第13話

「その人……死んじゃってるの?」


 アルマ・ラトヴィアは迷彩服を見下ろし、クロカミに問いかけた。

 男の死体は外傷がなく、端から見ればただ横たわっているようにしか見えない。しかし心臓の鼓動は停止している。絶命は明らかだった。


「あなたが、そのう……」


「俺が殺した」


 クロカミは、なんでもないことのように呟いた。

 殺害の瞬間は目にしていなかったらしい。だが疑いの余地などない。実行犯はクロカミ以外にあり得ないのだから。


 アルマがスカートの裾を握りこんだ。

 俯いたまま、体をぶるぶると震わせる。カチカチと歯が鳴っていた。


「私のことは……殺さないの」


 クロカミはアルマを見つめた。

 出会ったばかりのエルマによく似ている。あの子も、初めはクロカミを警戒していた。姉妹なだけに顔つきは瓜二つだった。


「俺は——」


 答えようとした矢先のことだった。

 アルマが大袈裟な息遣いでうずくまる。苦しそうに胸をおさえ、過呼吸の症状を見せた。

 極度の恐怖と緊張に晒された結果だ。クロカミは慌てなかった。何度も似た状況に遭遇している。対処法も記憶していた。


「落ち着け。まずは鼻から息を全部吐き出せ。吐いたら数秒、息を止めろ。落ち着いたら、ゆっくり吸い込め。ゆっくりでいい」


 アルマが頷いてクロカミに言われたことを実践しようとする。

 しかし息を吸い込むタイミングが早い。苦しさがぶり返したのか、アルマはパニックになりかけていた。


「もう一度。吐いて。止めて。吸って」


 素直に言うことを聞いてくれているが、効果が芳しくない。

 アルマの身体に流れる魔力も荒々しく昂ぶっている。

 ふと思いつくものがあった。クロカミはアルマの肩に触れる。暴走しかけている彼女の魔力を吸収してみた。

 容態の変化は顕著だった。アルマが顔を上げる。ゆっくりと呼吸を繰り返し、平静さを取り戻していく。


 少し離れても大丈夫だろう。クロカミはキッチンの食器棚に向かった。グラスと複数のボトルを拝借し、水の魔導石を取り出した。


 一つしかない魔導石をこんなに早く消費することになるとは。いざというときの切り札に温存しておきたかった。

 勿体なさを感じ、少し加減して叩きつける。


 術式が発動する。水が発生し、グラスとボトルになみなみと注がれていった。

 一度発動させてしまった術式は、出力を抑えても完全にゼロにはできない。効果が切れるまで水を生み出し続ける。クロカミは魔導石を水溜まりに落とした。活用の場面はすぐにやってくるだろう。


 ボトルは鞄にしまい、グラスの方はアルマの元へ運んだ。

 アルマは躊躇う素振りを見せながら水を受け取った。おそるおそる口づける。ごくりと喉が鳴った。今度は一気に飲み干した。


「さっきの質問だが、俺は」


「いい。もう、いいよ」


 口元を拭いながらアルマは言う。


「私を殺すつもりなら、こんな風に介抱するわけない。あなたはいつだって殺せた。そうなってないのは、あなたにその気がないから」


 全部が嘘ではないが本心でもないだろう。

 クロカミを命の恩人だと思い込むことで猜疑心から目を背けようとしている。


「だから……」


「あまり勢いよく喋るな。また苦しくなるぞ」


「私は、あなたを信じるから」


 クロカミは複雑な心境だった。

 その言葉を口にした彼女の心中は、どんな葛藤が渦巻いているだろう。感傷に浸っている場合ではないのに、しばし沈黙してしまった。


 クロカミは立ち上がり言った。


「アルマも立ってくれ」


「待ってよ。ちょっと休ませてほしい」


「休んでる暇はない」


「わかってる。誰か来るかもしれないよね」


「もう来てる。銃声を響かせてから長居し過ぎた」


 休憩はもう終わりだ。

 階段から複数の足音が響く。この別館を巡回していた敵兵が全員やってきているはずだ。

 こちらの様子を窺う気配を感じる。まだ突入はしてこない。不自然な静寂に敵も警戒心を募らせている。


 血の気が引いた顔でアルマがすがりついてくる。


「ど、どうするの」


「勝手口まで移動してくれ。足音を立てないように」


 アルマと二人してキッチンに戻る。

 いまだ魔導石は水を生成している。水溜まりは広範囲に広がっていた。アルマは何か言いたげだったが、勝手口を見つけた途端そのドアに手をかけた。


「出るな。その外にも敵がいる」


「えっ」


 アルマが慌てて内鍵をかける。直後、ドアが外側から勢いよく叩かれた。アルマはびくついた反応を示した。

 一方でクロカミは調理器具を漁っていた。肉包丁を引っ張り出す。この中で一番殺傷能力が高いものを選んだつもりだ。


「それで戦うの? 勝てる?」


「これは使わない」


 肉包丁を懐にしまう。

 ドアの音を聞きつけ、クリーム色の迷彩服たちが食堂に侵入してきた。六人いる。全員がアサルトライフルを構え周囲を警戒する。


「ねえ、やばいよ。どうするの」


「ずぶ濡れになる覚悟を済ませてくれ」


「えっ?」


 水の魔導石を拾い上げ、それを敵兵の中心に放り投げる。

 即座に踵を返したクロカミがアルマを抱きかかえ、勝手口のドアを蹴破った。

 背後で魔導石が砕け散る音をきいた。


 一拍置いて、凄まじい爆発音が轟いた。

 魔導石に残っていた魔力が一気に解放され、巨大な水柱を発生させる。

 六人の敵兵が水に呑み込まれるところは見届けた。それまでだった。豪快な水音とともに激流が迫ってきていた。


 水飛沫がかかった。そう認識したときには、クロカミたちは勝手口の外にいた敵兵もろとも、大河のごとき放流に押し流されていった。その勢いは衰えることを知らない。身体がぐるぐると回転する。まったく身動きがきかず、本当に大河で溺れているような恐ろしさを覚えた。


 それでもアルマのことだけは絶対に離さない。絶対だ。


 だが鼻と口から水が流れ込み、耐えがたい苦痛に襲われていくうちにクロカミの胸中に後悔が芽生えた。

 少し、魔力を込め過ぎたかもしれない。



「げほっ」


 クロカミは覚醒と同時に水を吐き出した。

 腹の中を多量の水が満たしている。そんな気持ち悪い感覚があった。嘔吐感に任せ、さらに水を吐き出していく。


「大丈夫?」


 優しい女の声がした。

 誰かはわからなかった。うずくまるクロカミの背中をさすってくれている。安心感を覚える、そんな手つきだった。

 次第に意識がはっきりしていく。


 アルマ・ラトヴィアが気遣わしげに眉を寄せていた。


「よかった。起きてくれて。どうしようかと思っちゃった」


 心底ほっとしたようにアルマが笑った。

 クロカミも釣られて笑みを浮かべそうになった。だが視界に本校舎が映った瞬間、自分が危険地帯にいることを思い出した。


 慌ててあたりを見回す。別館があった場所からかなり流されてきたようだ。近くに敵の気配はない。長距離からの狙撃の心配もなさそうだ。

 不覚だ。こんな場所で意識を手放すなど。殺してくれと言っているようなものだ。


「怪我はないか」


「うん。平気。すごいびしょ濡れだけど」


 全身から水が滴り落ちる。自分も同じ有様だろう。

 なんとか敵をやり過ごせたのはいいが、すぐに着替える必要がある。移動の痕跡を残していくのは命取りだ。


「服飾室に向かう。制服が飾ってあったはずだ。着替えてほしい」


「え、うん。わかった」


 クロカミは校舎に駆け出そうとし、そこで立ち眩みを覚えた。

 頭に鈍い痛みが走り、視界が霞む。身体が少しふらついた。アルマは反射的に飛び出し、クロカミの手を掴む。


 予期せぬ彼女の行動に、クロカミは驚愕した。アルマ自身も驚いているようだった。

 しばしその状態が続いたが、どちらからともなく手を離す。無言のアルマが先行して校舎の中へ入っていった。


 クロカミは彼女の背中を追っていった。返り血のついていない自分の手に、ほのかな熱を感じながら。

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