第3話

「いるかね」

 とガラッと玄関のガラス戸を開けて入ってきたのは、隣人の女だった。

 幼馴染みだった青年を後ろに従えている。

「おお、何ね」

 父親が言った。

「翠が戻ったでな。連れて来た」

 末娘の翠は小学生で隣人の女に手を引かれて玄関口に立っていた。

「おお、戻ったか」

 母親が迎え入れて、翠はふああぁと大きなあくびをしてから家に入った。

「そんであんたの娘、うちの息子にどうだね」

 と唐突に隣人が言った。その背後で魚類顔の幼馴染みがにやにやと笑う。

「もう内地に行かさねえっと言ってたな?」

「ああ、もう行かさねえよ」

「なら、うちの息子の嫁にどうだ。互いに小っせえ頃から知ってるしな」

 隣人がその息子に振り返ると息子はポリポリと頭をかいて照れたように笑った。

「え……」

 碧は嫌だ嫌だ、と頭の中で考えた。

 幼馴染みで小さい頃は一緒に遊びもしたし、仲のいい友人だった。

 嫌いでもなかったが今の彼は普通の人間とは思えなかった。

 ぼんやりした目に半開きの口でただへらへらと笑っているだけだ。

 以前の彼はそうではなかった。

 中学を卒業して、すぐに漁業の仕事についた。

 たくさん獲れる新鮮な海の幸でこの島をもっと豊かにしたい、観光客が来るような島にしたい、と瞳を輝かせていたはずだった。

 「……」

 碧の必死の思いもよそに父親は、

「ええな!」

 と言った。母親もうんうんとうなずいている。

「そらええ話だ。ま、玄関でも何だ。上がってけ」

 と父親が言った。



(どうしよう……逃げなくちゃ……でも逃げるだけじゃ駄目、うまく理由をつけて港から船に乗らないと……どうにもならない)

 碧は必死で考えた。

 そもそも船で帰って来た時に不信感があった。

 見知っているはずの港の係員、船の船長、彼らがこぞって表情のないぎょろ目で碧を見たのだ。船長はおしゃべりな気の良い老人だったはずが、不機嫌そうに黙りこくっていたし、船を下りた港の人間も猫背で鬱蒼とした表情で動いていた。

 そんな彼らに助けを求めても駄目で、船が出ない事にはこの島から逃げられない、と碧は思った。

「どうしよう……なんでこんな事に……」

 中学を卒業してから本土の伯父宅で生活しているので、実家の自室には子供の頃の勉強机とベッド、ビニールの衣類収納ケースしかない。昔のアイドルのシールや小学生の時に書いた絵が壁に貼ってある。

 帰ってこい、と言う電話は来るが、両親が伯父宅を訪れる事は一度もなかった。親類宅とはいえ、仮にも娘が何年も世話になっている家へ挨拶にも来ないとかあり得ない、という疑問はあった。

 もしかしたらもう何年も今のような状態になっていたのかもしれない、と碧は思った。

「どうしよう……翠、いつからあんな風なの? お父さんもお母さんも」

「わかんない」

 昼寝から覚めた翠がいつの間にか部屋に入って来て、膝を抱えて座っている。

 自分がいない間もイタイノイタイノトンデイケを唱えさせられたり、集会に連れて行かれて恐ろしい目にあってきたのだろうか、と碧は思った。

 こんな小さい子供にまであんな残虐なシーンを見せたのだろうか、碧は恐ろしさが蘇ってきて身体が震えた。

 からっと襖が開いて、幼馴染みの青年が入ってきた。

「あ、あおい」

 と青年は笑った。

「な、何?」

「おじさん、よんでる、あおい」

 と青年は言った。

「大ちゃん、いつからこんな風になっちゃったの?」

 と碧は言葉をかけたが青年の耳には言葉が理解出来ないのか、無表情で返事をしない。

「漁師になったんでしょ? ここの島の美味い魚で人をたくさん呼んで有名な島にするって言ってたよね? だから進学しないで、すぐに漁師の修行に入ったんでしょう?」

「おじさん、よんでる」

 と青年が近づこうとしたので、碧は「ひゃっ」と身をすくめた。

「わ、分かった行くから」

 碧は手提げ鞄を持って立ち上がった。


 居間には両親と隣人がいて、炬燵机を囲んでいた。

「こりゃ、めでてえ話だ」

 と父親が言い、隣人と茶碗で酒を酌み交わしていた。

「碧、あんたは大吉の嫁だ」

 と母親が大吉と呼ばれた青年にも茶碗を渡して、酒を注いだ。

 大吉は嬉しそうな顔で畳の上にどかっと座り、酒を飲み始めた。

「な、碧もそれでいいな?」

 もし嫌だと言ったら、自分も食われてしまうかもしれない、と碧は考えた。

「結婚って……大学も途中なのに?」

「あんたぁ、夫の大吉が中卒やから、あんたはもう学なんぞいらん」

 と隣人が言った。

「で、でも、結婚するならそれなりに準備もいるんじゃ?」

「はあぁ? 何の準備ぞ。家はある。うちの離れに大吉と住んだらええ」

 碧の顔がこわばった。

(離れって大ちゃんが勉強部屋にしてた六畳一間じゃないの。何なのよ。おばさんのこの態度)

 碧は腹の中で必死に考えた。

「でも、一度伯父さんの家に帰っらなくちゃ、荷物もあるし」

「送ってもらえ」

 と父親が言い、母親も「そうだな」と言った。

「で、でも、私、貯金通帳を置いてきたのよね。高校三年間、バイトして貯めたお金なんだけど、大学の費用にしようと思って必死に貯めたのに、伯父さんが援助してくれて手つかずで残ってるのよね、あれ、取ってこなくちゃ」

 金と聞いて、両親、隣人の顔色が変化した。

「いくらあるんだね」

「えーと、三百万はあるかな」

「そりゃあ大金だね」

「でしょう」

「送ってもらえ」

 と同じ事を父親が言った。

「駄目よ、送ってもらってもこの島、銀行ないじゃない。下ろせないわ」

「じゃ、正隆に言って下ろして現金を送らせろ」

「あのねえ、個人情報保護のこの時代よ? 本人以外に銀行で下ろせないの。あたしが行かなくちゃ絶対に下ろせないわよ?」

 と碧は必死で平静を装ってそう言った。


 訝しがる両親をよそに乗り気になったのは隣人だった。

 嫁にもらう本人に付随いてくる三百万と考えれば、それが自分たちの物になるならばそれを持って帰らせないのは惜しいと判断したのだろう。

「ええさ、荷物もあるし、もろもろ取りに行けばええさ」

 と隣人は言った。

「はい、分かりました」

 と碧は言った。

「もし、あんた戻ってこなかったら翠を大吉の嫁にするえな」

 と大吉の母親が言ったので、碧が目を見開いた。

「翠はまだ小学生ですよ!」

「もう二、三年もすれば子を産めるでな」

「そんな……」

「あんたがちゃんと戻ってくればええ。あんたが大吉の子をたんと産めばええ話じゃろ」

 視線はどこか遠く誰に向かって話すという風でもなく、独り言のように大吉の母親は言った。

「そうじゃ、そうじゃ、それに、あんた友達も連れてくるでよ。この島には娘が少ねえからな。嫁さんを欲しがっている男衆がまだまだいる。後ろの家の英朗もいとこの千吉も嫁さんが欲しいでな」

「……千吉さんってお父さんの従兄弟でしょう。もう六十近いじゃない……」

「男はいくつになっても子を成せる。女は若けりゃええ」

「大吉は良かったな。碧はまだ十九で、島中の男に羨ましがられるでな」

 と父親が言い、大吉はげへへと笑って頭をかいた。

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