第4話
目的地が近づくにつれ、貧困街とは真逆の様相が目に付く。人も物も密集した息苦しさから一転、ゆとりある開けた場所に出た。
屋敷とも豪邸とも言えるほど広大な住宅が立ち並ぶ。このあたりは子爵以上の階級でなければ居住できないエリアだった。身分が不確かな者は立ち入りすら許されない。
顔見知りの衛兵を見つけ、クロカミは頭巾を外した。真っ黒な毛髪が露わになった。
衛兵は一瞥しただけで門を開ける。すでにこちらへの興味は失くしていた。ここから先、髪を隠すことは禁止されている。
学院の敷地に入ったクロカミが瀟洒な造りの校舎を眺めた。
王立魔法魔術学院。
アルムグレーン王国の中でも、より魔法の才に秀でた者だけが入学を許される、王国最高峰の魔法教育機関だ。
卒業式を控えた今、生徒の姿をほとんど見かけない。クロカミにとっては好都合だった。人に会えばそれだけ余計なトラブルに巻き込まれてしまう。
毎日清掃業務に従事しているせいか、学院はどこもかしこも小綺麗だ。掃き掃除とゴミ捨てだけで今日の仕事は終わるはずだった。
しかし、クロカミは今、陽のあたらない校舎裏で立ち尽くしていた。
『クロカミは全員死ね』
『疫病神の立ち入りを許すな』
『人殺しの血筋に制裁を!』
クロカミへの誹謗中傷が壁一面に書かれている。
駆け寄って文字に触れる。ペンキや着色スプレーではない。粘着テープだ。剥がしてから壁面を洗い流せば綺麗に落とせる。
作業鞄から水の魔導石を取り出そうとしたとき、背後に人の気配を感じた。
振り返ると、くすんだ金髪とオールバックの灰髪が目に留まった。
またこいつらか。
ハミッシュ・フォン・アルベールと、ニック・ランベール。
それぞれ伯爵と子爵の家系出身の貴族だった。
二人の顔に歪んだ笑みが浮かぶ。真っ先に金髪のハミッシュが歩み寄ってきた。
「おやおや、これは。今日も頑張っているじゃないか奴隷クン。そんなに毎日働いていたら大金持ちになってしまうぞ」
オールバックのニックがたまらず噴き出した。
「ハミッシュ殿も人が悪い。たかがゴミ掃除、はした金にしかなりませんぞ。誰にでもできる仕事ですからな」
「おっと、これは失敬! 種無しではそういう仕事しか務まらないのだったね。配慮の欠ける発言をしてしまった。お詫びに施しを与えるとしよう」
ハミッシュが懐から何かを取り出し、放り投げてきた。
それは数十枚の硬貨だった。銅貨ばかりだったが、かき集めればクロカミが一日で稼ぐ額に届く。
「良かったじゃないか、スラムの貧乏人。ハミッシュ殿が恵んでくださったぞ。ありがたく思えよ」
ニックが挑発しているが、クロカミはそれを無視した。無言で箒を手にする。あたりに転がった硬貨を掃いて集め、ちりとりに回収すると近くのゴミ箱に捨てた。
「おい!」
クロカミの行動が癪に障ったらしい。
「お前、なんだその態度は? 何様のつもりだ。魔法もろくに使えない種無しの分際で。ここは王立の魔法学校だぞ。お前みたいなクズが出入りしていたら学校の品位が落ちるだろうが」
てめえのせいでな。クロカミは言葉を飲み込んだ。
世界中から恐れられるクロカミだが、この学院ではその限りではない。
最初こそ怯えていた学院生たちも、クロカミが魔法を使えないと知るや態度が一変した。魔法を扱う者とそうでない者では力の差が歴然としているからだ。こういった嫌がらせは三年間で一度も途切れたことがない。
とはいえ、直接手を出してくるのはそう多くない。ここは名門の学院。クロカミに構ってくるのは成績不振の落ちこぼれか、よほどの馬鹿のどちらかだ。
「なんとか言ってみろよ、クロカミ。びびって声も出ないか? それともスラム住みには俺たちの言葉が理解できねえか」
「追試は無事に合格したかよ」
一瞬の沈黙があった。
ニックだけでなく、それまで涼しい顔をしていたハミッシュも一瞬だけ不愉快そうに顔を歪めていた。
一拍おいて、ハミッシュは高笑いをした。芝居がかった笑い方だ。
「魔力なしが何か言ったかな」
「魔法修練場、魔力操作。担当教員はクロード・マスカル」
今度はうまく笑い飛ばせなかったらしい。口元がひきつった形で固まった。
この時期にわざわざ登校しているのだから、彼らの事情など見え透いている。卒業試験を突破できず、再試験を受けにきたのだ。毎年そういう生徒を何人も見かける。
「お、俺らは研究会に顔を出しただけだ」
ニックが上擦った声で反論する。苦し紛れに出た言い訳だ。
クロカミは冷ややかに告げた。
「流石。328位と330位様ですね」
記憶していた順位を口にしてみると、二人が顔面を紅潮させた。
学院生の成績は教員室で簡単に盗み見ることができる。清掃員というのは情報収集に適していると思う。どこに忍び込んでも怪しまれないからだ。
「卒業できるよう祈ってる。留年でまた顔を合わせるのは御免」
憤然とした面持ちのニックが掴みかかってきた。
「誰に向かって口きいてんだ! 身の程をわきまえろよ、スラムのゴミクズ!」
クロカミは反撃を躊躇わなかった。
掴まれた手を外側にひねり、そのまま体重をかける。ニックは悲鳴じみた声をあげながら容易に膝をついた。
「は、放せ!」
解放してやると同時に突き飛ばしておく。ニックは腕をバタつかせながら尻餅をついた。
ぷっ、と誰かが吹き出した。
いつの間にか見物人が増えていた。ニックの醜態を目撃した者が我慢できず笑ってしまったようだ。今もクスクスと忍び笑いが聞こえる。
唾を飛ばしながらニックがわめく。
「き、貴様! 子爵家の人間に手をあげておいてただで済むと思うなよ。フィランス家の後ろ盾があるからと調子づきやがって」
クロカミは魔素の乱れを感じ取った。誰かが魔法を行使しようとしている。だが目の前のニックではない。
答えはすぐに明らかになった。ハミッシュの手の平に魔法が顕現していた。
それは小さな火の玉だった。だが、ハミッシュが魔力を編み込むことで次第に大きくなっていく。人間の頭ほどのサイズになった。
「どけ、ニック」
ハミッシュが命じるとニックが慌てて後ろに回る。
「伯爵以上の貴族にはその階級に応じて私刑が認められている。基本的には犯罪を抑止する以上のことはできないが……」
ハミッシュは興奮したように鼻の穴を大きくした。
「貴族への暴言と暴行を加えた者は極刑対象だ。伯爵家の嫡男である私が直々に裁きを下してやろう」
クロカミは緊張感の欠片もなく、火球をじっと見つめていた。
無言でハミッシュを指差す。
ハミッシュが鼻で笑う。
「どうした、大罪人のクロカミ。そんなに私の魔法が羨ましいか。種無しのお前では到底出来ない芸当だろう?」
「手元。よく見ろよ」
「なんだと? —————なっ」
ハミッシュが意識を逸らしたうちに、ファイアボールは気球サイズに肥大化していた。それでも膨張がまったく止まらず今や校舎を吞み込もうとしている。
魔力操作に失敗した場合によく見られる現象だった。
「ば、ばかな。こんな簡単な魔法で。どうなっている……」
「ハミッシュ殿まずい! 校舎に火が燃え移っちまう。落書きと違ってシャレにならねえ。今すぐ消してくれ!」
無論、ハミッシュはそのつもりだろう。だが膨れ上がった魔力はもはやハミッシュの制御下にはない。下手を打てば爆発しかねない。
集中力が乱れたのか、球状でおさまっていた炎エネルギーは不安定に形を崩し、閃光とともに爆ぜた。
火山噴火のごとき光景だった。
突如として発生した火柱は、煙と火の粉をまきちらしながら天空を駆け上がる。
使役者であるハミッシュが炎の中に呑み込まれた。近くにいたニックも同様だった。
火の手が迫る寸前、クロカミは水の魔導石を地面に叩きつけた。
術式が展開しクロカミを守るように水の壁が生成される。持続時間はそう長くないが、火柱の方も鎮火しつつあった。
魔法と違って魔術は便利だ。魔力を介さず術式を発動できる。術式がこめられた魔導石は貴重で中々手に入らないが、これは清掃業務用の支給品だった。
ハミッシュとニックの二人は制服を燃やしながら、火だるまになってのたうち回っていた。断末魔のような悲鳴があがるが、誰も助けようとはしない。ハミッシュたちへの人望が如実に表れていた。可哀そうとも思わない。
だがそこに、癖毛のブラウンヘアー女が走ってきた。
「大丈夫!?」
燃え盛る二人に躊躇なく接近した彼女は、水魔法を詠唱して炎を消してみせた。
ものの数秒の出来事だったが、誰もが呆気に取られ目を離せなかった。
彼女はあたりを見回し、声を張り上げた。
「誰か、回復魔法を使える人を呼んできて! この二人かなり重症だよ!」
助けを求める彼女の声はよく響いた。
目を逸らしてそそくさと立ち去る学院生ばかりだったが、藍髪の女子生徒がひとり彼女のもとへ歩み寄っていく。
クロカミは踵を返した。ここにはもう用がない。
念のため、壁面を確認しておく。落書きテープで埋め尽くされていたが、ファイアボールによって跡形もなく焼失している。掃除の手間が省けた。
次の清掃場所に向かおうとしたクロカミは、ふいに足を止めた。
振り返り、被害の中心地に目を向ける。
ブラウンヘアーの女が、青白くなった顔でうずくまっていた。
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