第17話

 聞き間違えるはずもない。コッキング音だ。

 クロカミは咄嗟に壁際に退避した。


「伏せろ!」


 声を張り上げた瞬間、ガイルの兜が吹き飛んだ。


 アルマが悲鳴をあげる。ガイルはふらつきながら片膝をついた。

 着弾の直前、ガイルは頭を逸らしていたらしい。狙いがわずかにずれたおかげで致命傷を避けたようだ。だが、かなり重傷だ。


 リュシーは身をひるがえし、ガイルに駆け寄ろうとする。

 迷彩服の男が叫んだ。


「おっと! 余計なことをするなよ。魔法を使おうしたら即座に撃ち殺すからな」


 聞き覚えのある声色に思えた。昔、どこかで……。


「今ので死なないのか。流石は王国最強の騎士団長ガイル・テールベルト。王様を連れてここまで逃げ回るだけあるな。だがもう終わりだ」


 その男はマスクとゴーグルを外していた。クロカミは目を見開いた。

 無精ひげを生やした老け顔。記憶よりもさらに歳を重ねていたが間違いない。

 父ユラクが従えていた戦闘集団のひとつ、ジナングに属していた。たしか名前はギード。


 まさか、と思う。この事件の首謀者がギードなのか。あいつは銃を扱った経験がある。そこで得た知識を使って武器を量産し戦力を集めて……。


 迷彩服の一人が名簿のようなものを手にしながら、ギードに耳打ちした。

 聴覚が優れているクロカミには、その内容がきこえていた。

 ギードが片手を上げる。敵兵たちが一斉にアサルトライフルを構えた。


「殺されたくなけりゃ全員手を挙げろ。無駄な抵抗はするなよ? それだけ死人が増えるぜ」


 うずくまったガイル以外、全員が両手を挙げた。

 敵兵たちに油断の色はない。もし身じろぎ一つすれば即座に撃ち抜いてくるだろう。

 だが、ある人物にだけは銃口が向けられていない。


「ルーカス国王陛下。会えて光栄だぜ。あんたはまずこちらに来てもらおうか。素直に応じてくれたらここにいる全員の命だけは助けてやる」


「……本当だろうな」


「ああ。約束しよう」


 なんの保証もない約束だと、誰もが感じているだろう。

 それでもルーカスは要求を拒むことが出来ない。慎重な足取りでギードたちの方へ向かおうとする。


「行くな。アンタが離れたら俺たちは殺される」


 クロカミが告げた瞬間、銃声が轟いた。

 弾丸が鼻のわずか先を通過していった。


「おい。そこの壁際で隠れている奴。誰だ。出てきやがれ」


 撃鉄を起こし、ギードがハンドガンを構える。

 クロカミはお望み通りにその姿を晒した。

 この世界では生まれるはずのない黒い髪を目にした途端、敵兵たちが取り乱した反応を見せた。ガイルたちに向けられていた銃口が一斉にこちらを狙いすます。

 ギードはクロカミの顔をまじまじと見つめ、やがて呟いた。



「お前まさか————ミスイか」



 ミスイ、という単語にアルマがかすかに反応した。

 幼少の頃とはだいぶ顔つきが変わったはずだが、ギードは一目でクロカミの正体を見抜いてきた。おぞましい寒気が走った。


「よりにもよってお前かよ。アルムグレーンのクロカミってのは」


 ギードの顔に再会の喜びなどない。

 むしろ嫌悪と敵愾心が剥き出しになる。父ユラクの姿と重なるせいかもしれない。


「なんでこんなところにいやがる」


 その反応にクロカミ————ミスイは眉をひそめた。

 ギードの言い回しに微妙な引っかかりがあった。まるで、ミスイが別の場所にいると思い込んでいたみたいな……。


 ギードが薄ら笑いを浮かべながら近づいてくる。


「久しぶりだなぁ、ミスイ。五年ぶりだったか。俺のこと覚えてるか」


「馴れ馴れしいんだよ。てめえみたいな下っ端なんざ一々覚えてられるか」


 とぼけたふりをして、ミスイはわざと挑発した。

 ギードの顔から笑みが消える。こめかみに血管がうっすらと浮かんだ。


「下っ端だと」


「記憶違いだったか? ジナングの末端でこき使われてた奴によく似てる。銃を撃つのも下手くそだったからオヤジにボコボコにされてなかった?」


「誰の話をしてんだ。俺はギードだ。五年前は既に幹部だったし、今じゃそのジナングでリーダーやってんだよ」


「あー、思い出した。ギードね。いたかもしんねえ。で? オヤジがいなくなった途端お山の大将気取りか。小物がイキがってんじゃねえよ」


「ミスイ。ちったぁ口のききかたに気を付けろよ。こっちにどれだけの武器があるか知らねえだろ。ハンドガンやアサルトライフルだけじゃねえ。手榴弾や地雷だって造ってみせた。性能もあの頃より進化してる。ユラクさんにだって用意できなかった代物だ」


 話しているうちに愉快な気分になってきた。ギードたちの銃口はミスイを捉えている。それなのに笑いが止まらない。


 性格は昔のままか。ひょうきんな振舞いが多かったが、プライドを少しでも傷つけられるとすぐに頭に血が上って冷静さを欠く。ベラベラと情報を漏らしていることに気付いていないのか。


「造ったのはてめえじゃねえだろ。暴力しか取り柄のないお前にできるわけない」


「それはお前だって同じだろうが。父親から殺人術と残虐性しか受け継がなかったガキが。教養がないからスラムに住み着くしかなかったんだろ」


 貧困街で暮らしていることまで把握済みか。

 こんな頭の悪い連中がミスイの居所を知っていたはずもない。誰かから情報を受け取っているに違いない。おそらく銃火器を提供したのも……。


「今の飼い主は誰だ。教えろよ」


「大概にしろ、クソガキ。昔のよしみで助けてもらえるなんて思ってねえよな。残念でしたー、てめえはここで死ぬんだよ」


 ギードが親指を下に向けた。

 敵兵が今にもトリガーを引き絞ろうとしている。

 だがその寸前、ミスイは目にも留まらぬ素早さでルーカス陛下を盾にした。間髪入れず、ルーカスを床に組み敷いて、肉包丁を首元に這わせた。僅か一秒程度の出来事だった。


「動くな。殺すぞ」


 敵兵たちからどよめきの声があがった。ギードも顔を強張らせている。

 疑惑が確信に変わる。こいつらはルーカスに危害を加えられない。


「一度しか言わない。ギード、手下に銃を下げさせろ。こいつの首を斬り落とすぞ」


 兵たちが戸惑いを示す。助けを求めるようにギードの顔色を窺った。

 しかしギードも固まっている。どう指示を出すべきか判断を迷っているようだった。

 ようやく硬直から脱したらしい。ギードは肩をすくめてみせた。


「やりたきゃ勝手にやれよ。手間が省ける。そいつがどうなろうと知ったことじゃ————」


 突如、ルーカスが甲高い叫び声を上げた。

 ミスイが肉包丁を引いた。ルーカスの首元から血が滴り落ちる。


「やめろ!」


 ギードが焦ったように怒鳴った。


「リストがあるんだろ」


「な、なんの話だ」


「とぼけるな。お前の後ろにいる手下。そいつに持たせた名簿には、殺しちゃいけない人間の名前が書かれている。さっきの会話は丸聞こえ」


 無差別な殺戮ではなかったということだ。

 校舎にはまだ多くの魔力反応が残っている。百名以上の生徒がいるはずだが、そんな人数をわざわざ人質として生かしておくのは何か理由があると思っていた。


「それも飼い主から言いつけられたか?」


「殺すぞテメエ!」


「まだ力関係が理解できないのかよ。どっちに主導権があるのか、わからせてやる」


 ミスイは無造作な動きで体重を移動させた。

 刃がさらにめり込んでいく。充血した目で暴れようとするルーカスを上から無理やり押さえつけた。


 敵味方問わず、全体に緊張が走る。


「まて!」


 ミスイは止まらなかった。


 他の誰がやっても、ハッタリとしての効果は薄いだろう。

 だがクロカミ・ユラクの血を引くミスイならそれをやりかねない。かつて行動を共にしていたギードならそう信じ込む公算が高かった。


「まて、まてよ。そいつを殺されると困るんだよ」


「俺は困らない。どういう計画か知ったことじゃねえがせいぜい後悔してくれ」


 あと少しで致命傷に至る、そんな絶妙な力加減を演出する。


「まてって言ってるだろ!」


 ミスイは何も言わなかった。だが、言わんとしていることを察したのだろう。

 ギードはようやく銃を下ろした。その動きに合わせ、控えていた手下たちもアサルトライフルの銃口を下げた。


 これで、即座に撃ち殺されることはなくなった。だが当然、まだ油断を許さない状況には違いない。


「昔話でもしようか、ギード。余計な連中には席を外してもらってから」


「……お前ら、全員後退しろ」


 先程よりは聞き分けがいい。

 アサルトライフルの射程距離はかなりある。たとえ廊下の突き当りまで後退したとしても充分に射程圏内だ。

 なら、次に動くべきは……。


「おい、そこの三人。なに棒立ちしてやがる。お前らも例外じゃない」


 後ろを向かないまま、ミスイは忠告した。

 三人がどういう視線を向けているか、ミスイは考えないようにした。


「特にその騎士に不意を突かれるのは御免だ。とっとと消えろ」



 後方で人が動く気配はなかった。

 じれったさと焦燥感が募る。


「なんで……」


 アルマの声は震えていた。


「なんでこんなことをするの。やめてよ……ミスイ」


「気安く名前を呼ぶな」


 ミスイは突き放すように告げた。


「俺がわざわざここまで出向いたのはこいつらに用があったからだ。お前らがいたんじゃ大事な話ができない」


「私を助けてくれたのは……」


「そんな覚えはない。馴れ馴れしい」


 アルマがさらに何か言いかけた。

 だが言葉にはならなかった。止めたのはリュシーだった。


「アルマ。彼の言う通りにしよう。ガイル様も」


 三人の気配がひとかたまりで遠のいていく。負傷したガイルを、アルマとリュシーで支えているのだろう。


「君たちもこれでわかっただろう」


 ガイルが苦々しく吐き捨てた。


「結局、蛙の子は蛙だ。人を人とも思わない、冷徹非道なクロカミ・ユラクの血筋。同じ言葉を話していても、あれは人間じゃない。人類に害をなすモンスターだ」


 冷たい風が吹いた気がした。

 ミスイは自嘲気味の笑みを浮かべた。


 ガイルの言うことはもっともだ。

 幼い頃から銃火器の知識と人殺しの術を叩き込まれ、それを実践してきた。貧困街で何人も殺した。今日だって敵兵の命を奪った。


壊し壊され、奪い奪われ、殺し殺される。


父親から離れるまではそれがこの世の常識で、誰もが平然とやってのけていることだと信じてきた。

 だが、狂っていたのは自分の方だった。誰もかれもが、むやみやたらに命を奪ったりしない。手と手を取り合い、助け合っていく。そういう生き方こそが正常だった。


 アルマたちの気配がかなり遠ざかった。

 これなら仮に銃を乱射されても逃げ切れるはずだ。


 ギードは顔をひきつらせながらも、徐々に余裕を取り戻しつつあった。遠距離攻撃の手段があるジナングと、近距離戦闘しかできない烏合の衆。膠着状態が解けたとき、どちらが有利かなど一目瞭然だ。


「おい、ミスイ。俺たちは別にお前とやり合いたいわけじゃねえのよ。お前もそんなの面倒だろ。金ならいくらでもくれてやるから、ここは引いてくれねえか」


「あ? そんなもんより俺は新しい銃が気になってんだよ。お前も男ならわかるだろ」


 ギードは歯を見せて笑った。


「まあな。クロカミ・ユラク様様だぜ」


「お前らが気持ちよく暴れ回っていられるのは、俺の父さんが造った銃のおかげ。そんな偉大な父の長男に何の断りもないってのは失礼じゃないか」


「なにがいいたい?」


「お前のハンドガン寄越せ。マガジンも全部。どんな出来か俺が直々に見てやるよ」

 ギードは躊躇う素振りを見せた。

 遠距離攻撃の手段がミスイに渡れば、優位性を崩すことになる。

 ミスイは肉包丁を廊下に滑らせた。あえてギードのすぐ足元を狙った。


「何の真似だ」


「どうしたよ。人質以外になんの武器も持たない俺がそんなに怖いか」


 わかりやすい挑発だったがギードは乗ってきた。

 ミスイの真意を探ろうとも、従う他ないと理解したのだろう。渋々ながらもハンドガンを放り投げる。次いでマガジンもミスイの足元に転がってきた。


 ベレッタだ。

 ミスイが初めて手に持った銃火器もそれだった。嫌な意味で思い出深い。

 遠くからでは確信が持てなかったが、もう断言できる。この武器には誰の魔力も付着していない。よって敵側に位置を知られることはない。


 ミスイはベレッタに自分の魔力を付着させた。ギードを注視したままベレッタとマガジンを後方へ蹴る。


「……なにしてやがる?」


「次はアサルトライフルがいい」


「なあ、ミスイよ。おふざけはこのくらいにしないか。仲間外れにして悪かった。そんなに使いたいならなんでも撃たせてやるからよ。とりあえず王様を寄越してくれないか」


「そうだな。俺もこんなおっさんに興味はない」


 ギードは目を丸くした。いやに素直な態度が意外だったようだ。

 ミスイはルーカスを引き立たせた。もちろん、撃たれないようにルーカスを盾にする。


「王様」


 ミスイは小声でささやいた。


「俺から離れないように。ゆっくり歩いてくれ。狙撃される」


 ルーカスは上擦った声で応じた。


「ここからどうする気だ」


「策は打った。合図が出たら走り出せ」


「走る……?」


 ルーカスは意味がわからないと言いたげだった。

 ミスイにとっても賭けに等しい。自分の生死を他人に委ねるなど落ち着かない。だが今はそのときを待つしかなかった。

 状況に変化がないまま、ミスイたちはギードの前にたどりついた。


「手間かけさせやがって」


 ギードが手を伸ばしてくるが、素直にルーカスを渡すわけにはいかない。

 ミスイは時間稼ぎに徹した。


「最後にもう一つお願いをきいてもらおうか」


「アサルトライフルなら後で触らせてやる」


「もっと別のことだ」


「なんでもいいから、はやくしてくれないか」


「土下座って覚えてるかよ」


 ギードの血走った眼が向けられた。

 額に青筋が浮かび上がる。


「オヤジの故郷では誰かに何かをお願いするとき、そうやって頼みこむらしい。それが出来たら王様なんてくれてやる」


 これ以上は無理だ。限界だろう。

 ギードは唾を飛ばしながら激昂した。


「図に乗ってんじゃ————」




「———ライトボール」




 刹那、凄まじい閃光が後方から炸裂した。

 予期せぬ奇策によってまともに光を直視したギードや武装集団は眼を灼かれ、痛みをこらえるようにうめいた。


 やっときた。この機を逃さない。


 ルーカスを引きずり、ミスイは回れ右をして駆けだした。クリアに映る視界の中で爆走しリュシーのもとまでたどりつく。まだギードたちは行動不能だ。

 リュシーが言う。


「はやく下の階に」


「違う。全員でその部屋に入り込め」


 沈黙と共に、困惑気味な空気を感じ取れる。

 だが迷っている場合じゃない。ギードたちが再起したとき、間抜けにも姿を晒すわけにはいかない。ミスイは強引にでも全員を部屋に誘導した。


 それはとある教員が使っている部屋だった。この学院の教員は全員、個室が与えられている。他の魔法学校では考えられない好待遇だった。

 だが当然、武器になるものはない。踏み込まれたら一巻の終わりだ。


 アルマは切羽詰まっていた。


「ね、ねえ。やばいんじゃないの、こんなところいたら」


「しっ」


 ミスイが静寂を促すと、アルマは慌てて両手で口を塞ぐ。

 ライトボールの効果はとっくに切れている。そろそろギードたちが動き出す。

 耳をすませる。


 若い男の声だ。まずいですよ、ギードさん。どうするんですか。ギードが苛立ちながら言い返す。応援を呼んで立て直す。ハンドガンを持ったミスイを無策で探そうとするな。あいつはどこから不意打ちしてくるかわからねえ————。


 その後もなにやら揉めているようだったが、ギードの指示通りの行動に移ったらしい。足音と気配が遠のいていく。

 リュシーは扉に耳を押し付けて、外界の気配を探っている。


「撤退したと見せかけて、何人か近くに残している可能性は?」


「絶対ない。中途半端な人数を残せば無駄に死なせるって分かり切っているはず」


「旧知の仲だから、そうなるって思い込んでる?」


「あんな奴と一緒にしてくれるな」


口では否定するが、リュシーの指摘は正しい。あれでも当時ジナングで幹部をやってた男だ。無謀な特攻はしないと踏んでいた。

 気配が完全になくなった。ここにきて、リュシーはようやく安堵したらしい。脱力した姿勢で呟く。


「危険な賭け。読み間違えたら死ぬところだった」


「それでも問題なかった。もしギードが血迷ったとしてもそのときは————」


 リュシーとの会話に気を取られ、察知が遅れた。太い腕が喉元に迫っている。

 胸ぐらを掴まれ、同時に剣先が頬骨に押し付けられる。ガイルの憎悪と殺意に満ちた瞳は、さしものミスイもたじろぐほどだった。


「貴様。よくも陛下に傷をつけてくれたな」


 片腕で首を絞められ、息苦しさを感じる。

 ただ、慌てふためいてもがくような真似はしない。凄まじい膂力を振り解けない以上、無駄に苦しくなってしまうだけだ。


「ちょ……何してるんですか!?」


 アルマが声を荒らげ、ガイルの腕にしがみつく。しかし、騎士は微動だにしない。少女が全体重をかけても腕が下がる気配はない。


「その手を降ろしてよ! ミスイの機転で助かったじゃん。仲間割れなんてしてる場合じゃないでしょ!」


「仲間ではない。こいつは我々の敵だ」


 力がさらにこもった。ミスイは苦しげにうめいた。このままでは呼吸困難の前に首の骨を折られる。

 だがその寸前でガイルの力が弱まった。

 リュシーがガイルの腕に掴んでいる。


「その手を離してもらえませんか」


「君まで何を言い出すんだ」


「アルマの言う通りだった。彼は敵じゃない。敵勢力と揉めている様子をあなたも見ていたはず」


「内輪揉めのように見せかけて油断を誘っているに違いない」


「あり得ません。わざわざそんなことをする理由はなんですか。彼らはいつでも私たち全員を撃ち殺せたはず」


「俺は信じない」


「彼はルーカス陛下を無事に連れ戻した。それがなによりの答えです」


 女子生徒二人に説得されてもガイルは頑として譲らない。


「ガイル。彼を離してやってくれ」


 ルーカスもガイルの説得にかかる。

 いまも痛そうに首を押さえるルーカスを見て、ガイルの顔が青ざめた。


「陛下、速やかに治療を! 首からの出血は危険です。回復魔法を————」


 早口で捲し立てていたガイルはふいに言葉をとめた。

 ルーカスが手をどける。肉包丁で傷をつけられたはずの箇所は、赤く腫れあがっているだけだった。出血はない。


「ど、どうして」


「押し付けていたのは刃ではなく背だったよ。まあ、それでも荒々しかったがね」


「血を流しているように見えましたが……」


「彼自身のだ。肩からの血が流れてきたのだ」


 ガイルは空いている左手でミスイの手を取った。ルーカスの言う通り、肩からの出血が手の平まで伝っていたのだ。

 アルマがジト目で言う。


「いいかげん離してよ」


 今度ばかりはガイルは抵抗しなかった。

 首の圧迫感から解放され、ミスイは大きく咳き込んだ。アルマは心配そうに寄り添ってくれる。


「儂より、お前の方が重傷だ。すぐに治療したほうがいい。リュシーさん、たのめないか」


 恭しく首肯したリュシーは回復魔法の詠唱を始めた。

 ガイルの頭部に魔力を注ぐと、その傷は影も形もなくなってしまった。


 かなり上位の回復魔法だ。フィランス家が抱えるシスターでも、これほどの腕の持ち主は少ないだろう。


 この女は何者なんだ……?


 ガイルの治療を終えたはずだが、リュシーの手にはまだ魔力が宿っていた。

 感情の読めない瞳がミスイに向けられた。


「あなたも早くこっちにきて」


 どうやら治療をしてくれるらしい。

 ミスイは首を振った。


「いい。俺には必要ない」


「何を言っているの。肩の傷はもちろん、頭からも出血してる。はやくして」


「魔力の無駄遣い」


 リュシーはうんざりしたように嘆息した。険しい顔のまま歩み寄ってくると、いきなりミスイの服を脱がし出した。

 アルマがそそっかしい動きで明後日の方向をむいた。


「な、なにをする。気でも狂ったか」


「早く傷をみせて」


リュシーは女にしては力が強かった。手負いではミスイの抵抗もそう続かず、やがて諦めたように力を抜いた。


「一応もう一度忠告する。魔力の無駄遣い」


「しつこい」


 患部を外気に晒したところで、リュシーは回復魔法の詠唱を開始する。

 ミスイは目を凝らし、彼女の魔力の巡りを観察した。

 なるほど。自分の魔力を生命エネルギーに変換して、それを他者に分け与えているのか。


「……。どういうこと?」


 リュシーは茫然としていた。

 回復魔法は正常に発現していた。にもかかわらず、ミスイの傷は一切塞がっていなかった。

 彼女は自分の手の平を眺めていた。


「魔力が尽きた?」


「いや、違う。俺の身体は他人の魔法を受け付けないんだ」


 ガイルが疑わしげな目を向けてきた。


「魔法を受け付けない? そんなことありえない。魔力を相殺するのは魔力だけだ。お前の中に巡る魔力がリュシーさんの魔法を拒絶しているとでも?」


「だからそう言ってる」


「お前、魔力持ちだったのか? 何故隠していた」


「隠すもなにも誰にも聞かれた覚えがない」


 ミスイは鞄から水の入ったボトルを取り出し、肩の傷を洗い流した。激痛が伴う。ついでに頭からもかぶっておいた。

 次に懐から手にしたのはボロ布だった。普段、頭に巻いているものだ。

 それを患部に当てようとすると、アルマがぴしゃりと言い放った。


「待って。そんなので塞いだらばい菌が入っちゃう」


「綺麗な布なんて持ってるわけない」


「だったら……」


 アルマがポケットから取り出したのは白いハンカチだった。

 一目でわかる。かなり上質な布地だ。

 アルマは何のためらいもなく、それを引きちぎった。包帯代わりにミスイの傷口に当てると、みるみる血液を吸って白布は赤く染まっていった。


「おい」


 ミスイが抗議するが、アルマはきかない。


「リュシー、ごめん。手伝ってくれない?」


「わかった」


 リュシーがミスイの肩を支える。うしろに回り込んだアルマが慣れない手つきでハンカチを引き延ばし、強く結ぶ。止血が完了した。


「こんな高いの返せない」


「返さなくていい。っていうか、この状況でそんなこと気にする?」


「俺はきたないんじゃなかったのか」


 アルマが一瞬だけ動きを止めた。

 少しだけ怒っている表情だった。


「もうそんな風に思わない。わかってるくせに」


 ミスイの頭を小突いてくる。アルマは恥ずかしそうに背を向けた。

 早く服を着ろと言われている気がした。ミスイはいそいそと服を手にする。いやに沈黙が気になった。

 二人のやり取りを見ていたリュシーが嘆息する。ミスイに詰め寄ってきた。


「ねえ、アンタ。こういうとき普通なんて言う?」


「な、なんて……?」


 ミスイは口ごもった。

 思い浮かぶフレーズは一つしかない。だが、あまりにも言い慣れてないせいで本当に正しいか自分でも疑わしくなってくる。


 どうしていいかわからず、視線をさまよわせると偶然にもアルマと目が合った。

 喉に言葉が絡まる。中々出てきてくれない。しかも困ったことにどこか心地よさを感じている。


 ミスイはか細い声でこぼした。


「ありがとう」


「ど、どういたしまして。……なんだか照れる」


 そうは言いながらも面映ゆそうにしているアルマを、ミスイは直視できなかった。

 誰かに感謝を述べる機会が訪れるとは。

 こういうやり取りは、自分には無縁な礼儀作法のはずなのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る