やがて消えゆく私たちへ

倉田日高(管原徒)

やがて消えゆく私たちへ

 どこかで、じゅわじゅわじゅわと奇妙な音が鳴っている。

「……なんだろ」

 とめどなく噴き出す汗を思わず袖で拭って、私は首を巡らせた。その動作だけでも首筋を滴が伝う。ハンカチを引っ張り出してうなじに当てる。


 うちわは持ってきているけれど、あまり扇ぐと髪が滅茶苦茶になってしまう。せっかくの校外授業だから、少しだけいつもより気を遣っているのに。

 隣に立っている由里は、涼しげな顔で私を一瞥する。暑さは同じくらい感じているはずだけど、汗一つかいていない。流石だ。


「この音、何かな」

 指先を、音の聞こえてくる方角へ向けようとする。四方八方、広場を囲む木々のどこからも聞こえてくるから、代わりに曖昧な虚空を指さした。

 由里は長い人差し指を口元に当てて、静かに、とジェスチャーした。おそらく知らないのだろう。知らないことを知らないと言うのが嫌いだから、たいてい誤魔化そうとするのだ。


「ねえ、なんだと思う?」

 執拗に尋ねると、由里は涼しげな表情を崩さないまま目を逸らす。無表情だけは得意だけれど、かなり分かりやすい。

「ねえ」

「そこ、うるさいぞ」

 裾を引っ張ると、見かねた荒川先生の叱咤が飛んできた。


「教頭先生が話してる最中だろうが」

 私は首をすくめて、前に立つ白石さんの背中に隠れようとする。

 当の教頭は、荒川先生の大声に萎縮して話を中断してしまった。

「……えー、まあ、立ちっぱなしで長話も辛いでしょうし、散策時間にしましょうか。少し予定を繰り上げますが、皆さんが手際よく移動したおかげですね」

 教頭は荒川先生の様子を窺いながら、そう話を結んだ。

 どちらかと言えば、先生が怒鳴ったおかげだ。確かに予定より早く慰霊広場まで到着したけれど、教頭はそこで生まれた時間のぶんだけ長くスピーチをするつもりだっただろう。


「二十分後……あそこの時計台で一時十分になった時には、ここに集まって並んでいてください」

 十分集合じゃなくて、十分に整列完了ですよ、と念を押す教頭。生徒は誰も聞いていない。由里も真面目に聞いているような顔をしているけれど、多分何も考えていない。

 先生の合図と同時に、生徒は一斉に散開した。


 一学年、確か七十三人。一斉に散らばっていく姿はまあまあ壮観だ。私は男子のように駆け出す気力もなく、ゆっくり荒川先生に近づく。

「先生、この音なんですか」

 このじゅわじゅわ言ってる奴、と、指先をぐるぐる回して曖昧に伝える。大柄な彼の前だと、日陰に入れて少しだけ楽だ。


「ん? ああ、セミじゃないか」

「鳴き方全然違いますね」

「クマゼミですよ」

 不意に教頭が割り込んできた。荒川先生を見上げていた首を、教頭の顔の位置まで下げると、首の骨がぱきりと鳴った。少し痛い。


「内陸の方が少しだけ涼しいですから、クマゼミも元気なんです。もう少し奥地だとまた別の種類が鳴いてたりしますね」

「へー」

 そういえばこの人は生物教師だ。

「せっかくですから、実物を探してきては?」

「え、いやですよ。キモいし」

 にべもなく答えると、教頭はしゅんとして俯く。


「まあ今は散策の時間だから、ここで話してないで行きなさい」

 荒川先生がしっしと私を追い払う。

 彼が作っていた日陰から出ると、生きのいい太陽がぎらぎらと照りつけてきた。内陸地の方が標高が高いぶん、太陽との距離が近い気がする。気温が低いって本当だろうか、全然実感がない。

 いつのまにか木陰のベンチに腰掛けていた由里へ駆け寄る。彼女は待ちかねた様子で首を巡らせた。


「クマゼミ、だってさ。セミらしいよ」

「へえ……」

 指を顎に当てた彼女は、背後に伸びた木の枝に視線を送る。

「元気ね」

「なんかこいつらのせいで余計暑い気がする」

 由里の隣へ腰を下ろすと、入れ替わりに彼女が立ち上がった。


「慰霊碑、見に行かないの」

「え? あー……」

 確か、私の先祖もまつられているらしい。校外学習で内地へ行く、と親に告げたら、お母さんがそう言っていた。

「一応挨拶するかあ」

 木陰はとても心地よいけれど。葉っぱの擦れるさわさわとした音を聞くと、いつもよりも風を感じられる気がするし。けれど由里が行くなら仕方ないか、と腰をあげる。


 広場の中央、周りの木々の影が届かず、石畳がぎらぎらと光っているその真ん中に、無骨な石の塊が鎮座していた。生徒の何人かは、彫り込まれた文字を真剣に追っている。

 大水没で喪われた命と、町と、記憶へ。そう大きく書かれた石には、船のシルエットが刻まれている。


 何となく手を合わせて拝む。私には実感が薄い遠い昔の話だけど、いろんな人々の悲嘆がこの上に載っていることは知っている。由里も神妙な顔で目を閉じて、何かを祈る様子だった。

 慰霊碑の周囲には、間隔を開けて幾つもの石板が並んで立っている。表面には、今はもう存在しない町の名前が無数に連なっている。


「どの辺かな」

 地域別に並んでいるらしいそれを辿って、文字を見つける。日吉津村民一同。当時、私の祖先が住んでいた場所らしい。その文字を何となく撫でる。


「……私の祖先は、ここで死んだらしいわ」

 由里が別の文字列を指さした。名前を見てもピンとこない、多分あまり大きな町ではないのだろう。

「変な気分ね。たいして関わりなんてないはずなのに、この名前だけ、少し周りと違って見えるのだから」

 ぽつりと呟いた由里は、私と同じように文字に触れた。


 妙にしんみりした気分になってしまって、それを振り払うように遠くを指さす。

「展望台行こうよ」

 展望台と言っても数メートルの、小さな櫓のようなものだ。既に数人の生徒が登って、木の柵から身を乗り出している。

 由里は、展望台までの木陰のない道を見て少し眉をひそめたけれど、私が歩き出すと素直についてきた。




 スロープで展望台へのぼると、吹き抜ける風と屋根のおかげで随分と涼しかった。

「あー、気持ちいいー」

 両腕を広げて風を受けると、周りの生徒から奇異の目を向けられる。


「あかり」

 名前を呼ばれて振り向くと、由里が遠景を指さしていた。

「あれ、きずな町かしらね」

 彼女の指の先には海があった。


 展望台から、なだらかな斜面を下っていったところに駅がある。真っ直ぐ伸びた線路に沿って視線をあげると、遠すぎてほとんど建物の見分けがつかなくなってきたあたりに、私たちの町らしき色の塊があった。その外側に、海はどこまでも続いている。

 巨大な入道雲が、水平線から立ち上っていた。何かに、あるいはなんにでも似ているように見える白い塊を眺めながらぼんやりと考える。


 きずな町は、海辺に張り付くように作られた町だ。低地が大水没で海に還り、内陸へ殺到した避難民たちの、その中でも貧乏な人々が、内地から締め出されて作った町。いつ海に沈んでもおかしくない町。だからなんとか奨学金を取って内地の大学に行きなさい、と荒川先生は言っていた。


「ねえ、進路どうするか決めた?」

 由里に尋ねると、彼女は怪訝そうに首を傾げた。

「急ね。あかりはどうするの」

「いや、全然決まってない。正直就職でもいいかなって」

「成績いいんだから、進学すればいいじゃない」

「いやー、うち家計厳しいしさ」

 奨学金や学費免除を駆使しても、内地で暮らすには想像を絶するほどお金がかかるらしい。私の家がそれに耐えられるかは怪しかった。


「で、由里はどうなのさ」

「……何も考えてないわ」

「え、お母さんの後を継いだりするのかと」

 カイヨウセイブツガクシャという奴らしい。要するに学者先生だから、娘も当然進学させるつもりなのだと思っていた。

「私は……別にやりたいことなんてないの」

 彼女がかぶりを振ると、長い髪が風に舞う。全てに無関心な、ひどく淡々とした横顔。


「……卒業したくないなー」

 いろんな、自分でも正体の分からない感情が湧いてくる。それをひどく単純化して吐き出すと、由里は苦い笑みを浮かべる。

「そろそろ戻らないといけないんじゃないかしら」

 返答の代わりに、彼女はそう言った。



────────────────────



「それじゃあ、移動しましょうか」

 整列完了と見なしたのか、教頭先生が言う。生徒の列はかなりぐちゃぐちゃだけれど、人が揃っていれば大目に見るつもりらしい。

「次ってどこだっけ」

 由里に囁くと、彼女は顎に指を当てた。

「予定表見てないのね」

「だって見なくてもどうせ行く場所は一緒じゃん」

「なら尋ねなくてもいいじゃない」

 少し呆れたような、笑い含みの声。


「水族館よ」

「?」

 首を傾げる。耳馴染みのない言葉だった。私が明らかに理解していないことを察して、由里はすぐに付け加える。

「海の生き物を展示する施設」

「何それ」


 海の生き物。私たちの町の、すぐ足下を泳ぎ回る魚たち。

「こんなところ来なくても見れるじゃん」

「……行けば分かるわ」

 由里の口ぶりは、まるで訪れたことがあるかのようだった。わざわざ法外な電車賃を払って──由里の家ならそれは大きな問題ではないかも知れないけれど──ここまで見に来たことがあるのだろうか。ただの魚を。


「そこ、遅れてるぞ」

 荒川先生からまた注意される。気付けば、私の前の白川さんが既に歩き出していた。慌てて追いかける。

 慰霊広場を出て数分で、市街地に辿り着く。きずな町の寂れた商店街とは違って、町並みが煌めいて見えた。道行く人々はお洒落な服を着て、奇異の目で制服の集団を眺めている。

「……抜け出してここで買い物した方が楽しいんじゃない?」

 由里にそう言ってみたけれど、無視された。



────────────────────



「水族館の中は自由行動。外に出るのは禁止です。閉館時間が六時ですから、五時半までに出口に集まってください。何かあれば、私と荒川先生が出口にいます」

 五時半集合じゃなくて、五時半に整列完了ですよ、と教頭が念を押す。生徒は誰も聞いていない。


 私たちは、青を基調とした建物の前にいた。正面のガラス扉から窺える中は薄暗い。

 先生の合図とともに、生徒は一斉に散開した。私もここは足早に向かう。魚なんかに興味があるのではなく、中が涼しそうだからだ。


 生徒が殺到したせいでゲートがみちみちになる。ようやくそこを抜けて建物の中に入ると、案の定ひやりとした空気が流れていた。

「あー、気持ちいい。ずっとここで座っててもいいわ」

 冗談交じりに言ったけれど、本当にそこらの椅子に腰掛けている生徒が何人かいる。徒歩移動でバテているのだろう。


 由里は私の言葉を聞かずに、すたすたと奥へ歩いて行った。その足取りはいつもよりも速い。順路の矢印に従って、薄暗い廊下の先の扉へ消える。

「ちょっと待ってよ」

 つい呼んでしまってから、あまり大声を出してはいけないタイプの施設かなと思って口を押さえる。どのみち周りの生徒がずっとざわざわと喋っているから、あまり意味のない配慮だった。

 足早に追い、由里が入っていった部屋に足を踏み入れる。その真正面に、青が広がっていた。


 一瞬脳が景色を咀嚼し損ねて、少しして巨大な水槽だと気付く。大きな部屋くらいはある空間に、なみなみと満たされた水の中を、魚たちが泳ぎ回っているのだ。

 細長いもの、平べったいもの、ごくありふれた形の魚、サメの仲間らしきもの。ゆったりと泳ぐ彼らは、自分が狭い水槽に閉じ込められていることを知らない様子だった。優雅にひれを動かし、私たちの方へ泳いできては離れていく。


 生徒たちはぼんやりとそれを眺めたり、壁の説明書きを読んだりしている。私は人だかりのせいで説明を読むのを諦めて、代わりに由里を探した。

 水槽の正面、ガラスの中央で、由里は魚たちをじっと見つめていた。周りの生徒と比べても浮いて見えるほど、奇妙な真剣さをたたえていた。


「ちょっと、歩くの速すぎ」

「ごめんなさい」

 そう言った彼女は、依然として水槽から目を離さない。怜悧な視線は、平凡な形の魚を追っている。

「何、あの魚が気になる? まあちょっと美味しそうだけど」

 軽口を叩いても反応しない由里に、なぜか焦ってしまって口が動く。


「そんなに見つめて恋にでも落ちちゃった? それとも実は元々ペットだったとか」

「違うわ」

 素っ気ない言葉。明らかにその魚に心を奪われたまま、私の言葉を聞いてすらいない。

 何となく不愉快で、由里の袖を引く。ようやく彼女は視線を水槽から引き剥がして、私の顔に定めた。


「何が面白いの?」

 嫌な言い方になってしまうな、と思いながら、そう尋ねる。由里は横目でその魚を追って、小さくかぶりを振った。

「……あの魚ね」

 相変わらず心ここにあらずといった様子で、彼女は口を開く。

「絶滅するの」

 その言葉は、奇妙な冷たさで私の脳に染み込んできた。


「この水槽にいるのは、水温が低い海でしか生きられない生き物。今の気候には適応できなくて、自然界では絶滅した。内地にあって被害を免れた水族館で、なんとか繁殖させられてきただけ」

 淡々とした解説は、あるいは壁の説明に書いてあることと同じ内容だろうか。彼女の口から滑り出す言葉は、すんなりと私の頭に入ってくる。そのたびに、その重みが増していく。


「けれど個体数はどんどん減ってきて……やがてこの魚は繁殖しなくなった。絶滅を悟って、諦めたみたいに」

 一歩踏み出した由里は、ガラスに指先で触れた。分厚いガラス越しに、悠然と泳ぐ魚と視線が合う。

「この水槽にいるのは、ほとんどがそう。滅びることを受け入れた、いずれ死んでいくだけの生き物たち。過去しか持っていない。だから親近感があるの」


 いつの間にか、部屋の中は静まりかえっていた。やけに彼女の声が響く気がした。

「……以前ここに来たときは、あの魚は三匹いたわ。今は一匹だけ」

 ガラスから手を放した彼女は、ゆっくりと扉へ歩き出す。


「次の部屋の水槽もそう。シロクマの家族だけど、他の家族はもういない」

 その次の部屋も、その次も。この水族館にいるのは、滅びつつあるものだけ。


「私たちも……文明を復興した、と大口を叩く人はいるけれど、出生率は下がり続けてる。そもそも人が暮らすだけの陸地も十分にないんだから当たり前よね」

 由里は扉を開けて隣室へ消えた。私は追う。


 ガラスの向こうでのっそりと獣が動いていた。白い毛皮に包まれた生き物は、黒い目を好奇心に彩らせて、ガラス越しに私たちへ顔を近づけた。

「この子の親が、奥にいる二頭。この三頭しか残っていないわ」

 ガラス越しに由里が手を出すと、シロクマはガラスを引っ掻いた。不意に興味を失ったように背を向けて、親の元へ歩いて行く。


「頑張って彼らを繁殖させようとしてきた私たちも、滅んでいく。似たもの同士、なんだか滑稽で素敵でしょ」

 彼女の独白は随分と虚ろだ。

「……そうなのかな」


 ひどく寂しげな目をした由里と違って、じゃれ合うシロクマの家族は幸せそうに見えた。

 終わりにしか心惹かれない彼女とは、そこまで似て見えなかった。

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やがて消えゆく私たちへ 倉田日高(管原徒) @kachi_kudahara

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