第4話 アッポーパイ

 娘のあやが玄関から飛び出して来た。

 庭を突き切り、秋人のもとへ駆け付けてくる。柴犬のサクラも一緒だ。


「お待たせ。遅くなってゴメンなあ」

 秋人は綾を抱き上げた。

 また少し重くなった気がする。サクラも嬉しげにわんわん吠えて秋人の足に縋りついた。綾を地面に立たせると、サンダルを逆に履いている。

「おとさん。へんなかおー」

 綾が怪訝そうに見上げる。ああ、腫れた顔か――。

「実はな、父さん悪者と戦ってきたんや。今日の敵も強かってんぞー」

 シュッシュと言ってシャドーボクシングの素振りを見せる。綾はきゃっきゃと声を上げて笑ってくれた。


 すると玄関からもう一人出てきた。

「秋人か。えらい遅かったやないか」

 父親だ。目尻にしわを寄せて微笑んでいる。


「……まあ、仕事が立て込んどってな」

 父は「そうかそうか」とやんわり頷く。

 髪は白い割合の方が大きくなり、背中も力なく曲がっている。歩くペースも遅くなった。

 サクラが気付いて、父の方へ駆け寄ってゆく。父は柔らかい笑みでサクラの顔をくしゃくしゃ撫でまわす。


「おい秋人。なんや、その顔……」

 秋人は「ええねん」と父から顔を背けた。


 綾に目を遣る。

 子供らしいふっくらした頬。口元に赤いものが付いている。秋人は屈んで綾の口元を拭う。

 これは、ケチャップか。

「綾。なんか食べたんか」

「たべたで。ハンバーガー」

 その時、父がぎくりと肩を竦めた。

「……仕方しゃあないやろ。秋人が帰って来やんから」

「綾は五歳や。晩にジャンクフードなんか食べさせたらアカンやろ」

「せやけど、お父ちゃん……料理なんか出来へんし。どっかで買うてくるしかあれへんやんか。晩ご飯食べれんかったら、綾ちゃんお腹空いてしもて、可哀想やんか……」

「それでもハンバーガーはアカンて分かるやろ。せめて近所のスーパーにしとけや。もっとマシな惣菜とか、なんぼでもあるやんけ」

 すまんかった……、と父が萎れる。


 秋人は呆れて溜息をついた。

 父は典型的な昭和の父親。家事などせずに齢をとった人間だ。弱々しい父を見ていると、どこか腹が立ってきた。

「だいたいやな、親父が綾を甘やかすから――」


「いやあっ!」


 背後から綾の金切り声が刺さった。

 同時にサクラが秋人のジーンズを噛んで引っ張る。綾が口をへの字に結んで睨んでいた。

「じーちゃんとケンカやめて!」

 搾り出すような金切り声。ばつの悪そうに父を一瞥する秋人。

「……とにかく、綾に油っこいもん食べさせんといてくれ」

 ほな帰るわ、と秋人は綾の手を持って父に背を向ける。サクラが寂しげに喉を鳴らして綾に擦り寄ってきた。

 背後から父が「ちょい、秋人」と呼びかける。

「せっかく来たんやから、上がっていけや。茶ぐらい出すで」

 面倒臭そうに「いらんわ、そんなん」と吐き捨てる秋人。

「八時過ぎや。綾は明日も幼稚園あるし、はよ寝かさなアカンねん」

 父は「……ほうか」とぽつりとこぼす。


 秋人は綾を助手席に乗せ、運転席に乗り込む。

 父が「運転、気ぃつけるんやで」と声を掛けてくるが、秋人は振り向かなかった。

 バックミラーを見て、秋人は溜息を漏らした。

 犬を連れた老いた父が、玄関先で秋人の車を見送る。しょぼしょぼさせた目。あの情けない目が嫌だ。

 父は秋人の車が角を曲がるまで見詰めていた。


 内環状線に出て梅田方面に走り始めると、小雨が降ってきた。

「あんな。あんな。じーちゃん、わるないねんで」

 唐突に口を開いた綾。頬を膨らし、足をぷらぷら揺する。

「マクドたべたいっていうたん、アヤやもん。おさんぽしててな、イオンいってん。それでな、マクドいきたいっていうてん」

 秋人に責められた父を庇っている。

 五歳の娘に気を遣わせた。


「ご飯前に食べんのは止めときや。分かってくれたらええねん」

「ほんまに? アッポーパイもたべてん」

 はあっ? と声を上げる秋人。つい苦笑してしまった。

 綾はホットアップルパイが好物だ。

 妻が面白がって食べさせたのが間違いだった。子供にジャンクフードの味を覚えさせたのもいけない。


「せや、今度お父ちゃんがご飯作ったるわ。何か食べたい物あるか」

「アッポーパイ」

「そら無理や」

「ええっ、おかさんはつくってくれたでー」


 妻とは一年前に離婚した。原因は不仲や不倫ではない。

 妻が秋人の知らないうちにセーア会に入信していたからだ。


 母と妹の命を奪ったラヴァリア伝道団の改称団体。

 妻は秋人の過去を知っていながらセーア会に入った。綾の育児を放り出してセミナーに参加し、ついに家計をセーア会に喜捨した。その額およそ五百万円。綾の将来のためにと、新聞社の退職金や本の印税を貯金していたものだ。


 離婚が成立し、裁判で綾の親権は秋人のものとなった。

 母親が親権を獲得するケースが多いが、宗教に傾倒して生活能力がないと判断された。

 それ以来、妻とは連絡を取っていない。

 セーア会に出家した、と妻の両親から聞かされたがもう関知しないようにしていた。

 それから秋人と綾の親子は西天満のファミリーマンションで暮らしている。

 裁判で妻は離婚後も綾と会いたいと主張したが、秋人は認めなかった。カルト宗教にのめり込んだ母親など会わせられない。

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