第2話 新宿

 路上ライブは、基本的に夕方から始める。

 渋谷、池袋、秋葉原、上野……。その日によっていろいろな街で、私の歌を虚空に響かせる。今日のステージは新宿だ。

 新宿の駅構内はとても複雑だ。この半年でもう十回近くは来ているように思うが、未だに慣れない。もちろん、私が避けていることが原因でもあるのだけれど。

 新宿に来るときは、いつも恐怖が心の奥底に鎮座している。重い蓋で閉じ込めているはずなのに。もしかすると、恐怖心は漬け床と同じで、漬物石に押しつぶされて滲みだしているのかもしれない。

 あれは、三度目に新宿を訪れたときだった。梅雨時、雨が降る日々の中にあった唯一の晴れ間に、私は新宿東口を出てしばらく行ったところで、マイクを立てた。日が高く長くなってきた初夏の夕方に、私は透明な観客の前で冬の歌を歌っていた。

 ――小さな雪だるまを作って子どもみたいに笑うきみが愛おしい

「なぁ、おねえさん」

 私の歌を遮った男は、にやにやと不愉快な笑みで私に近づいた。無視して歌い続けようとすると、男は汗ばんだ手で私の腕を掴んだ。

「暇でしょ、あそばーー」

「触んないで!」

 マイク越しに思わず絶叫する。全身に鳥肌が立っていた。嫌悪が全身からほとばしる。男は露骨に不愉快そうな表情を見せ、軽かった声は一気に低く重くなった。

「あんだよ、ノリ悪ぃな。遊ぼうって言ってんだろ」

「やめてください。暇じゃないのは見たらわかるでしょ」

「はぁ? 平日の夕方にこんなとこで歌ってられるようなやつ、暇以外の何物でもねぇだろ。大して上手くもねぇのによ」

「…………!」

「もういいよ、別の探す。さっさと田舎に帰んな、ブス」

 怒りで指が震え、ギターをしまうのに何度か落としそうになった。すぐに荷物をまとめて、家に逃げ帰り、一晩泣き続けた。何が起こったのか理解できなかったし、自分の感情が見つからなかった。胃袋の中身を取り出してつぶしてかき混ぜたものをもう一度飲み下したような、混沌として汚い感情の塊が沈んでいた。

 身体を触られた。私の音楽を侮辱された。

 思い出すと今でも吐きそうになるので、新宿に行くときはいつもよりヘッドホンの音量を上げる。これが、東京に失望した最初の出来事だ。

 今日の新宿は打って変わって平和だ。涼しい風が吹く夕方は、夏に比べてずっと歌いやすい。人々の間にも、暑さによる殺伐とした空気はない。遠巻きに何かを囁き合いながら通り過ぎる人もいるけれど、とうに慣れてしまって、今では空気よりも存在感を失っていた。それに最近は、私の前で足をとめてくれる人がいるのだ。

「こんにちは! アオといいます。歌えるだけ歌い続けるので、少しでも聞いていってください」

大勢の透明な観客と、数人の実体を持った観客を前に、私は金木犀の空気を吸い込んで歌を吐き出した。好きなアーティストの曲のカバーを挟みつつ、毎日生み出し続けている私の曲を、秋の新宿に轟かせる。あの人の曲を歌うと、誰かが「これ懐かしい」と顔をほころばせた。開いたギターケースに、時々硬貨が落ちる。

日が完全に落ちるまで歌い、深くお辞儀をすると、小さな拍手が耳に届く。幻聴ではない。夢でもない。勢いよく顔を上げると、杖をついた老紳士が柔和な笑みを浮かべていた。誰もいないと思っていたのに、驚いてしまう。私も微笑みを返し、もう一度礼をして新宿を去った。チップは五百円にも満たないが、過去最高額だ。それを使って私は久しぶりの外食を楽しんだ。


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