第3話 国籍

 俺は思い切ってミャンマー語を習うことにした。学校に通い始めた。先生には、妻がミャンマー人と言った。名前はナヌカと言うと、それはミャンマー人の名前ではないと言われた。俺は気にしないようにした。家に帰って、習ったミャンマー語を使ってみたら、みんな意味がわからなかった。彼らはミャンマー人ではなかったのだ。一体どこの人なのだろうか。俺は素性のわからない人たちと暮らすのが怖くなった。


***


 俺の家には得体のしれない外国人がたくさん出入りしている。たまり場になっていて、ひどいときは風呂場にまで人が寝ている。しかも、ほとんど男だ。俺を取り囲んで暴行しようと思ったら容易だ。何となく犯罪の匂いがして仕方がない。みな不法就労じゃないかと思っている。俺は以前からパスポートや預金通帳など大事な物は、すべて持ち歩いていた。


 俺は考える。やつらが俺を殺したところで、所持金はたかが知れている。俺はお菓子工場の社員で、年収は300万円くらいしかなく、貯金はほとんどない。地方だったら十分暮らせるだろうが、都内でこの年収だとカツカツだ。車もないし、高価な物は何も持っていない。それなのに、家に人がひっきりなしに遊びに来るから、食費や酒代がとんでもない金額になっていた。俺は金がないと言うと、みんなどこからか、食材や酒を持って来た。


 俺は気が付くと、58歳になっていた。ナヌカは相変わらず若々しくて、手足がほっそりしていて、少女のように可憐だった。


「2人で旅行行かない?」

 俺はナヌカと二人きりになりたくてそう言った。

「いいよ」

 ナヌカもさすがに日本語がわかるようになって来たから、即答した。彼女もいつも家にいるだけで飽きたのだと思う。俺はホテルで彼女を襲うつもりだった。一緒に暮らして8年間、何もないなんてやっぱりおかしかった。


 温泉ホテルに泊まったが、彼女は温泉に入ろうとしなかった。

「恥ずかしい」

 彼女は言った。彼女の母国では、きっと温泉に入る文化がないんだろう。俺は一人で温泉に行った。温泉に行く時も、パスポートは持ち歩いていた。もう、妻も信用できなくなっていた。


 俺たちは夕飯のビュッフェを楽しく食べて、部屋に戻った。俺はドキドキしていた。58年も童貞でうまく行くだろうかと不安だった。予行演習でソープランドに3回通った。取り敢えず、女性の扱い方を習ったつもりだった。ソープのお姉さんたちも、みないい人たちで、こうした方がいいと真剣にアドバイスをくれた。


 部屋はダブルベッドを取っていた。ナヌカと二人で布団に入ると、彼女は「ああ、楽しかった。すごく、すごく」と言った。俺は感動して、彼女に抱き着いた。

「ダメよ。ダメ」 

 彼女は抵抗した。でも、俺は無理やりキスをした。顔を引っかかれてオデコにパンチが飛んできた。すごい力だった。それでも、ひるまずに俺は彼女に抱き着いて、下着に手を入れた。彼女は足をバタバタさせて、俺の股間を蹴った。痛くて飛び上がりそうだったが、それでも、俺は彼女のあの部分を触ろうとした。レイプと言われてもいい。そんな気持ちだった。


 股間に手を回すと、何かが当たった。ナヌカは男だったのだ・・・。俺は手を止めた。

「君、男だったの?」

 俺は笑い出した。彼女との将来を夢見て、子どもをもうけたいとまで思っていたこと。8年も友達たちとの同居を許して来たことなどだ。アホらしい。

「私、女だって言ったことないよ」

「でも、ブラジャーしてるじゃないか」

「女の方が、日本の男、優しくしてくれる。あなたとってもいい人、大好き」

「ありがとう」

「あなたが病気になったら、私お世話する」

「それは嬉しいんだけど、せめて、2人だけで暮らせない?」

 俺は思い付きで言ってしまった。

「無理。みんな行くとこない」

 

 俺は旅行から帰っても、そのままの暮らしを続けた。60歳で会社は定年だった。俺は高卒から同じ会社に42年も勤めていた。その会社は誰もが知ってるくらい有名なのだが、部長になっても給料は安かった。世間に知られてはいるけど、零細企業だった。その後は、嘱託として会社に残ることになった。給料は4割減だ。


 俺の家はずっと、不法滞在の外国人のたまり場だった。


「俺は定年になったから、これからは今までのようには暮らせないよ。ごめんね」

「仕方ない。みんな前田さんのこと好きだから、助ける」  

 ナヌカはしおらしく言ってくれた。俺は感激して泣いた。

「ありがとう」


 俺は都営住宅に申し込んだ。運よく入れることになったから、自宅を解約することにした。そのことをナヌカに告げると「ちょっと遠いだね」と言っていた。嫌な予感がしたが、家を解約したら、みんないなくなってしまった。


 家には変なスパイスの匂いが染みついていて、床も傷だらけだったから、原状回復で55万請求された。

 

 俺はナヌカを忘れられなかったが、あちらは携帯を持っていないから、連絡を取る手段がなかった。10年を棒に振ってしまったのか、それとも、仲間に囲まれて充実していたのかはわからない。俺はショックだった。彼らに慕われていると思っていたのに、ただの金づるだったのだ。特にナヌカにさられたのはこたえた。


 俺はそのまま工場勤務を続けていた。都営住宅では、裕福な方だったと思うが、そのうち近所に住んでいる女の人が寄って来た。料理を作って来てくれたりする。俺はその人があまり好きではない。しつこくて、押しつけがましいからだ。でも、一人だから寂しくて、家に上げてしまう。


 工場では、最古参で一目置かれている。パートのおばさんだけでなく、若い女の子も話しかけてくる。みんな娘や孫みたいでかわいい。一人暮らしだが、それなりに暮らしていた。


 

 





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