第25話

 大講堂で暴動が起こる約十五分前。

 王立魔法魔術学院の生徒会室にはリヴデの姿があった。部屋隅の座椅子にはルーカス陛下が気を失ったまま収まっている。もうまもなく薬の効果も切れる。


「ここは……」


 予想通りルーカスが目を覚ました。憔悴しきった顔がリヴデに向けられた瞬間、ルーカスは飛び退き、縛ってあった椅子と一緒に横倒しになった。

 リヴデは呆れながら、ルーカスを起こしてやった。


「ここは学院の生徒会室だ。転移で飛ばしてみせた。どうだ、俺の魔法は? アルムグレーンの魔導士ではこんな芸当はできないだろう」


「ガイルは……。ミスイたちはどこにいる」


「他はともかく、あの魔力ナシの騎士は死んだぞ」


 そう告げた瞬間、ルーカスは絶句する反応を示した。

 カタカタと奥歯を鳴らしながら、かろうじて言葉を紡ぐ。


「嘘だ」


「本当だ。種無しの割には獅子奮迅の働きぶりだったんじゃないか。少しでも魔力を持っていたらスカウトしてもよかった。親に恵まれなかったんだろうな」


 ルーカスは肩を震わせて俯いた。見間違いでなければ落涙しているように見える。


「何故泣く。たかが魔力ナシ、使い捨ての駒が一人死んだだけだ。悲しむ必要があるか?」


 問いかけてもルーカスは項垂れて嗚咽を漏らすばかりだった。

 リヴデにはルーカスの心情がわからなかった。本気で、わずかばかりも理解できなかった。

 魔力を持たぬ者、魔法を使えぬ者に価値などない。イーデルシアほどではないが、アルムグレーンだって魔法至上主義国家だ。一国の王ならその思想に染まっているはずだが……。


「落ち込んでいるところ悪いが、もう少しで客人が到着する。お前にはその相手をしてもらう」


「客人だと。誰のことだ。イーデルシアの仲間か」


「今回のクライアントだ」


 生徒会室のドアが控え目にノックされた。入れ、リヴデはそう告げた。

 両脇に武装兵を引きつれ、入室してきた男は肩の尖った黒衣に身を包んでいた。油断のない仏頂面が室内を見渡した。


 ルーカスが目を剥いた。


「ジェラール公爵……」


「陛下。またお会いできて嬉しゅうございます」


 ジェラール・ド・ヴァロン公爵はにこりともしていなかった。

 冷ややかな目がルーカスを見下ろす。主君との再会を喜ぶときの態度ではない。

 ほくそ笑む寸前だったリヴデは、しかしジェラールの後ろから現れた闖入者に硬直した。


「陛下! よくぞご無事で!」


 使用人のような服装をした若い女がルーカスの前にひざまずき、その身を案じる。

 ルーカスは困惑をのぞかせながらも、かすかな微笑を浮かべた。


「ニファまで。来てくれたのか」


 ニファ秘書官の頬を涙がつたう。


「はい。ジェラール公爵に無理を言って同行させていただいたんです。陛下、お怪我などございませんか」


「心配ないよ。……だが、すまないニファ。これはどういう状況なんだ。どうして二人がこんなところに」


「武装勢力ジナングが、陛下に代わるアルムグレーン王国代表者との交渉を望んだからです。それでジェラール様が矢面に立たされて……私も居ても立っても居られず」


 ニファはしゃくり上げ、言葉を詰まらせた。交渉の条件から、ルーカス陛下が既に死んだものだと勘違いしていたらしい。

 泣き崩れるニファを気遣いながら、ルーカスはジェラールに目を向けた。


「そうだったか。公爵。巻き込んでしまってすまない。国のほうはどうだ。皆、不安がっていなかったか」


 問われたジェラールは、しかし沈黙を貫いていた。

 妙な空気が漂い出している。ようやくルーカスは異変に気付いた。ニファが「公爵様?」と声をかけてもジェラールは全く応じる素振りがない。


 リヴデはジェラールに話しかけた。


「呼んだのはあんただけだったんだが。どうして余計なものまで連れてきた」


「自分も行くと譲らなかったからだ。だが問題はないだろう」


 ジェラールは葉巻を取り出す。口に咥えると同時、意味ありげな視線をリヴデに投げかけた。

 遅れて気付いたリヴデは舌打ちをしながらも炎魔法で葉巻に火をつけた。

 ジェラールは煙を吐き出しながら言った。


「陛下の世話係の女だ。男爵家の生まれで、たいした力もない。それくらいお前も見抜けるだろう」


「あまり勝手なことはするな。現場はいつだって不測の事態の連続だ。だいたいなんだ。あのリストは。聞いてなかったぞ」


「アルムグレーンの国益に繋がる貴族は残しておくに限る。殺すのは過去の栄誉に縋って税金を食い物にする役立たずだけでいい」


「全員皆殺しにするからこそ強い話題性を生む」


「既に充分センセーショナルだ」


 ジェラール公爵は窓の外に目を向けた。


「この襲撃事件はもう周辺諸国には知れ渡っている。明日には世界中が震撼することになるだろう。悪夢の再来、クロカミ・ユラクの復活だとな」


「公爵。何を言っているんだ」


 眉をひそめ、ルーカスが見上げる。ここまでのやり取りを見れば、ジェラールの真意もリヴデとの関係性もおのずと導き出せるはずだ。しかし、受容しがたい現実を前に混乱しているのだろう。


 リヴデは真相を教えてやった。


「察しが悪いぞ。国王陛下。そこの公爵こそが俺たちのクライアントなんだ」


 室内が静まり返った。

 無言のルーカスがジェラールを凝視する。王にそんな視線を投げかけられても、ジェラールはどこか他人事のように居直る。その態度がなによりの肯定になった。


「ば、馬鹿な。公爵家が……国家転覆を企むなど」


「国家転覆ですか」


 ジェラールはつまらなそうに呟いた。


「むしろ富国強兵を望んだ結果ですが」


「ふざけるな。自国の貴重な十代を死なせ、あまつさせイーデルシアからの間者と手を組む。これが国家への裏切りではなくなんだというのだ」


「彼にイーデルシアとの繋がりなんてない!」


 心外だとばかりにジェラールが声を張り上げた。

 渦中のリヴデは、室内にいる全員からの視線を感じ居心地を悪くした。ルーカスが茫然としたまま呟く。


「貴様はイーデルシア出身だと……アルムグレーンとの戦争を起こすと言っていたじゃないか。あれは嘘だったのか」


「イーデルシア出身は本当だ。国を出たのは十年以上前だが」


 リヴデという名は本名ではない。


 魔法先進国イーデルシアの中でも、リヴデの転移魔法は希少価値があった。

 ほんの出来心で運び屋の仕事を請け負った。それが分岐点だった。リヴデの元には様々な依頼が舞い込むようになった。罪を犯した政府要人の逃亡を手助けし、敵国の主要人物を拉致し、製造が禁止されているクスリを流通させた。短期間で巨万の富を荒稼ぎした。


 だがリヴデの存在は瞬く間に国中に広がり、罪に問われたリヴデはイーデルシアから追放されてしまった。以降は海外で同様の活動を繰り返し、足がつけばまた別の国へ逃亡した。そうこうしているうちに国際的な指名手配を受けるようになったが、誰もリヴデを捕まえられなかった。転移魔法は一度訪れた場所ならどこへでも飛べる。魔力が足りていれば、たとえ世界の裏側へだって逃げられる。


「今回の俺の仕事はクロカミ・ユラクの銃火器をアルムグレーン王国で流通させること。需要と供給、うちのボスとクライアントの意向が一致した結果だ」


「銃火器を流通させるだと」


 ルーカスは憤怒の形相でジェラールを睨みつけた。


「見損なったぞ、公爵! クロカミ・ユラクが世界にもたらした惨劇は、そなたもよく知っているはずだ。あのようなことは二度と起こしてならない。だというのに銃火器を流通させる!? 馬鹿な真似はやめろ!」


「では、陛下にお尋ねしますが」


 ジェラールは醒めた口調でつぶやいた。


「イーデルシア帝国からの侵攻をどう食い止めるおつもりですか。あなたも危惧しておられたはずです。既に隣国が陥落し、その魔の手は間近に迫っている。猶予は半年もないでしょう。それなのに戦争の準備すらしていない」


「当たり前だ。アルムグレーン王国は平和主義国家だ。交わすのは剣ではなく言葉であるべきだ」


「帝国は侵略国家にございますよ。奴らに蹂躙され、搾取され、滅びた国の数を知っていますか。いまさら話し合い程度で止まるような相手でないことは明白。ならばこちらから攻勢に打って出るほかない」


「そのための銃火器だと言う気か」


「ええ。恐ろしくも魅力的な武器です。対抗するにはこれしかありません。魔力ナシの有象無象たちが魔法使いたちを圧倒するのです。魔力持ちが銃火器を手にしたのなら、帝国と渡り合うのも夢物語ではない」


「自分たちを追い詰めた武器を手にする国民などいるものか」


「魔法魔術のレベルは西高東低。アルムグレーンではイーデルシアには到底敵わない。自らを救う手立ては他にないと気付くはずです。これからは銃火器の時代がきますよ」


「そのためにクロカミ・ユラクの負の遺産に縋るのか。国際的な批判は避けられない。世界から孤立したアルムグレーンに未来などない」


 ジェラールは表情を消した。

 悠然とした足取りでルーカスに歩み寄る。ニファがはっとした顔で立ち塞がろうとしたが、公爵はそれを突き飛ばした。


「なぜ私が、わざわざ危険を冒してまでこんな話を陛下に申し上げたとおもいますか」


「さあな」


「あなたにも手伝ってほしいからですよ。あなただからこそ付き従う重臣も多いでしょう。国民にしても、陛下の言葉だから突き動かされる者が多いはずです」


「なにをいう」


「イーデルシアの魔法陣の痕跡を各所に残してあります。あとはわかりますね?」


 ルーカスは怒りで顔を紅潮させ、語気を強めた。


「イーデルシアから侵攻を受けたなどと、嘘の情報で国民を騙せというのか。自分たちで起こした茶番だろう!」


「アルムグレーンはどうにも危機感がない。頭の足りぬ国民、楽観的な役人ばかりだ。明日も平和な一日が訪れると思い込んでいる。だからその意識を変える必要がある。イーデルシアからの攻撃を肌身に感じた重臣たちも、重い腰を上げるでしょう」


「そうやって国民の戦意を煽れば、彼らが喜び勇んで戦地に赴くと? 愚かな。真っ先に民草への犠牲を強いる国家など。正気の沙汰じゃない」


「雑草のようにまた生えてくるから民草と呼ぶのです。どうせならスラムなどの魔力ナシにも戦わせましょう。口減らしも進み、街の景観もよくなる」


「……外道が」


 ルーカスの悪態を、ジェラールは涼しい顔で聞き流した。


「陛下の答えを聞きましょう」


「私の考えは変わらない。お前は間違っている」


 ジェラールは嘲るように嗤った。

 葉巻を床に投げ捨て、失意に満ちた目でルーカスを見下ろす。


「ここまで融通が利かないとは。見限って正解だった。王族は年々魔力が衰えていましたからね。力なき王に仕える価値なし」


「そなたと歩む未来を信じていた」


「安心してください。アルムグレーンを強い国にしてみせます。眠りこけた王女殿下に代わってね」


 ようやく会話が終わったらしい。こんなつまらない言い争いをするために、わざわざ殺さず生かすように命令したのか。


「王様は適当なタイミングで殺す。それでいいな」


「問題ない。もうじき魔導士団も突入してくる手筈だ。お前はそのタイミングで飛べばいい。それよりクロカミはどこにいる。奴は何故かこの学院に入り込んでいった。接触したか」


「ああ。今は講堂で捕縛されている」


「捕縛だと。何故殺さない。説明しただろう。この襲撃はクロカミが首謀者だったことにすると


「言ったはずだ。不測の事態の連続だと。クロカミの身柄はこちらで預からせてもらう。カザミナ族は渡せない」


「……カザミナ族だと?」


 ジェラールは怪訝な顔つきになって唸った。


「何を言っているんだ。そんなもの空想上の存在に過ぎない。クロカミに何を吹き込まれた」


「殺すつもりならどうしようと俺の勝手だろう。どうせギードたちを見捨てるんだ。奴が今回の首謀者ってことでもいいだろう」


 リヴデの言葉を耳にした武装兵二人がうろたえた反応を見せた。

 上擦った声でリヴデに詰め寄ってくる。


「お、おい。どういうことだ。俺たちを転移魔法で脱出させてくれるんじゃなかったのか!?」


「まさか俺たちを騙したのかよ!」


 鬱陶しい。リヴデは煩わしそうに手を振った。同時に魔法が顕現する。目に見えない衝撃波が武装兵たちを吹き飛ばした。


 ジェラール公爵は顔色を変えなかった。その代わり眉間を押さえる。


「クロカミ・ユラクの血を引く人間が起こした惨事だからこそ、この襲撃は国内外で強い意味を持つ。そのクロカミを私が排除したとなれば私の権威は増すだろう。その提案は聞けぬ」


「これからあんたらに卸す銃火器、定価の何割かをサービスしてやる。それでいいだろ」


「呑めぬ。たとえ首謀者をでっち上げるにしても、もっと入念な根回しが……」


 リヴデとジェラールの口論が過熱しかけたときだった。

 突如、大地震も同然の縦揺れがリヴデたちを襲った。誰も立っていることすらかなわず、四つん這いになった。身動きができないルーカス陛下を、ニファが支える。

 生徒会室の備品があたりに散乱した。用意していた灯りが掻き消え、部屋全体が一気に暗くなった。


「なんだ!?」


 ジェラール公爵が取り乱して叫んだ。

 リヴデは頭を振って立ち上がった。窓ガラスが激しく振動している。外で何かが起きているのだ。急いで窓辺に駆け寄った。


 人質を隔離していた大講堂から光が漏れ出ている。激しく明滅を繰り返したかと思いきや、その窓ガラスが一斉に割れた。灼熱の炎が噴射し、暗闇を照らす。


 リヴデは信じられないものを目の当たりにした。囚われていた学院生たちが講堂から脱走し始めている。しかも、その全員が魔法を顕現させていた。

 馬鹿な。ルデナイト鉱石はどうした。あれがある限り、学院生が魔法を使うなどありえない。まさか破壊されたのか。どうやって。


「————ザイン! 応答しろ! 何があった!?」


 講堂の見張りにはギードの他、唯一の魔力持ちであるザインを配置した。魔力を持つ者同士なら念話で会話ができる。今は状況確認が急務だった。

 しかし、何も返ってこない。ザインの意識が乱れているのか、あいつの魔力を感じ取れない。幾度と魔力を飛ばしても、何かに阻まれているような嫌な感触があった。


「お、おい。まずいぞ」


 武装兵の一人が血相を変えて怒鳴った。


「魔導士団が入ってきてる! あいつら普通に魔法を使えてるじゃねえか。バリケードが突破される!」


 王国魔導士団も、魔法の発現に難儀した様子はない。結界のおかげで上空からの攻撃はないが、すでに正門前は制圧されつつあった。

 もう一人の武装兵がリヴデの肩を掴んで揺さぶった。


「早く俺たちをここから逃げしてくれよ。そういう約束だっただろう!? この銃を使って暴れ回ればそれでよかったんだろ。な!? 早く出せよ! こんなところで捕まりたくねえ!」


 我が身可愛さで捲し立てられるが、種無しの要望などどうでもいい。

 ジナング構成員はもれなく、混乱のさなかだろう。だが焦燥に駆られているのはリヴデも同様だった。


 カザミナ族————ミスイをどうする。


 リヴデの興味はそこにしかない。カザミナ族は他者からの魔法を無効にしてしまう。つまりミスイを連れていくには、転移以外の方法で運ぶ必要があった。まだその準備は整っていない。


 次の機会を狙うか。いや、ミスイはクロカミでもある。もしこの騒ぎのなか王国の人間に捕まれば状況証拠だけで処刑されかねない。それだけは絶対に避けなければ……。


 ジェラール公爵が金切り声をあげて怒鳴った。


「それよりも学院のガキどもだ! 魔導士団にやられるならともかく、あんな貴族の子供にジナングを潰されたら銃の脅威性が薄れる。銃社会を築くのに支障が出る」


「自分でなんとかしろ」


 リヴデは転移の魔法陣を展開していた。


「おい。どこへ行く気だ」


「カザミナ族を回収する」


「それより暴れ回ってるガキどもをなんとかしろ! 銃が流通しなければお前も困るはずだ。アルムグレーンはお前にとっても大口の取引先だろう」


「確かに痛手だが、ユラクの銃を買いたい奴は他にもいる。アルムグレーンで駄目ならそっちを優先するだけだ」


「貴様……ッ!」


 公爵は歯噛みするが、リヴデの転移を止める術はない。

 魔法陣が完成した。魔力を解放し、リヴデは自分だけの固有魔法を発動する。


「………。…………どういうことだ」


 リヴデの姿は未だ生徒会室にあった。転移の魔法は間違いなく発動したはずなのに。

 リヴデは再び、自分の身体を講堂へと飛ばそうとした。しかし、またしても失敗に終わる。おかしい。魔法の発動を止められた感覚はない。己の魔力量もしっかり消費されている。


 形容しがたい奇妙な感覚だ。まるで自分が立っているこの場所以外、世界には他の空間が存在していないような、そんな不気味さが……。


「ねえ、ねえ。あなたに聞きたいことがあるんだけど」


 気安い仕草でリヴデの肩に手が置かれた。

 声に導かれるまま振り返る。間近にあったのはニファの顔だ。ルーカス陛下の使用人といっていた。ニファは、リヴデと額をくっつけんばかりに身を乗り出した。


「彼、カザミナ族だったの? さすがに予想外だった。本人がそう話したのかな」


 この女、何かがおかしい。

 気が動転していたとはいえ、背後に立たれても気配を感じなかった。

 さらには場違いなまでの馴れ馴れしさ。この状況で、不用意に魔法使いに触れる人間がどこにいる。


「お前、一体……」


「あれ? 認識阻害は緩めたはずだけど。まだちゃんと見えない?」


 瞬きをして次に目を開いたときには、ニファの容姿が変化していた。

 その場にいた全員が息を呑んだ。


 この世で他に類をみないプラチナブロンド。

 全てを見透かすような翡翠の瞳。

 作り物めいているほど整った顔立ち。

 穢れひとつない白い修道服。


 この女を知らない人間など世界にいないだろう。


「ミルファナ・ルーン・フィランス……!?」


 リヴデはおもいきり飛び退いた。机と椅子を巻き込みながら尻餅をつく。それほどの衝撃だったのだ。

 ルーカス陛下は開いた口が塞がらないようだった。

 ほとんど独り言のようにして呟く。


「に、ニファは……?」


「王宮で眠っています。ジェラール公爵についていく様子だったので、途中で入れ替わってもらいました」


 薄く微笑んだミルファナが悠然とルーカスに歩み寄った。

 それを止める者は誰もいない。リヴデも体を硬直させたまま、ミルファナの挙動を黙って見過ごしていた。不用意に動いたとき、自分がどうなるかわからない。


 ミルファナがルーカスに触れたその瞬間、ルーカスの体が跡形もなく消失した。驚愕したジェラール公爵が声をあげる。


「なっ……ルーカスが消えた!?」


 リヴデだけは何が起こったか瞬時に理解した。それが、自分の最も得意とする転移魔法だったからだ。

 しかし確信を持ってなお、信じがたい心境であった。いくら聖女ミルファナといえど、こんなにあっさりと転移を成功させてしまうなど。


 そんなリヴデの心の内を見透かしたように、ミルファナは苦笑した。


「何を驚いているの。転移なんてそう難しくないでしょ」


「ど、どこへ飛ばした。いま、この場所は」


「あ。気付いた? センス良いね。私がここに踏み込んだ瞬間から、この場所は外界から切り離したわ。部屋の出入りはもちろん、転移魔法も使えない。思念の類いだって通さないわ。私の許可なしじゃ」


 リヴデはもう一度念話を飛ばす。先ほど同じ反射されるような感覚があった。転移を試みても結果は同様だった。

 ミルファナの言葉に偽りはないらしい。誰もここからは出られない。


 恐怖に耐えかねた武装兵が扉に手をかけた。ドアノブを何度も回そうとするがびくともしない。距離をとり自動小銃を連射する。木製の扉には容易く穴が空くが、どういうわけか弾丸が貫通していかない。薬莢と弾丸が床面に散らばる。


「だから無駄だって。誰も逃げられないよ」


 二人の兵は我先にと武装を解除した。全ての装備を放り出すと、泣きそうな顔で跪いて懇願した。


「頼む。見逃してくれ。ギードさんに言われて仕方なくやっただけなんだ。俺だってこんなことはしたくなかった」

「俺たちみたいな低賃金の労働者は毎日を生きるので精いっぱいなんだ。好きなだけ金をくれるってきいて魔が差した。反省してる。まさか聖女ミルファナが俺たちの懺悔に耳を貸さないなんてないよな?」


 不利と感じるやすぐさま寝返ろうとする腑抜けどもに、リヴデは苛立ちを覚えた。これだから種無しは使えないのだ。


 ミルファナはそんな二人の前を素通りした。まったく意に介していない。興味があるのはリヴデが持つカザミナ族の情報だけだろう。

 無言で近づいてくるミルファナに恐怖を感じ、リヴデは声を張り上げた。


「こんなところで油を売っていていいのか」


「どういう意味かな」


「反旗を翻した以上、俺たちはもう容赦しない。全ての武力を持ってお前たちを攻撃する。お前はともかく、学院生たちが何人死ぬかな」


 聖女なら少なからず動揺を示すはずだ。

 しかしミルファナの反応は、リヴデの予想とは乖離したものだった。


「あ、ごめん。そういうの心底どうでもいい。好きにしたら?」


「なっ」


 リヴデは耳を疑った。

 なんだ、この女は。本当にあのミルファナ・ルーン・フィランスか。

 回復魔法の生みの親にして、博愛の心を持つ聖女。数多の国を渡り歩き、行く先々で人々の傷を癒して病を治したことから、つけられた唯一無二の称号。


 目の前の女は、ミルファナの人物像とはあまりにかけ離れていた。


「あんた聖職者だろ!? 心が痛まないのか!」


「だって公的な場じゃないし。聖女としての振舞いはおやすみでもいいでしょ。だいたい何のため堅物陛下にいなくなってもらったと思ってるの」


「なんだと」


「人様に見せられないことをするからよ」


 剣呑な雰囲気を感じ、リヴデは声を上擦らせた。


「俺を……殺すつもりか」


「なんでよ。カザミナ族のことを知りたいんだってば」


「知ってることは全部話す。だから————」


「だから見逃してくれ、なんて陳腐なセリフは言わないでね。悪役ならもう少し気の利いたことを喋って。だいたいあなたは交渉する立場にないの」


 ミルファナはウキウキと楽しそうに、唇をなめた。

 その手には高密度の魔力が宿っている。白く細長い指が、リヴデの髪を梳いた。


「今から、あなたの脳をひらくわ」

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