第2話 地下鉄……乗っちゃダメだよ
◆倉橋孔◆
薄暗い夜道に点々と灯る街灯。光に寄せられた羽虫が群れている。素足で山道を駆け下りたので傷だらけだ。
歩くごとに鈍い痛みが伝う。
その時、後ろから低いエンジン音が近付いて来た。
ライトを向けられ、孔の影がアスファルトに伸びる。軽トラックだ。
孔はヘッドライトを避けるように身を屈める。軽トラックは孔を無視して通り過ぎていった。
さいわいセーア会からの追手ではなかった。
孔の服装は上下白のパジャマのような格好。出家信者用の修行衣だ。
農道では目立ち過ぎる。ガードレールに背を預け、溜息を漏らす。自分の身体から汗の臭いがした。
孔は通りかかった神社に駆け込む。水が欲しい。
本堂の屋根には苔が繁茂し、何年も手入れされていない様子だ。手水舎に駆け寄った孔は柄杓で水をすくって飲む。冷水が喉を通ると朦朧としていた意識が蘇った。
孔は我慢ならず、顔を突っ込んで水を
傷口にピリッと滲みた。
これも早く消毒しないと膿みそうだ。
はっと思い出したようにポケットを叩く。
四角くて固い感触。
それと鍵。
ある――。
孔は安心して息をついた。
テープも鍵も無事だ。
孔は境内を後にする。
道路へ出ると、山側からエンジン音が近付いてくる。白いワゴン車だ。孔は息を殺し、素早く茂みに隠れる。
運転席には白い修行衣の男。助手席と後部座席にも、修行衣の男女が五人以上は乗っていた。孔と同じ服装だ。
セーア会の修行衣。
ついに追ってきた。
見つかれば教団に連れ戻される。
教団の車が通り過ぎたのを確認し、孔はそろりと道路に出る。標識には『阪急嵐山駅 2km』とあった。
一時間ほど歩き桂川まで下った。
陽が暮れても観光客の姿がちらほら見かけられる。裸足で泥に汚れた修行衣姿の孔に、外国人観光客が怪訝そうな目を向けてきた。
持っていた鍵で、駅近くのコインロッカーを開ける。私服と財布とスマホが入っていた。
孔は修行衣を脱ぎ捨て、一週間ぶりの私服に袖を通す。膝の破れたジーンズにシワだらけの黒いジャンパー。
孔はコンビニで値引きおにぎりを買い、駐車場に座り込んで貪った。
腹を落ち着かせ、スマホの電源を入れる。
すぐにニュースサイトを開いた。
【GB事件 邑上琢也 死亡】
今日の昼過ぎ、邑上琢也の遺体が嵐山の山中で発見された。
何者かに絞殺されていた、とある。邑上は二十三年前の地下鉄GB事件の実行犯の一人で、全国指名手配されていた。
関連ニュースのリンクが表示された。
【セーア会 住民の立退き要望に応じず】
二十三年前のGB事件の後、ラヴァリア伝道団の神聖教皇である
教団は京都府知事から解散命令が下り、事実上消滅した。
そのラヴァリア伝道団を改称した後発の宗教団体が、セーア会だ。
ラヴァリア伝道団関係者を中心に設立し、神聖教皇には真田界舟の娘である
京都嵐山に本部を構え、今も出家信者たちが共同生活を送っている。
ラヴァリア伝道団と同様で『苦行によって魂を浄化』して『常世の楽園へ昇天』を教義とする。
死者が出るような荒行もなく、脱会の自由もあるので、表向きには危険な宗教でないと謳っている。
しかし公安局は危険組織として今でもセーア会を監視している。
画面を下へ送ってゆくと関連画像も表示された。それを見て、孔の顔面の筋肉が引き攣った。
玉座に掛ける少女の画像。
白いヴェールの奥の目蓋は静かに閉ざされている。口唇には幼さの残るふくらみ。鎖骨に掛かる艶やかな黒髪。純白のローブに浮く身体は病人のように細い。生きているのか死んでいるのか、
セーア会神聖教皇、真田七曜の写真だ。
事件から二十三年経った今、真田七曜は三十五歳になっているはず。
しかしどう見ても小学生にしか思えない。
この姿は異常だ。
去年の十二月段階で、全国のセーア会信者は一五〇〇人。
真田七曜の神秘的な若さと妖艶さに惹かれて入信者が増加した。DV被害や発達障害、精神疾患や人格障害などを抱えた若者たちが集まっている。そんな人たちが真田七曜に救いを求めていた。
孔はスマホをジーンズのポケットにしまう。
――へえ。大阪から来たの。
――孔って、珍しい名前だね。中国の偉い人と同じ字。
目を閉じるとあの声を思い出す。湧き水のように静かで透き通った声だ。
――お祖父ちゃん、元気になると良いね。
孔は真田七曜を知っている。二十三年前から。
それが真田七曜の本当の名前だ。
消灯時間を過ぎた病院の暗い廊下。
非常口の緑色の光がリノリウムの床に反射する。病室の前の椅子に並んで座る孔と愛美。
――そっか。明日の朝、大阪に帰っちゃうんだ。
――地下鉄……乗っちゃダメだよ。
あの夜、まだ孔は五歳の子供だった。
愛美が何を言っているのか分からなかった。ただの意地悪かと思った。冗談かと思った。
その言葉を信じれば良かった。一言でも両親に言っておけば。泣き喚いて転がって訴えていれば。しがみ付いてでも噛みついてでも引き止めておけば。そうすれば運命は変わっていたかもしれない。
『じいちゃん、なおったんやろ。じゃあぼく、明日ようちえん行きたい!』
月曜日はカメの水槽掃除の日だった。
大切に育てていたカメだったので、自分で水槽を洗いたかった。あまり孔が食い下がるから、両親は朝の電車で大阪へ帰る事を決めた。
その結果、孔の運命は複雑骨折した。
翌朝、通勤ラッシュの地下鉄に乗っていると、なんば駅のホームで気分が悪くなった。
両親も兄も、周りのサラリーマン達も虚ろな目でフラフラしている。膝をついて嘔吐するサラリーマン、白目をむいて気絶するOL。駅員が「危ないですから下がって!」と大声で警告する。
孔も地面に倒れた。
寒くて手足が震える。頭が痛すぎて、自分で割って中身を取り出したいくらいだった。意識が薄れてゆく。死ぬかもしれないと思った。
その時、あの声を思い出した。
――地下鉄……乗っちゃダメだよ。
目を覚ましたのは病院だった。
薄暗い病室。遮光カーテンの隙間から日光が漏れている。起き上がろうとすると口にマスクが付けられ、腕や体にたくさんのコードが付けられているのに気付いた。悪の軍団に改造されると思って、こわくなった。
――孔っ!
祖父がベッドに駆け寄り、孔の左手を強く握った。
おかしい。
祖父は京都の病院で入院しているはずなのに。
孔は二週間も目を覚まさなかったらしい。祖父が先に退院し、大阪の病院に駆け付けたという。
『お母さん、お父さん……兄ちゃんは?』
そう尋ねると、祖父は無言で泣いた。意味が分からない。
幼い孔は両親と兄を亡くした。
あの日に会った少女は間違いなく真田七曜――嶋谷愛美だ。
愛美はGB事件を事前に知っていた。
どこまで関与していたのか。なぜセーア会という組織を続けているのか。真実を知りたい。
そして全てを壊したかった。
両親と兄を殺したラヴァリア伝道団を、実行犯の幹部信者たちを、主犯格の真田界舟を。
しかしラヴァリア伝道団は消滅し、逮捕された実行犯や真田界舟はすでに死刑が確定している。
孔の怒りの矛先は後発団体のセーア会、真田界舟の娘である真田七曜に向いた。
セーア会と名前を変えても、まだ悪事を企んでいるに違いない。
セーア会を潰す。
それが孔の生きがいになっていた。
孔は立ち上がって、おにぎりのフィルムをゴミ箱に突っ込む。ジャンパーのポケットを叩き、中を確認する。
早く届けなくては、このテープを。
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