第3話 おかえりー、おかえりおかえりー!
◆茅野秋人◆
秋人は目を開けた。
水の流れる音、磯っぽい匂い。ズボンが湿っている。のそりと身体を起こした。
月明かりが水面に揺れている。
風景に見覚えがある。桂川だ。
背の高い葦が視界を隠す。嵐山と松尾の間あたりだろう。
寒い……。とにかく水辺から離れたい。
秋人は膝をついて起き上がる。
力を入れた瞬間、四肢の末端まで鋭い痛みが走り抜けた。秋人は声を漏らして両手をつく。
たしか、スタンガンで――。
夕方、秋人は邑上殺害の速報を受け、死体発見現場に急行して撮影をし、付近の農家から聞き込みをしていた。
嵐山市街地まで車で移動し、コンビニに寄ろうと駐車場に停まった。
その後だ。
何者かに後ろから首を締められ、意識を失った。
次に目を覚ましたのが、あのガレージ。ダークスーツの男に暴行された。
右目の下に三つ並んだホクロのある男。あの男、人を拉致する事や拷問を掛ける事に慣れている。
よろめきながら立ち上がると、全身が痛い。蹴られた顔は腫れて熱を持ち、踏まれた脇腹も肋骨がみしみし軋んでいる。
鉄柵を乗り越え、河川敷の公園のベンチに腰を下ろす。
さいわい折られた歯の出血も止まっているし、他の骨も折れてはなさそうだ。あの男は誰かに依頼された便利屋やヤクザ者ではなく、組織で動いていると考えられる。
おそらくセーア会の手の者だ。
セーア会は今でも外部と隔絶された山中で活動している。
中の様子は信者以外に分からない。外部の人間に知られたくない事柄でもあるのだろう。
かつてラヴァリア伝道団にも、諜報省という秘密保持の実働部隊があったとされる。
あの男もセーア会の工作員だろう。
邑上殺害事件の秘密を探る秋人を脅しに来たのだ。
邑上の死について、なぜセーア会は知られたくないのだろう――。
答えは出ている。
邑上は、セーア会に――。
車はコンビニの駐車場に置いたままだった。
運転席に座り、アメリカンスピリットを咥えて火をつけ、車内で紫煙を燻らせる。
資料を入れたバッグを助手席に投げ置き、キーを回してエンジンをかける。駐車場を出てアクセルを踏み込み、大阪方面へ向かう。京都南インターチェンジから名神高速に乗り、すっかり暗くなった道を南に飛ばす。
ラジオを付けると七時のニュースが流れた。
【今日午後四時頃、京都府の山中で男性の遺体が発見されました。遺体は逃亡中の指名手配犯、邑上琢也容疑者と判明――】
どこの局をかけても、邑上の死体が見つかった話題で持ちきりだ。それほどラヴァリア伝道団幹部の邑上の死亡は、日本中が大騒ぎする大事件だ。
大阪地下鉄GB事件。
一九九五年、三月二十日、午前八時二十三分。
大阪市営地下鉄で化学兵器GBが散布された。GBが発生した車両は御堂筋線の千里中央ゆき、天王寺ゆき。四つ橋線の西梅田ゆき、住之江公園ゆき。千日前線の野田阪神ゆき。計五車両。
なんば駅に到着直前にGBが散布され、負傷者約六千名と死者二十四名を出す大惨事となった。
実行犯は宗教団体ラヴァリア伝道団。
神聖教皇を名乗る教祖、真田界舟(本名:嶋谷忠夫)の指示のもと、幹部信者八名が化学テロを実行した。
GBとは第二次大戦中にナチスドイツが開発していた毒物で、別名はサリンとも呼ばれる。ナチスドイツは第二次大戦中にマスタードガスに続く第二世代の毒ガスとしてタブン・サリン・ソマンの三つの化学兵器を製造。
アメリカでは戦後それらをG《ジャーマン》ガスと呼び、それぞれの開発順にGA・GB・GDとコードネームを付けた。
第二次大戦時は新型化学兵器として注目されたが、実戦で使用された例は少ない。1980年代のイラン・イラク戦争でクルド人に使用されたという記録があるぐらいだ。
人々はGBの毒性を知らず、まして大都市での無差別テロに使用されるとは考えもしなかった。
実行犯は純度三〇パーセントのGB溶液600グラムを入れたポリエチレン袋を新聞紙で包み、なんば駅に到着するとビニール傘の先端の金具で突いて袋を破る。
同様の作業を五本の電車で同時に行い、地下鉄なんば駅にGBが充満した。
当初は情報が交錯し「駅構内でガス爆発があった」「地下鉄で急病人」と誤報が相次ぎ、警察や消防も毒ガス対策のないまま現場へ急行し二次被害が起きている。
本来BGは無色無臭だが、事件に使用された物は純度が低いために茶色く、ヘキサンなどに由来する異臭も発生している。
実行犯は車内にBGを発生させると、なんば駅を脱出する。地上へ出た実行犯たちは待機していた共犯者の車に乗って逃亡した。
【奇しくも、邑上容疑者の遺体が発見された今日は三月二十日。あの日からちょうど二十三年です。四半世紀が経とうとしている今も、被害者の方々の傷は癒える事はありません】
秋人の母親と妹も、あの電車に乗っていた。
月曜の朝、二人は御堂筋線の天王寺ゆきの電車に乗っていた。
妹の
アトピー性皮膚炎を持っていて、肘や膝の内側に痛々しい搔き痕があった。大国町に評判の皮膚科があり、月に二回ほど母親と診てもらいに行っていた。偶然その日が三月二十日だった。
GBの治療薬はPAMと呼ばれるプラリドキシムヨウ化メチル。
農薬中毒に使用される薬剤であり、大病院でも大量ストックしている物ではない。全国の病院や薬品会社に供出令が発せられ、日本中から解毒剤をかき集めた。
事件発生から二十六分後、巡回中のパトカーが四ツ橋筋の本町駅前周辺で速度違反の不審車両を発見。
停車させて職務質問すると、なんば駅にGBを撒いた実行犯だと判明し、その場で緊急逮捕した。
逮捕された二名は新興宗教団体ラヴァリア伝道団の信者だと分かり、神聖教皇である真田界舟の命令に従ったと証言を得た。
警察はラヴァリア伝道団の京都本部を強制捜査し、敷地内にGB製造プラントを発見する。
教団の隠し部屋に潜伏していた真田界舟を逮捕し、後に逃亡した実行犯八名のうち七名も逮捕された。
しかし実行犯の一人である邑上琢也だけは行方が掴めず、全国指名手配となる。
GB事件から五年後の一九九九年十二月。主犯の真田界舟および逮捕された実行犯の七名に死刑判決が下る。
そして実行犯七名の死刑が執行された。真田も東京拘置所で刑の執行を待つ身だ。
【ラヴァリア伝道団と言っても、若い方々も名前は聞いた事があるのではないでしょうか】
真田界舟こと嶋谷忠夫が一九八七年四月に設立した宗教団体。本部は京都府の山中。
自身を極限まで追い込み、悟りの境地へたどり着く事を目的としていた。当時の会員は一万人を超え、京都本部の信者寮では出家信者が四百人は生活していたと推定されている。
真田界舟と実行犯たちは事件の動機をこう証言した。『日本を正しい国に導くため』と。
真田は資本主義社会を破壊し、宗教による安定した国家を築くためGB事件を計画した。
発端はGB事件の二年前の衆議院選挙。
真田は伝道党という政党を設立し、ラヴァリア伝道団の幹部信者四名と共に出馬した。信者たちは真田界舟の被り物を着て、歌やダンスと派手なパフォーマンスで街頭PRをした。
しかし結果は惨敗。
この結果に真田は「票の操作が行われている」「国家が選挙法を違反している」と憤慨した。
それ以降ラヴァリア伝道団は武力をもって日本を転覆させ、新しい宗教国家を設立する方針となる。
京都を中心に大阪・神戸を含め、京阪神地域を新たな宗教国家として独立させようと考えた。
その先駆けとなったのが大阪地下鉄GB事件だった。
秋人は
実家の前に車を停める。玄関のチャイムを鳴らそうとしたらポーチライトが点灯した。中から犬の鳴き声がし、玄関の電気が点いた。
勢いよく戸が開く。
「おかえりー、おかえりおかえりー!」
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