第5話 おかさんからおてがみは?

「なあ綾。今日は何してたんや」

 淀川沿いの国道に差し掛かり、秋人は話を切り替える。

「ユイちゃんとなアミちゃんとな、ようちえんでパズルやっててん。みんなユイちゃんのいえにあそびにいってんて」

「……綾も、ユイちゃんの家に遊びに行きたかったんか」

 んーん、と綾は首を振る。

 嘘だ。

 友達と遊びたかったに決まっている。

 また秋人に気を遣って嘘をついていた。


「じーちゃんとサクラとなあ、おさんぽいっててんー」

 秋人が仕事の時は、父が綾の幼稚園まで車で迎えに行く。吹田の実家で預かってもらうので幼稚園の後に友達と遊べない。

 文句ひとつ言わない綾を見ていると、つらい。

「サクラえらいねんでー。アヤがアッポーパイたべてたら、じーってがまんしてんねん。よだれでてたけど。んふふふふ」


 同年代の友達と遊べない綾にとってサクラは親友だ。

 推定七歳の茶色い柴犬寄りの雑種。父が定年退職後に動物愛護センターから引き取ったのが二年前。

 殺処分が四日前に迫った捨て犬だったが、今では父のボケ防止役と綾の遊び相手として立派に貢献している。


「おとさん、おとさん。アッポーパイたべたん、おこった?」

 バックミラー越しに綾を窺う。

「なんでそんな気にしてんねん」

「だっておとさん、じーちゃんにおこってたもん」

「あれは怒ってたんちゃうやん。綾が晩ご飯食べられへんかったらアカンから言うててん。ホンマ困った祖父ちゃんやからなあ」

「おとさん……じーちゃん、きらいなん」

 純真な潤んだ瞳がこちらを向く。秋人は即答できなかった。

「……別に、嫌いなんちゃうよ。綾は祖父ちゃん好きか」

 めっちゃ好っきゃねんっ、と両手を振る綾。秋人は思わず「たかじんかいっ」と笑みを吹き出した。


「じーちゃんすごいねんで。おまわりさんやねんで」

「知ってるよ。祖父ちゃんは綾が生まれる前、ずーっとお巡りさんやってたんやで」

 父は大阪府警の元刑事。

 それだからこそ腹立たしい。


 大阪地下鉄GB事件。

 あの頃、父は南警察署に所属の警部補だった。

 その日、父は妻と娘を毒ガスで殺された。管轄で起きた大事件に、父も初動捜査に参加した。

 あの時の父は話し掛けるのも恐いくらい殺気立っていた。妻子を殺された憎しみに身を焦がし、犯人全員を死刑台へ送ってやるという狂気が背中から滲み出ていた。


 父は昼も夜も休みなくGB事件の捜査に明け暮れ、ほとんど家に帰らなかった。

 自宅で秋人は一人ぼっち。

 仏壇にある母と早織の写真を背に、夜中まで父の帰りを待っていた。

 たまに帰ってきた父は頬まで無精ひげが伸び、背広には煙草の臭いが染み付き、目蓋は重そうに塞がりかけていた。しかし瞳だけは憤怒を宿して燃えている。

 あれは人間ではない。

 復讐に取りつかれた悪鬼だった。


 事件から二年後、警察は捜査本部を解散。まだ疑惑が残されているラヴァリアに関する捜査を全て打ち切った。

 それから父は抜け殻のように弱くなった。

 交通部へ左遷されてから別人のように覇気が消えた。

 秋人が中学三年の頃だ。


 秋人が「母ちゃんと早織の仇、討てへんのか」と聞いたら、父は「上が打ち切ったんや、しゃーないやろ」とヘラヘラしていた。

 軽蔑した。


 煙草もやめ、酒もたしなむ程度。

 夕食は息子と一緒に食べ、野球中継を見てから歯を磨いて寝る。はた目から見ると『いい父親』だ。

 しかし秋人が『好きな父親』でなくなった。

 刃毀れした刀のような狂気。秋人はあのギラギラしたおっかない目が好きだったのかもしれない。

 だが父は変わった。

 父は諦めた。


 秋人が就職して実家を出た後、定年退職した父は角が無くなった。

 小学生見守り隊のボランティアで、横断歩道で小学生に黄色い旗を振る初老の父。楽しみは孫娘の綾を車で迎えに行く事。

 鬼刑事の父はこの世から消えた。


「おとさん、おまわりさんなれへんかったん?」

「なれへんよ。お巡りさんはな、目の前の悪いヤツは捕まえれても、ホンマに悪い大魔王は捕まえられへんねん。せやからお父さんはカメラで勝負するんや」

 警察には真実を暴けない――。

 刑事法に触れないものには、どんな悪徳であろうと手出し出来ない。社会の裏側までは覗く事は出来ない。

「お父さんのは真実を探す仕事なんや。誰にも邪魔されんとな」


 夜九時。

 西天満の自宅マンションに着いた。

 綾が「ピーさせてさせて」と飛び付いてくるので、秋人はキーケースを渡す。エントランスのオートロックを開けるのが綾の仕事だ。

 パネルに鍵を差し込むとピーッと電子音が鳴って開錠する。綾は誇らしげに振り向いた。

「綾っ、上ボタン押しといて」

 あいっ、と返事した綾。

 ジャンプして上ボタンを押すと、エレベーターが下りてくる。また綾は誇らしげに振り向いた。


 集合ポストをを確認した。ダイレクトメールとチラシばかりだ。

「なあなあ、おとさん。おかさんからおてがみは?」

 今日も綾はポストに手を突っ込んで掻き分ける。

 漢字が読めないので、一つひとつ「これ、おかさん?」と聞いてくる。一つひとつに「違うで」と答えるたび、秋人の胸が苦しくなる。普段は上手く隠しているが、綾は母親を必要としていた。


「あああっ! おかさんちゃうのん、これぇ!」


 綾の甲高い声がホールに響いた。

 封筒を持つ手が力んで震えている。綾は「おとさん、みてみて」と封筒を差し出した。

 長4サイズの茶封筒。宛名も差出人も何もない。

 秋人は警戒しつつ中を確認する。

 便箋か――、いや、ただ破いただけの紙切れが一枚入っていた。

 ボールペンで何やら書いてある。


【19950320 忘れられない者より】


 19950320――。大阪地下鉄GB事件の日だ。その横には。


【3/21 18:00 木屋町 child prey】


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