第3話
誰もが言う。彼女は癒しの女神だと。
誰もが言う。彼女は歴史に名を遺すと。
誰もが言う。彼女は世界の宝だと。
ミルファナ・ルーン・フィランスとはそういう存在だ。
全人類から崇拝されていそうな女であり、それが大袈裟すぎる評価とは言われない。彼女は富も名声も地位も手にしておきながらそれを鼻にかけず、博愛の心で身を粉にして人々に尽くす。
クロカミは、そんなミルファナのことが嫌いだった。
◇
荷車を引いていたクロカミの足が止まった。
進行方向にミルファナの気配を感じる。こういうとき、いつもなら遠回りしてでも彼女との遭遇を避ける。だが、清掃作業の開始時刻が迫っていた。
気が進まないが仕方ない。荷車に積んだ清掃道具がやけに重く感じられた。
老朽化した建物だらけの通りを抜け、陽の光が差す場所に出た。日中であってもスラムではまともに太陽を拝むことはない。頭上をビニールシートが覆っているからだ。おかげでゴミとホコリが溜まりやすい。
貧困街との境界線を越えれば、それだけで人が多くなってくる。クロカミはすぐ真横の広場に目を向けた。
そこかしこに空になった鍋が置いてある。どうやら炊き出しをしていたらしい。数人しかいない修道女が忙しなく後片付けをしている。
ひとりだけ、プラチナブロンドがやけに目立つシスターがいた。
大勢の子供たちに囲まれ、遊んでと迫られている。困った様子だった彼女は、歌を披露することになったらしい。歌声が耳に入った瞬間、クロカミは思わず顔をしかめてしまった。
足を止めたクロカミのもとへ、別の修道女が駆け寄ってきた。
申し訳なさそうに頭を下げてくる。
「ごめんなさい。もう炊き出し終わっちゃったんです。明日ならまたやってますけど」
「……歌がきこえたから、見てただけだ」
「素敵ですよね。私もつい聞き惚れちゃって!」
若い修道女が、あどけない顔で無邪気に笑う。本気で言っているのだ。
周囲を見渡すと、通行人も同じ様子だった。あの女の歌声に耳を傾けている。どんどん人が集まってくる。まるでストリートライブだ。
「ほら! もっと近くに寄ってください。こんなこと、滅多にないんですから——」
不自然に修道女の声が途切れた。ようやくクロカミの身なりに気付いたらしい。
頻繁に利用する通りだ。髪を隠していても、顔は知られてしまっている。
「あ、あ、あ……」
楽しげな雰囲気から一転、修道女の顔から血の気が引いていった。
クロカミ・ユラクの実子を前にしても叫び出さないのは聖職者としての矜持か。だが、本能的にわきあがってくる恐怖には勝てない。今にも倒れそうだ。
「だ、大丈夫。こわくない、こわくない……」
祈るように手を合わせ、彼女は己自身にそう言い聞かせた。
だが効果はなかった。極限状態に耐えきれず、修道女は突然倒れ込んできた。
クロカミは咄嗟に彼女の身体を支える。気を失っていた。顔色もひどい。何もしていないのに申し訳なく思った。
立ち尽くしていると、他の修道女二人が慌てて駆けてきた。卒倒した同僚の姿を見るや、ひったくるも同然にクロカミから彼女の身柄を預かった。
修道女たちから敵意のこもった視線を向けられる。
「なんてことするんですか!」
クロカミは反射的に眉をひそめた。言いがかりにもほどがある。
その剣幕とわずかにのぞいた毛髪で、二人もこちらの正体に勘付いたらしい。
「あ、いえ、その……」
威勢よく啖呵を切ったものの、彼女たちは急に怯えた顔で黙り込む。
クロカミも言葉を発しなかった。釈明や謝罪には意味がないと知っている。ユラクの子にできるのはこの場から姿を消すことだけだ。今度は彼女たちまで倒れてしまう。
割って入ったのは、場にそぐわない穏やかな声だった。
「そこまでにしましょう。皆さん、顔が怖いですよ」
いつの間にか、プラチナブロンドの女がいた。子供たちの輪から抜け出してきたようだ。
「二人には子供たちのことをお願いしていい?」
「ですが、この人……」
「いいよね?」
念押しされると、そそくさと修道女たちはクロカミから離れていった。
その後ろ姿を見届けた後で、白金髪の女はこちらに向き直った。
「気を悪くしないでくださいね」
「いつものことだ」
「こうしてまたお逢いできたこと、嬉しく思います」
ミルファナ・ルーン・フィランスは恭しく頭を下げた。
畏怖の象徴であるクロカミにさえ丁寧な対応だ。いまに始まったことでもないが、聖女にふさわしい振舞いだろう。
「アルムグレーンには、いつ戻ってきたんだ」
「つい今朝方に到着したばかりなんです。とても興味深いお話を小耳に挟んだもので、いてもたってもいられなくなって」
なにがおかしいのか、ミルファナは口元に手を当てて上品に笑う。
とても笑い返す気にはなれない。クロカミは周囲に流れる冷たい空気を肌に感じていた。
確かめるまでもなかったが、この場にいる全ての人間がクロカミとミルファナの二人を注視している。
彼らには異様な光景に映っているはずだ。
いくら平等主義を掲げる聖職者であっても、クロカミを擁護すれば白い目で見られる。ユラクの血を受け継ぐ子供たちは例外なく、世界の異物だ。排除されなければならない。
次第に、ざわめきが広がっていく。
「おい、ミルファナ」
「はい。どうかなさいましたか」
曇りない、翠色の瞳がクロカミを捉える。
気付いていないはずがないのだ。周囲の喧騒は大きくなっている。ミルファナはあえてその全てを無視し、クロカミだけを見つめ続ける。
真っ当な感性を備えていればこんな行動は取らない。
こちらの一挙手一投足を見逃すまいと観察を続けるその眼差しが、たまらなく気持ち悪い。モルモットでも眺めているようだ。
思わず後ずさる。
すると、先ほどまでクロカミの顔があった場所に石が投げ込まれた。驚愕に目を見開く。石を投げてきたのは、小さな男の子だった。
「ミルファナお姉ちゃんからはなれろー!」
次々と小石が投げ込まれる。
子供の小さい手で掴んだものだ。当たっても、さほど痛くない。
大粒の涙を流して癇癪を起こした男の子は、やがて大人の拳大ほどの石を手に取った。
それを見てもクロカミは顔色を変えなかった。避けるつもりはない。
両腕で大きく振りかぶって、男の子が投石した。
描いた放物線はクロカミの頭部を捉えている。衝撃に備え、クロカミは目を閉じた。
やがて鈍い音がした。しかし襲ってくるはずの痛みがなかった。
不審に思って薄目を開けると、目の前に白金髪があった。投石を受けたのはミルファナだった。
どよめきが広がり、やがて沈黙した。
ミルファナは頭から血を滴らせている。痛がる素振りはなく、足元に転がった石を見つめていた。
「ミルファナ……?」
呼びかけるとミルファナが振り返った。こちらを見た途端、口角が上がる。
わからない。なんで笑っているのか、どうしてクロカミの前に立ったのか。
周囲の当惑を置き去りにして、ミルファナが動いた。
力なく座り込んだ男の子の目の前に、彼女は膝をついた。
「どうして石を投げたの?」
「ご、ごめんなさい……!」
叱られると思い込み、男の子が反射的に謝る。
「ううん。怒ってないよ。けど、石を投げた理由をきかせて」
「だって、クロカミだから」
男の子は端的に答えた。十人がきけば十人が納得する。これ以上ないシンプルな説明だ。
だがミルファナは頷かなかった。
「それっておかしくない?」
「え?」
「石を投げる理由になっているかな」
「だ、だって! お父さんとお母さんが、クロカミは悪いやつだって。そう言ってたから!」
「どうして悪いやつなの?」
「クロカミのせいで、たくさん、人が死んだから! 色んな国で悪いことばっかりしたんでしょ!?」
「それってこの人がやったこと?」
ミルファナがこちらを指差してきた。
男の子は言葉に詰まっていた。
「で、でも……きっと悪いことするに決まってるもん」
「じゃあ、君のお父さんが悪いことしたら、君に石をぶつけてもいい?」
男の子は絶句した。聞き耳を立てていた者たちも同じ反応だった。
聞いていられないし、見ていられない。クロカミはミルファナの肩を掴んだ。こんな小さな子供を正論で説き伏せる必要なんてない。
「おい。やめろ」
だがミルファナは止まらなかった。
「何も悪いことしてないのに石をぶつけられたら、君はどう思う?」
「……嫌な気持ちになる」
「このお兄さんも同じだと思うよ」
男の子は、クロカミとミルファナを交互に見やった。
ミルファナが微笑んでみせると、それに後押しされたのか男の子が頭を下げた。
「ごめんなさい」
「別にいい。どっかいって」
素っ気なく答える。
男の子は逃げるようにして走り去っていった。同じくらいの歳の子供たちと一緒に広場をあとにしていく。
クロカミは視線を走らせた。
「見世物じゃない。消えろ」
遠巻きにこちらを眺めていた連中に、そう吐き捨てる。
見物人たちはそそくさと姿を消していく。蜘蛛の子を散らすようだった。あれだけの人で賑わっていた広場は、クロカミのたった一言で閑散な場所に成り下がった。
「そんな恐い顔をしていたら、みんなから怖がられてしまいますよ」
「もうこれ以上ないくらい嫌われている」
歩きやすくなった広場を突っ切って、荷車に手をかける。
いいかげん、作業現場に向かわなくてはならない。それに、これ以上この女と言葉を交わしていたくない。
だというのに、ミルファナはぴったりとついてくる。
「私はあなたが好きですよ」
「さっきのはなんだ」
「さっきの?」
「あんな小さい子を怖がらせるな。可哀想だ」
「あなたに石を投げた男の子のことですか。怖がらせるだなんて。ただ諭しただけです。誰かに謝るときは、ごめんなさいと言う。間違っていませんよね」
「ああいうのは、脅しって言うんだ。スラムと大差ない」
ミルファナの涼しげな表情が崩れた。
スラム呼ばわりされたのが気に入らなかったらしい。聖女の仮面に亀裂が入った。
今すぐにでもクロカミに襲い掛かりたいだろう。だがそれはかなわない。近くに他のシスターの目もある。本性を出したくても出せないミルファナは痛快だった。
「俺はこれで。学院に向かう」
「はい。お仕事頑張ってください」
クロカミを見送るため、ミルファナはわずかに頭を下げた。
再び顔を上げたとき、彼女の額には傷跡ひとつなかった。
詠唱なしでの魔法の発動。しかも難易度の高い回復魔法による自己再生。魔法使いとしての技量でこの女より優れている者は世界のどこにもいないだろう。
背を向けて遠ざかったクロカミは、不穏な一言をきいた気がした。
「またあとで」
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