第29話
学院襲撃前夜。
リヴデと魔導士たちの追跡から逃れたミスイは、その直後に意外な人物と遭遇し、そのまま彼女の住んでいる家に匿われることになった。
「おにいさん。こっちです」
エルマ・ラトヴィアに導かれ、ミスイは階段をあがっていく。
ここは学院近くにあるラトヴィア家の別宅だ。生家は王国のもっと辺境に位置する。
別宅とはいえ、貴族階級の所有する屋敷だ。姉と二人暮らしときいたが、きっと持て余しているはずだ。案内してもらわなければ一瞬で迷ってしまう。
だがこの屋敷には物が少なすぎる。
装飾品、衣服、家具、嗜好品にいたるまで、最小限の量しか用意されていない。屋敷の大きさからは不釣り合いだった。
それだけ、ラトヴィア家が困窮しているのがわかる。
絨毯の跡が真新しい。おそらく最近になって売り払ってしまったのだろう。
「こっちが、エルマのお部屋です」
エルマが手招きする。ミスイは奥の部屋に通された。
中に入り、目を瞠る。部屋全体がパステルカラーを中心に彩られ、家具も小物もたくさんある。やわらかそうな天蓋付きのベッド。大きなクマのぬいぐるみ。クローゼットにはこどもサイズのドレスがいくつもかかっている。
ここにあるものには、手をつけていないようだ。
エルマはそわそわとしていた。
チラチラとミスイのほうを見て、目が合ったと思ったら恥ずかしそうに俯いてしまう。
沈黙に耐えかねたエルマが甘菓子を差し出してきた。
「た、たべますか」
十歳の女の子に気遣われた。
つい先刻まで戦闘していたミスイは、いまだ神経がたかぶっていた。
食欲がわかず、首を横に振ってしまう。
「そうですか……」
少し、というかすごく残念そうにエルマは引き下がった。
なにも悪いことはしていないが、申し訳なさが募った。
「エルマ。どうして、あんなところにいたんだ」
エルマと再会したのは、スラム街からさほど離れていない裏路地だ。
普通の人間ならまず近づこうともしない。しかも今は真夜中だ。子供が出歩く時間として不自然過ぎる。
初めて会ったときも、そうだった。
エルマはあのとき同様、口を固く閉ざしてしまう。
「近づくなと教えたはず」
咎めるような口調になってしまった。
びくっと身体を震わせたエルマは泣きそうな顔になっていた。
ミスイは追及を断念した。こどもを泣かせてはいけない。エルマのおかげで難も逃れたのだから。
「やっぱり、もらってもいい?」
ミスイは甘菓子を指差した。
一瞬で笑顔になったエルマと二人で食べる。めったに食べられないのだからもっと味わうべきだろうが、甘いものはどうにも口に合わなかった。
身体を横にしたミスイに、エルマが問いかけた。
「おふとん、つかわないですか」
こども用のベッドだが、二人でも余裕でおさまるだろう。
だが論外だ。こんな汚い身体でよごしてしまうわけにいかない。
ミスイが無言でいると、毛布にくるまったエルマがおりてきた。
ミスイは寝返りを打って、眠ったふりをする。
小さな足音が反響した。エルマはミスイの正面に回り込むと、床に寝転がった。
薄目を開け、ミスイはきいた。
「眠らないのか」
「だれかといっしょに寝るの、ひさしぶりです」
エルマは首元から見覚えのあるペンダントを取り出した。
大事そうに両手で握りしめている。エルマは、本当にうれしそうに笑う。
「おにいさんとおしゃべりしたいです」
「……すこしだけなら」
気が付くと、そんなこと言っていた。
どうしてだろう。エルマといると、自分が自分じゃないみたいだ。一緒にいると安らぎをおぼえる。
「おにいさんは、きょうだいがいますか」
いきなり、答えにくい質問だった。
わずかな逡巡のすえ、正直に話すことにした。
「三十人くらいいたよ」
「そんなにいるんですか!?」
エルマは、慌てて口をおさえた。
姉にきこえてしまっていないか、不安になったのだろう。しばし待って、何事もなかったと悟る。エルマは無邪気に笑った。
「おにいさんも、変なこと言うんですね」
ジョークと受け取られたようだ。まぎれもない事実なのだが改めて伝えるつもりはない。
今度はエルマが自分の話を始めた。
「エルマには、お姉ちゃんがいます」
アルマという名前はここで初めて知った。
写真を改めて見て、ミスイは気付いた。ハミッシュたちを助けた女子生徒こそ、アルマだったのだ。彼女は学院に通っている。
「やさしくて、たのしい、自慢のお姉ちゃんです」
「そうか」
「でも、ときどき心配なんです」
エルマの声がせつなさを帯びた。
「お父さんとお母さんがいなくなってから、お姉ちゃんは一人でがんばっているんです。学院でおべんきょうして、お仕事をいくつもかけもちして、また学院に行って……。エルマは何も心配しなくていいよって、いってくれるんです」
ラトヴィア家の当主とその夫人は、どちらももうこの世にいない。
この子も、幼くして両親を亡くしている。その点だけならミスイと似通る。
「お姉ちゃんが笑うたび、無理しているのがわかって……つらいです」
「エルマは」
ミスイはエルマの頭に手をやった。その指先で髪を梳く。
くすぐったそうに、エルマが身をよじる。
「やさしくて、いい子だ」
「そう、ですか」
「十歳のときの俺は、そんな風に考えられなかった」
「おにいさん、ひょっとして……」
何かに気付いた様子のエルマに、不安を駆り立てられる。
まさかクロカミだと気付かれてしまったか。
だが、エルマが口にしたのは全然違うことだった。
「魔力持ち、ですか?」
ミスイは驚愕した。ミスイを魔力持ちだと見破ったのはミルファナだけだ。
王国最高峰の学院生ですら気付けないことを、どうしてこんな小さな子が……。
「おにいさんの魔力、なんだか……あたたかい」
うつらうつらとしたエルマは、穏やかな寝息を立て始めた。
ようやく眠ってくれたことに安堵する。エルマをベッドに運び、毛布をかけた。
幸せそうな寝顔だ。どうか、そんな風に眠れる夜を過ごしてほしい。
ミスイは部屋を出ようとして、何かを倒しそうになった。
反射的に拾い上げる。それは写真立てだった。収められているのは、ペンダントと同じ写真だった。エルマと、姉、母が映っている。
どうして同じものをこんなところにも飾っているのか。
その違和感にはすぐ答えが出た。この写真は端の部分が折られている。
見なければよかったくせに、ミスイは写真を取り出した。
隠れた部分に映っていたのは、仕立ての良いスーツの男性だった。無骨な顔だが快活に笑っている。考えるまでもなく、エルマの父だろう。
だがミスイは、父親の顔に釘付けになった。
深く閉じ込めていたはずの記憶に揺さぶられる。俺はこの人を知っている。
どこで会ったんだ。最近じゃない。もっと、遠い過去に……。
「あ————」
そうだ。“雪解け”だ。
強い魔法使いだった。どれだけ傷を負い、血を流しても立ち上がる鬼神のごとき大立ち回りだった。何百、何千という魔族が彼一人に殲滅されていた。
ミスイが応援に駆け付けたとき、彼はもう虫の息だった。手足を食い破られ、内臓をこぼし、みずからの血で雪を真っ赤に染めていた。それだけの傷を負いながら、瞳から闘志が消えていなかった。
このまま放っておいても死ぬだろうが、強敵の首を獲らぬ間抜けはいない。
ミスイは手にした銃火器で、彼の命を終わらせた。
終わらせて、しまった。
「ああ、あ…………」
前後不覚に陥ったミスイは朝日が昇るまで、ずっとうずくまっていた。
カーテンから漏れる光から逃げるように、ミスイはラトヴィア家を飛び出していった。
あてもなく街を歩いた。浮浪者のような姿をしたミスイには、誰も近づいてこない。迷惑そうに鼻をつまみながら離れていく。
ミスイは知らなかった。いや、忘れていた。
自分のせいで狂わされた人生があることを。
大切な人を亡くし、残された者が今も苦しんでいることを。
もしユラクがいなければ。そしてミスイが生まれなければ。
あの“雪解け”も、それ以前のクーデターも何もかも起きずに済んだ。
あれさえなければ、エルマはきっともっと幸せな日々を送っていたはずだ。
全部奪った。他でもない自分自身の手で。
奪ったものの大きさに耐えきれなくなりミスイは路上で吐いた。
吐くほど食べてもいないくせに、いつまでも嘔吐感は消えない。
「どうすれば……」
どうすればいい。
どうすれば償える。
何をすれば帳尻が合う。俺に差し出せるものは何だ。
馴染みある、そして不愉快な銃声がきこえたのはこのときだった。
ミスイは顔を上げた。見つめる先には学院がある。
天啓だと思った。
奪ってしまったことを後悔しているなら、もう何も奪わせなければいい。
エルマも、アルマも。
もう何もなくしてはいけない。
◇
「全部、俺のせいなんだ。俺がいたから……」
地面に額をこすりつけて、ミスイはうずくまった。
必ず、アルマを無事に帰すと誓った。この命を投げ出してもいい覚悟だった。
現実はどうだ。罪人のミスイがのうのうと生き永らえ、アルマは死にかけている。
「いっそ殺してくれ————」
ミスイの髪に、あたたかい手が触れた。
まるで愛おしいものを撫でるみたいに、指先がはねる。
くすぐったさとむずかゆさで、ミスイは顔を上げた。
「ほらね」
アルマは、どこか誇らしげだった。
「やっぱりミスイは優しい」
「な、なにをきいてたんだ。俺は……」
「エルマを助けてくれた」
身体の震えが止まらない。
アルマは独り言のように呟く。
「本当はミスイのこと、怖かった。憎くて仕方なかった。……お父さんは“雪解け”で死んじゃったから」
「そうだ。憎んでくれ。殺したのは俺だ」
「でも、今日一日ずっと私をまもってくれた。あなたを憎む気持ちに自信が持てなくなっちゃった……」
「アルマ……」
「もし、ユラクのところじゃなくて、全然、ちがう場所で育っていたなら。ミスイはそんなつらい気持ちを抱え込まなくてよかったのにね」
「アルマ、俺は」
「ミスイが自分のこと、赦せたらいいんだけど……」
苦しげに、アルマは血の塊を吐き出した。
「約束、まもれなくて、ごめん。ミスイの力になりたいのに……できそうに、ない」
アルマの心拍は、かぎりなく弱くなっていた。
殴りつけるみたいに彼女の胸を叩く。顔から一切の血色が引いていた。
殺し方しか、ミスイにはわからない。蘇生術の知識はほとんどない。
カザミナの魔力を注ぎ込む。しかし、アルマの魔力と溶け合っていかない。適性がないからか、それともそれ以前の問題か。
痛みすら感じないのか。アルマはどこか安らかな表情を浮かべる。
死を受け入れる。そんな予兆に感じられた。
「ダメだ、死ぬなっ」
ミスイは必死に呼びかけた。
「お前が死んだら、エルマはどうなる。あの子にはもう、父親も母親もいないんだぞ。アルマのことを自慢の姉だって慕ってる。あんな小さな子に、また家族を失わせるのかよ!」
アルマの瞳に、わずかに未練が宿った。
だが、それも一瞬のことだった。
「エルマを……。ううん。なんでもない」
何を言いかけたのだろう。問い返す余裕はなかった。
「さむい……」
ミスイはアルマを抱き寄せた。
エルマがあたたかいと言ってくれた、カザミナの魔力。目に見えないエネルギーがアルマの身体を包み込んでいく。
アルマは最期に一筋の涙を流した。
それっきり、温度が失われた。息が途絶え、心臓の鼓動も感じない。
弛緩しきった身体は重くなり、ぴくりとも動かない。
アルマ・ラトヴィアの命は、もうどこにもなかった。
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