こしたザッカスは唾を飛ばしながらわめいた。


「たいした爵位も持たぬ家畜風情が、この私の言葉を無視するか。公務執行妨害で打ち首にしてやる! 今更泣きついても遅いぞ!」


「————なにやら愉快な場所じゃな。儂もまぜてくれぬか」


 それは、豪華な装飾品に身を包んだ初老だった。

 ミスイとザッカス以外の全員が一斉に平伏する。

 ルーカス・エリオ・アルムグレーン。

 現国王が姿をみせたことで、ザッカスはうろたえた。


「へ、陛下……なにゆえこの場所に。治療中だったはずでは」


「ああ、心配はいらんよ。儂はなんともない。ともに行動していた者たちのおかげでな。さて、ザッカス検察官。貴殿こそ何をしている?」


「……此度の学院襲撃事件、クロカミ・ユラクの血筋が手引きをした可能性が極めて高いとみています。不審な点も多いため奴を拘束させていただきます」


「ユラクの血筋なんて仰々しい呼び名はやめたまえ。彼の名前はミスイという。彼はずっと我々と共にいたが、不審な動きなど一切なかった。そうだな、ガイル。リュシーさん」


 名を呼ばれた二人は顔を上げ、揃って頷いた。

 ザッカスは口をあんぐりと開け、まじまじとルーカスを見つめた。その視線が徐々にミスイに移る。


 忌々しそうに、ザッカスの頬がひきつった。


「お言葉ですが、その証言だけでは取り調べを中止するわけにはいきません」


「確たる証拠が出ていなければ、貴殿の言い分も認めよう。彼がこの一件に関与した根拠はどこにある」


「こいつはクロカミ・ユラクの実子です! それだけで拘束対象とする謂れは充分にあるはずです。わざわざ言わなくても分かることでしょう」


「先入観に囚われた貴殿の印象など聞いてない。根拠を示せと言っている」


「そ、それは現場検証と生存した学院生の聞き取りですぐに分かることです。後日、報告書を提出させていただきます」


「では現段階で彼を拘束する材料は何もないということだな」


 反論を見つけられず、ザッカスは唇を噛んだ。

 藍色の髪の少女が、その隙間を縫って発言した。


「この人は無実です。むしろ命懸けで襲撃者と戦っていました」


「……なんだ、君は。大人同士の話し合いに首を突っ込むな」


「わたし、クロカミ・ミスイさんとずっと一緒にいました。彼の機転により講堂に捕らわれていた学院生が脱出できたこと、ここに証言します。ルトストレームの家名に誓って」


「きいたこともない家名だ。どこかの平民か? たいした税金も納めてないくせに偉そうに割って入るな」


 固い顔をしたルーカスが苦言を呈した。


「アルムグレーン王国では階級による差別を許していない。貴殿こそ国法に抵触する行為がみられるようだが」


「い、いまのは、そのう。言葉の綾というか。それよりもクロカミを……」


「いますぐ去れ」


「な、納得できません。我々は正当な権限に従い、職務を全うしているだけで」


「くどい!」


 ルーカスは怒声を響かせた。


「儂を誰と心得る!? アルムグレーン王国の国王、ルーカス・エリオ・アルムグレーンだ! これ以上くだらない言いがかりをつけるようなら問答無用で首を刎ねてくれるわ! ガイル!」


 ガイルが鞘から刀身をのぞかせると、ザッカスは慌てて逃げ出していった。

 ザッカスが従えていた魔法使いたちは、深く頭を下げると無言で踵を返した。

 あたりが静かになったところで、ガイルが笑みを浮かべた。


「あなたが権力を笠に着ているところ、初めて見ましたよ」


「お前も乗っかったくせに」


「私は陛下の剣ですから」


 ルーカスが快活に笑った。真実を知ったせいか、笑ったときの顔がガイルによく似ている気がした。


「リュシーさん。すまなかった。奴には必ず謝罪させる」


「どうかお気になさらず」


 リュシーが恭しく頭を下げ、身を退いた。

 ルーカスが穏やかな笑みとともに、こちらにやってきた。


「ミスイ。無事でよかった。怪我はないか」


「あ、ああ……」


「そうか。なによりだ」


 ふいに、ルーカスの笑顔に翳が差した。


「すまない。この襲撃事件を引き起こしたのはアルムグレーンの人間だった。全てはその思惑を見抜けなかった儂に責任がある」


「ジェラール・ド・ヴァロン公爵……だっけ」


 思い出しながら告げると、ルーカスが心底驚いた顔をした。


「知っていたのか」


「ユラクの銃火器は素晴らしいとか、世界の覇権を獲れるとか。意味不明なことばかり言ってた」


「……そうか。奴がどこにいったか知らないか。まだ見つかっていないんだ」


 ミスイはわずかに考え込み、応じた。


「さあ。知らない」


 微妙な空気が漂った。

 ルーカスもガイルも、それにリュシーも察した。ミスイが嘘をついていると。

 あたりにはまだ人が多い。余計な発言をするべきではない。


 そのとき、艶っぽい声がきこえた。

 ぎょっとした。アルマが身じろぎをしたのだ。まぶたが持ち上がろうとしている。もうまもなく目を覚ます。そんな予兆だった。


 反射的にミスイは立ち上がった。

 アルマの手を振り解くのはこれで二度目だ。

 ミスイは闇の中に駆け出した。


「ミスイ、どこに行く!」


「行かないでミスイ! せめてアルマに、もう一度だけ顔を見せて、お願い!」


 口々に、三人はミスイの名を呼ぶ。

 後ろ髪を引かれるおもいだったが、ミスイは振り返らなかった。

 どうしてあの場を急に離れようとしたのか、その思考がようやく追いついてくる。


 もう誰にも関わるべきじゃない。


 世界にとって、クロカミは畏怖の象徴だ。そんなのと関わり続けていたら彼らに迷惑がかかる。今は好意的でも、いずれミスイを疎ましく感じる瞬間がくるかもしれない。彼らから……特にアルマからそんな目を向けられるのは耐えられそうにない。


 束の間でも、ミスイにとっては安寧の時間だった。


 ミスイを見つけた魔導士たちが追跡を開始する。ドタドタと騒がしい足音がついてくる。

 やはりこちらの方がしっくりくる。日常感がある。

 体が軽いおかげで、スピードを緩めずにいられる。一日体を酷使していたとは思えないほどの軽快さでミスイは学院を飛び出していった。黒髪を見た途端、通行人が道を空けてくれるおかげで走りやすい。


 帰るべき場所。スラムの街はもうすぐだ。

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