第2話

 どれだけそこにいたのか、気が遠くなるような時間を我慢して、ようやく解放されたのは夕刻迫った時間だった。

 朝の九時に集合してから、飲まず食わずで正座、読経の大合唱、殺戮シーンと人が嬉しげに人を食すシーンまでずっと正座していたので、解散してもよい、という声に娘は一瞬意識が遠くなりそうになった。

「ほら、行くで、碧」

 母親に声をかけられて、西原碧ははっと我を取り戻した。

「足が……」

 血流が滞り、足がしびれて立ち上がる事もましてや歩くなどは到底出来なかった。

 まだ小学生の妹の翠も、しびれるあしをさすっているが立ち上がる事が出来ない。 

 碧の周囲を村人達が囲んでいるが、それは幼い頃から知っている村の人達ではなかった。

 皆が一応にぎょろっとした目で、表情が乏しい。歯が酷く破損し、ギザギザかぽっかりと抜けている。

 

「あんたは、信心が足りんからな」

 と父親が言い、碧におぶされと背中を見せた。

 翠は父親の背中に縋り付いた。

「そうだ、これからはあんたたちもちゃんと拝むでよぉ」

 と隣家の中年の女がぎょろっとした目で言った。

 隣のおばさん、と呼んでいた頃の面影はあるが、碧には知らない人のように見えた。

 隣の家には同じ年頃の子供がいて、碧とは同級生の幼なじみだった。

 その同級生はぼんやりした顔で自分の母親の後ろに突っ立っている。


 碧の生まれた離島は漁業が盛んで、村人は皆、漁に行くか、魚を売りにいくか、の生業に就いていた。人口は千人弱、島の周囲は二十キロほどで教育機関は中学校までだ。高校になれば島外の学校へ通うか、進学せず家業を継ぐ者に分かれる。

 幸い碧には島外に伯父夫婦がおり、高校へ通える事が出来た。

 伯父夫婦には子供がおらず、碧を我が娘のように可愛がってくれたおかげで三年間の青春を満喫した。進学を悩む時には離島の両親から戻るように言われたが、伯父の口添えで無事に大学へ進学する事も出来た。

 そしてその報告に戻った島で両親は、いや、島民のすべてが激変していた。

 朝から晩までおかしな言葉を叫ぶ。

「イタイノイタイノトンデイケ様」と。

 その言葉自体は碧も知っている。子供のころに転んだり、ちょとした怪我をすると唱えてくれたおまじないだ。

 唱えてもらうと転んだ痛みなど、どこかへ消えてしまう、そんな経験が誰にでもあるはずだ。科学的な証拠は何もなく、ただ子供をあやすだけの呪文。

 それが久しぶりに戻った碧の故郷では大声で叫ばれていた。

 碧の家では元は仏壇があった場所に、祭壇が作られ、奇妙な形の人形が祭られていた。

 それは半分溶けて元の形が分からなくなったような人の形をした置物。

 頭の部分は大きな魚のようで、身体は人間のようで、だがそれも溶けて崩れてたようになっている。

 碧を出迎えた両親は祭壇に向かってずっと「イタイノイタイノトンデイケ様」と拝んでいるだけで碧の学校や生活、世話になっている伯父夫婦の事など一つも聞こうとしなかった。妹の翠だけはそんな両親に怯えながら暮らしていたのか、久しぶりに会った碧にすがりついてきた。

 そして日曜日、朝から島の一番頂上の崖の上に建てた真新しい集会所で、碧は世にも恐ろしい光景を見る事になった。

 長時間の拘束に、誰かの四肢が飛び散り、そしてそれを食らう島民の姿。

 顔見知りが血塗れで人を食う姿、その隣には中学校の時の恩師がいたのを碧は知っていた。彼らが人を食う姿を見て、後はずっと震えながら下を向いていただけだった。 

「碧ぃ、あんたも早くイタイノイタイノトンデイケ様に選んでもらえるようにならんとなぁ。隣のおっさんは二度目だでな」

 家に戻り、玄関口に下ろされた碧はその場から動けなかった。

「な、なんで……あの、死んだ人誰なの? どうしておじさんはあんな物を食べて……」

 胃の奥からこみあげてくるものを我慢できずに、碧はその場で吐いた。

 玄関口を吐瀉物で汚した事には気も止めず父親は、

「あれは裏切りっさ。嫁と子を連れて逃げようしただ」

 と笑顔で言い、母親も「そうそう」と肯いた。

 そこで初めて碧は両親の顔が変わっている事に気がついた。

 先程見た隣人と同じ、面影はあるが魚類のようなのっぺりとした顔、目、口の奥でギザギザの歯。

「わ、私、疲れたから休みたいんだけど。休暇は二泊三日だから、明日にはもう帰らなくちゃ。大学の課題がいっぱいあってね」

 と碧は無理矢理に笑顔を作った。

「なんね」

 と父親が言った。

「え?」

「もう、あっちには戻らさね。あんたもこっちで暮らすでな」

「え? そんなの、大学だってあるのに」

「もういいでな。学校なんぞ。天真様がそう言ったからな」

「天真様って……」

「天真様はすげえ人だ。あの人の言う通りにしてたら、間違いねえ」

「そんな……苦労して入った大学なのよ? 伯父さんにも入学金出してもらったし。辞めるなんてありえないわ!」

 と碧は叫んだが、両親はぎょっろした目でじーっと碧を見下ろした。

「なんね」

「なんね」

「天真様の言う通りだ」

「イタイノイタイノトンデイケ様の言う通りだ」

 両親はそう繰り返すだけだった。

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