子供の行方(全17話)
1.薫る松風と燻る闇
「いや! そんな所なんて行きたくない!」
「ここより美味いもんも食えるし、良い着物も着れるんだぜ。行かねえ手はねえだろ」
「そんなのいらない!」
「おいおい。ここへ来ておいて、それはねえよ。今の生活が嫌だったんだろ」
「興味があったから来ただけよ」
「どんな理由でも良いけどよ。とりあえず先方も待ってるから行くぞ。逃げ出さない限り、優しい店主だからよ」
※
「行ってきま〜す!」
「ちょっと日向! 大きな声を出さないの。それに少しは家の事も……って、もう居ないわね」
神保町。御庭番衆の拝領屋敷はそこにある。なんでも、その町の由来は、お旗本の神保長治様のお屋敷があるからだとか。
その神保町にある宮地家の屋敷から飛び出した少女は、今日も面白そうなものがないか探検に出るようだ。
日向は、先日とある出来事のため、上野の方によく行っていた。それもあってか、いつもと違う西の方向へと進む。
その方向には神田の中心地がある。そう彼女は
神田多町とは不思議な名前だが、一六◯六年に起立した古町である。その年は、徳川家康公が江戸城に入城した年の十年後に当たる。
古町とは、家康公が入府した後の五十年の間にできた町を指すので、神田多町は古町の中でも特に古い。そして、必然的に江戸城に近い。
そして町が起立した当時から、そこに住む住民は古町町人と名乗り、とても誇りにしているそうな。
その神田多町に何をしに行くのかと言えば、そこには多町市場という青物市場があるので、そこを冷やかしに行こうと考えたようだ。
ここはただの市場じゃない。なんせ明暦の大火以降、分散していた青物市場を幕府主導で集め御用市場として認めた、とても大きな青物市場なのだ。
「狙うは松風。空腹の状態こそが最も味を堪能できる状態です。一番槍は松風に、後は定番のお団子や饅頭あたりを流しましょうか」
これだけ聞くと、和菓子屋横丁にでも行くかのような口振り。実際は青物横丁なのだが、そっちはおまけのようだ。
彼女の言にもあるように、目的は松風を手に入れる事らしい。
なんでも松風と言うのは最近売り出されたというお菓子の事だそうだ。それが人気の兆しを見せているとの事。人気が出てしまう前に、鱈腹食っておこうという算段。
松風は、独特の折り畳まれたような形状。
香ばしく焼き上げられたパリッとした食感、噛めば噛むほど小麦の香りは豊かに広がり、ほのかな甘味がその香りと混ざり合う。
それを楽しむのも束の間、いつの間にやら喉へと滑り落ちてしまう。そしてもう一口、もう一口と手元の松風もいつの間にやらなくなるそうな。
先日、一足先に賞味した
羨ましがらせる為に、この何倍も誇張して話していたので要約しておいた。
その自慢話に焚き付けられた日向はまんまと乗っかり、今日に至るというわけだ。
彼女の神田探索はこのようにして始まった。
※
「どうでしたか?」
「どれも鰯ですね」
何が?とは問わない。
二人の男の間では不要だからだ。
「ならさっさと手仕舞いなさい」
「もちろんです。目的はそこではありませんからね」
「鰯ばかりでは旨味がありませんよ」
「この間の初物の
「江戸には
「さすがに
「それもそうですね。しかし、うまい仕組みを考えたものです。待ってるだけで、いくらでも獲物が釣れるのですから」
「ありがとうございます。それでしたら見返りの方も是非に」
「出世させてあげたではありませんか。異例の出世。給金も増え、巷では若き俊英と名を馳せているのですから十分でしょう」
「……では、いずれ独立の時もお願いいたします」
不満そうな雰囲気を隠そうとしない。
商人の腹の探り合い。
この不満顔もどこまで本音なのやら。
相手も相手。ここまで露骨であれば、相手も不満であることは察しているだろうに。
しかし、どちらもそれ以上は言わず、表向きは話が付いたように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます