第32話 孵化
水面に映る自分の姿を確認する。鏡なんてものは持ってないから揺れる水面で確認するしかないけれど。
いつもの青の色はどこにも見られない。ちゃんと染まっている。
「大丈夫。無理だったら姿を消せばいいだけ」
どこでもやっていける。1人で生きていく方法だって知っているのだから。
読み書きがもっとできるようになれば働ける場所だってあるかもしれない。
響紀さんにも一度挨拶は済ませた。住んでいた家の物も片付けた。持っていくものもまとめている。もう一度確認するが何も問題ない。
「おーい、元気そうだね」
「奏さん、何か?」
ひらひらと手を振るこの人はちょっとうるさい。
「なんか顔つきが変わったかなーって。行く気になったんだね」
「・・だって今のおれはカッコ悪いじゃん。周りが許してくれたってそもそも振り向いてもらえない」
どうしてなのかはわからない。でも、あの子だけはどうしても欲しくなってしまった。
どんな形であれ、そばに居られるだけの力が欲しい。
「彩夜ちゃんのことお嫁さんにしたいの?」
「! いや・・違う。まだそういうことはわからないから・・だって彩夜はまだ子供だし」
ずっと1人で生活していたのだから家族とかは今は考えられない。想像もつかない。
誰かと暮らせるのは幸せなことだとは思うけれど。
どうせしばらくはゴタゴタするのだからとりあえずはいいだろう。
「君も十分子供だよ。悩んだ時はお姉さんが聞いてあげよう!」
「絶対言わない。・・どうせまたふらっと出てきてくれるんでしょ?」
そしてあれやこれやと口出しして去っていくのだ。
「うん。結理の保護者は私だと思ってるからちゃんと見てるよ」
「奏さんの行動って意味不明」
「だって意味なんて無いからね」
意味なんて無いのにこんな面倒な行動するわけない。
ただ言いたくなくてそんなふうに言っているだけに決まっている。
「君って結構捻くれてるよね。その性格もどうにかしないと人の中では生きにくいよ」
「わかってるし。・・行ってくる。人がいるときは出てこないで」
「私だって都合が悪いからそんなことしないよ。行ってらっしゃい」
ザクザクと落ち葉を踏む音がする。
こうして1人で歩くことも減るのかと思うと感慨深い。
もう少しで町に出るというところで先の木の影に人を見つけて立ち止まった。
「・・だれ?」
「結理、大きくなったな」
その人が近づいてくるけれど逆光で顔がよく見えない。
知っている人だろうけれど10年近く経っていれば当時周りにいた人は自分と同じくかなり変わっているだろう。
「すぐに見つけることができず申し訳ありませんでした」
近づいてきてよくわかるが相手はかなり大きい。でも声からしてまだ若い。
この話し方から考えると・・。
「陸?」
「よくお分かりで」
やっと見えた顔は少し葉に似てるけれどもっと大人で優しい感じが薄い。
「陸もすごく大きくなってる。もう大人だ」
おれよりも5つは上だったはずの彼は今は当然立派な大人である。
わかっていても記憶とは違いすぎてそんな変な感想になってしまう。
「・・お貴族様がどうしてこんな森の中に?」
「村に入れていないのは聞いている。内密に連れ出したくてここで待っていた。バレてしまうと帰って来にくいだろう?」
「帰っていいの?」
引き離されるものと思っていた。それでもそのうち帰ってくるつもりではあったけれど。
「結理にとってはここは故郷だろう。そんな場所に2度と戻るなとは言えない。・・私達兄弟の中でしかこの村のことは出回っていない。必要外の情報は私達の責任で必ず隠す」
「・・・」
「私はもう大人だ。持てる力を全て使って今度こそ守ろう」
「・・あんまり無理しないで。奥さんと子供もいるんでしょ?可愛い娘なんだってよく言ってるって葉に聞いた」
それだけ陸がおれを大事に思ってくれているのなら多分やっていける。
これ以上に心強い味方はいない。
「おれだって何もできない子供じゃない。身の回りのことはなんだってできるんだから」
陸の顔を見たら不安だったものはどこかへ消えていった。
「頑張るから、そのうち優理と優斗を探すの手伝ってよ」
「優理はともかく、優斗は・・」
「優斗とおれの行方不明具合は一緒でしょ? おれだって逃げてる途中で崖に落ちて川にドボンって・・気づいたらここにいた。もしかしたらどこかで生きてるかもしれない」
可能性があるのだから
「本当に落ちたのか? あの辺りなら流れも速いだろ?」
「うん。それより早く行こうよ。のんびりしてると日が暮れない?」
これくらいでいいだろうと話は切り上げて陸の背中を押す。
昔の陸と全然変わっていなくてよかった。話してみれば、簡単に言葉が口から出てくる。
「馬で来たのだが、乗れるか?」
「こんな辺境の村であるわけないじゃん」
昔は乗れたけれど、今どうかと聞かれればわからない。
「部下の者と私、だれと二人乗りが良い?」
陸は体格が良い。二人乗りをするならきっと窮屈だろう。他の人ならもう少し細身の人もいるのかもしれないけれど、その人達は全く知らない人。
「馬が重さに平気なら陸がいい」
「わかった。それとこれを着ておきなさい」
渡されたのは明らかに女物の着物と笠である。まだ成長期が来ていないから誤魔化せるだろうけれど好んで着たいものではない。
「まだ上には報告していない。これくらい我慢してくれ」
その言葉を聞けば言われた通りに着るしか無かった。いつもの着物は脱いで畳んで荷物に詰める。
この年にもなって女物を着ることがあるなんて思いもしなかった。
「陸じゃないみたい。当時はまだそんなに声が低くなかったよね?」
背もここまで高くなかった。当時の陸はきっとおれくらいの年齢。出会ったのはもっと昔。その頃からずっと守ってくれた人。
「結理はどうだ? 声変わりは・・まだか?」
「ちょっと低くなってきてるかも。でも背が伸びてくれないからさー、もうちょっとかかるかな?」
陸はこちらを見て目を細めた。眩しいのかな? でも暗い場所だし?
「その髪は染めたのか?」
「餞別に染料をくれた人がいるの。・・髪の長さは文句言わないで。この辺りじゃ伸ばしてるのなんて邪魔なだけなんだから。どう?似合う?」
少し戯けて桜や友梨の動きを真似て見せれば、陸は小さくため息をついた。
「母親似なのだろうな」
正直母の顔は覚えてない。そもそも、声も姿もぼんやりとしか記憶にない。
陸達と一緒にいた時間の方がずっと多くて、思い出せないことに対しても何も思わない。
ちょっとやそっとでは風邪もひかない丈夫な体に産んでくれたことは感謝しているけれど。
「結理」
「ん? 早く出発しないと着くのが夜になっちゃうじゃん」
「ああ」
今日の空は気持ちのいい青だけれど、遠くの西の空には重い雲が見えた気がした。
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