第3話 録音
朝から雨が降っている。しとしとと柔らかな雨が、世界を静かに包み込む。
今日はレコーディングをすることに決めていた。近くの安いカラオケボックスに籠り、ユーチューブに上げるための音を録るのだ。午後からのバイトまでの五、六時間が勝負になる。私は朝食もそこそこに、必要な機材をキャリーケースに詰め込んで家を出た。
今日の雨は、静かな雨だ。台風の時のような土砂降りとは違い、染み込むような降り方をする。雨の日の世界は暖かく、すべてを許す優しさを持っているような気がするのは、あの日も雨だったからかもしれない。
「こんにちは」
「あ、
「剣持さん」
カラオケ店に入ると、馴染みの店員が私を迎えた。金髪にタトゥーという外見から想像できる通り、剣持さんは昔バンドを組んでいたらしいが、デビューすることはなく解散し、今はフリーターとして働いている。
「お久しぶりです。この前の録音がはかどったので」
「二週間ぶりくらいだったっけ」
「たぶん」
「いつもの部屋、空いてますよ」
「ありがとうございます。じゃあそこで、フリータイムで」
「はい。じゃ、これ伝票です。ドリンクバーは?」
「大丈夫。水あるので」
「ですよね。節約に命かけてるでしょ」
「ふふ。そうなんですよ」
敬語とタメ口の混ざった口調で話をして、指定された部屋へ向かう。マイクの独特の匂いと、煙草の残り香が鼻をついた。ここは部屋が密集していないため雑音が入りにくく、しかも反響も少ないので録音にうってつけなのだ。
何度かこの店を訪れているうちに、私の利用目的を察してこの部屋を教えてくれたのが、剣持さんだった。私が夢を追う姿を自らの過去に重ねてしまうと言い、いつもよくしてくれている。一度路上ライブを見に来てくれたこともあった。今度ご飯でも、という口約束は数か月果たされないままだ。
ヘッドホンをつけ、マイクや録音機器の調節をする。オケの音源にメトロノームを重ね、声を乗せる。
録音というのは、孤独な作業だと思う。私にとっては作曲過程の中で最も孤独だ。オケや歌詞の組み立ては、私の中にいる誰かとの会話でできている。多重人格だというわけではない。過去に交流のあった人や、憧れの人、夢の中で出会った誰かが、私の中にはぼんやりとした影として存在しているのだ。そんな人々との共通言語が音楽だった。だから、会話することが作曲になる。
しかし、録音は違う。一人で歌い、録った音を聞きなおし、修正する。誰との会話もない、耳が痛くなるほど静かな作業だ。一度行き詰まればなかなか抜け出せず、袋小路に追い込まれることになる。そんな作業の前後で、剣持さんのように明るい言葉を交わしてくれる人がいることは、私にとってとても幸福なことだった。
今日も五時間半にわたる録音を終え、会計に向かうと、剣持さんが笑顔で話しかけてくれる。
「青さん、お疲れ。今日もなかなか酷い顔してますね」
「まぁ……録音が一番きついですから」
「はは、そういう人もいるんだな」
「剣持さんは違いましたか?」
「俺はメロディー書くのがきつかったかな。しょっちゅうスランプになってました」
「へぇ」
「青さんにはそんなこと起きないですか?」
「……ですね」
「さすがだ」
「でしょ」
いつも通り軽口を叩きつつ会計を済ませるが、レシートを渡す時、剣持さんは一瞬ためらった。
「……このあとはバイト?」
「です」
「そっか、頑張ってね」
「剣持さんも」
微妙な引っかかりを残したまま、会釈をして店を出る。さっきの剣持さんは何を言いたかったのだろう。単なる世間話の調子ではなかった。
……まさか、私のことを恋愛的な気持ちで……?
ふいに浮かんだ考えのせいか、秋雨のもたらした冷気のせいか、私は鳥肌を立てながら家路を急いだ。
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