軽い拳

倉田日高

軽い拳

 深夜のコンビニ。牧田寛は一面にエナジードリンクが並んだ棚へ布マスクを押し込む。カゴに弁当を詰め込んでレジの内側へ戻る。

 入店音が聞こえた。

「いらっしゃいませー」

 声を上げてから入り口を見る。


どす黒い夜を背景に、中学生の少年が立っていた。

 だらしなく開けたボタンの下には派手な赤いシャツ。にやつきの醜さは、嗜虐癖が顔立ちを歪めているせいか。


 寛は真っ直ぐ少年に歩み寄る。いつの間にか、彼の体はその少年と同じ大きさにまで縮んでいる。力一杯その顔を殴りつけると、ぼす、と布団を叩いたような頼りない手応えだけが返ってきた。

 一発、二発と拳を振るう。少年はにやけたままで、痛がる素振りも見せない。薄ら笑いがなお寛を苛立たせる。なおも拳を振りかぶり、


 目が覚めた。またか、と頭をかきむしる。

 ここ数週間、何度か見た夢だった。


 枕元に手を伸ばす。スマホの画面が薄明かりを放つ。ぼやけた視界を瞬きで仕切り直して、白い文字を読む。六時三十分。

 アラームの三十分前に目が覚めてしまった。二度寝するには全身の寝汗が不快だ。

 布団から這い出して、冷え切った階段を下る。台所には既に母親が立っていた。


「おはよう」

 平静を装って挨拶したが、彼女は目敏く眉をひそめる。

「顔色悪くない?」

「低血圧かなんかじゃないの」

「今までそんなことなかったでしょ」

 具合悪いなら、こっちにいるうちに病院行ったら? それなら診療費出せるわよ、と言いつつ、母親はネギを刻んでいる。


「どうせすぐに戻るからいいよ。金出させるのも申し訳ないし」

 そう答えると、彼女は大げさにため息をついた。

「もっと長居してもいいのに。一ヶ月でも二ヶ月でも」

「退学させる気か」

 せっかく大学へ合格したというのに――せっかくこの町から抜け出せたというのに。


 彼の顔が曇ったのに気づいたか、母親は小さく笑ってかぶりを振る。

「勉強する意欲があるなんていい子いい子」

「そっすね」

 彼女のおどけた口調に適当に相槌を打って、寛は洗面所へ向かった。


 冷水を浴びせた鏡越しの額には、小さな傷跡がある。こめかみの近く、さほど目立たない大きさだ。それでも顔を洗えば否応なしに目が行く。滴る水を拭って、傷跡を隠すように髪を撫でつける。

「何時頃出かけるんだっけ?」

「あー……昼前かな。晩飯までには戻ってくると思う」

 今日は、高校時代の同級生と会うことになっていた。




 駅前は年始故か人影が少なかった。待ち合わせ場所の喫茶店の入り口に、見知った顔を見つけて駆け寄る。雲井圭介は寛に気づくと軽く手を振った。

「久しぶり」

「おう」

 今日は奢るよ、と圭介が言う。


「悪いな」

「貧乏学生よか金があるからな」

と軽く笑う。去年大学を中退した彼は、既に就職していた。

「仕事はどうなんだ」

「だるい。マジでブラックだわ」

 愚痴を言いつつも、圭介は楽しげだ。


 席に着くなり、彼はスマホを取り出して写真を見せた。

「この間の社員旅行の写真」

「へー」

 写真の中の、温泉街を歩く圭介は笑顔が多い。職場で上手くやっているのだろう。彼は昔から世渡りが上手かった。

 スワイプする。菓子を買う見知らぬ男。小さな太鼓橋に並んだ社員たち。次の写真に、ふと手が止まる。


 圭介と男が肩を組んで笑っている。そのもう一人の男の方に、見覚えがある気がした。誰だったか、と思い出そうとして、嫌な予感を覚える。これ以上考えない方が良いような。そう思っても、間に合わなかった。

「ん、そういえばそいつ、確かお前と同じ中学だな」

 圭介が身を乗り出す。


「鴫沼」

 寛の呟きと、圭介の声が重なった。

「ああ、やっぱ知り合いか。もしかしたら、と思ってたんだけど」

「……まあ」


 今朝の夢に現れた少年の顔と、写真の中の青年を重ね合わせる。すぐには気づけなかったほど、幼さと毒の抜けた顔立ちは随分と変わって見えた。

 寛が歯を噛み締めたのに気づかないのか、圭介は旅行の思い出を語る。昼前にハイキングに出かけたんだけど水筒忘れて、こいつに分けて貰ったんだよ。代わりに嫁さんへのお土産奢ったんだけどな。

 楽しげな声が、膜を隔てたように遠く聞こえる。


「鴫沼は……」

 声を出そうとすると、喉が引きつった。咳き込んだ寛に、圭介は心配げに眉をひそめた。その表情は全く知らない誰かのように見える。蠢く顔のパーツが虫か何かのようだ。

 どうして、あの男のことを楽しげに語れるんだ。沸き起こる嫌悪を圭介に向けるのは理不尽だと理解していても、彼の顔を直視できない。


「どうした」

 彼の声に、悪意は微塵も含まれていない。それが多少は吐き気を和らげてくれた。

 顔を押さえた寛は、口を開きかけて言いよどむ。

 鴫沼は、中学時代俺を虐めていた男だ、と。それを言って何になる。




 額が裂けたときの痛みを、今でも寛は覚えている。きっと鴫沼は忘れているだろうが。

 流れ出した血に取り巻きは怯んでいたが、鴫沼だけは楽しそうに笑っていた。耳にこびりついたその毒は、今もなお時折蘇る。


 中学生の寛は、いずれ来る復讐の日を支えに生きていた。鴫沼の罪をしかるべき時に告発すれば、例えば進学先、就職先に告げれば、彼の人生を台無しにできるかも知れない。寛の顔に消えない傷が残ったのと同じように。悪意に悪意で報いることができる。


 今、目の前の圭介に一言言えば、彼らの関係は崩れるかも知れない。復讐の甘さの一片を味わうことはできるだろう。

 けれど、不幸になった鴫沼の顔を見て、それで満足できるとは思えなかった。


 結局のところ、気に入らない相手を力でねじ伏せるだけだ。鴫沼のやったことと何も変わらない。中学生の粗暴な論理を、いつの間にか芯まで植え付けられていると寛が気づいてしまったのは、高校に入り、鴫沼と関わらなくなってからだった。

 どんな形の復讐も、同根の存在にまで自らを貶めるだけ。薄汚れた快楽のために、その自己嫌悪に塗れるには、憎悪が足りていないのだといつか自覚した。


 高校が別れれば、思い出すことも少なくなった。それをいいことに、少しでも忘れようと憎悪を必死に埋めて、この町に置き去りにした。それでも帰ってくれば思い出してしまう。帰省なんてするべきじゃなかった、と過去の自分を詰る。

「何でもない」

 強いて平静を装った声を絞り出す。ほとんど取り繕えていなかったはずだが、圭介はそうか、と答えた。




 その日の夜は同じ夢を見た。相も変わらず中学生の姿で、時が止まったままの鴫沼。

 寛は布団の中で小さな子どものように体を丸める。


 夢の中でどれほど彼を殴りつけても、ただ自分への嫌悪が募るだけだった。憎い相手を苦しめたい、と安直な欲望が今も彼の中を蝕んでいる。自覚するたび己の醜悪さに息が詰まり、それでも顔を思い出せば憎悪が蘇る。寛だけが、中学生のまま囚われている。

「何で、俺だけ」

 子どもじみた泣き声は布団に押しつけられて立ち消えた。


 真っ当でありたいだけだ。憎悪や悪意に飲まれて、他人の苦痛を楽しむ、そんな人間にはなりたくないだけ。それだけのことができないほどに歪められている。

 力なく布団を殴りつける。寛の拳には頼りない手応えだけが返ってくる。一生鴫沼を思い出さなくていいように、と願うが、それが叶わないことは分かっていた。

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軽い拳 倉田日高 @kachi_kudahara

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