2.家出

 少し薄暗くなってきた神田の町。日に日に陽の長さが伸びてきている時期の夕暮れ。残照は赤みを失い、長きにわたり君臨した太陽は、やがて月にその座を明け渡す。


 夏の日暮れと共に町の様相は落ち着き、静かになっていく。



 日向が神田多町を訪れる一週間ほど前。その街を小さな影が歩いていた。


 遠目から見ても髪がぼさぼさであるのがわかる。

 性別は男であろう。痩せぎすで随分幼く見えた。


 服の色は判別できない。決して暗いからというだけでなく、実際に色や柄が判別できないほど色褪せている。


 その影は、キョロキョロと辺りを見渡しながら薄暗い街並みを歩く。

 程なくすると、とある商家の屋敷の裏手に辿り着いた。


 屋敷の大きさに驚いたように、しばし屋敷を眺めている。

 それも当然。なにせ、その屋敷は広大で、左右どちらを見ても塀が続く。それもそのはず、敷地の終わりは道で分断されるところまで。つまり一区画丸々がその大店の敷地である。


 御家人である日向ひなた日葵ひまりの武家屋敷より広い。二つ合わせても敵わないほどに。


 小さな影は、二度ほど頷くと裏口門に近づいた。

 遠慮気味に裏戸をコンコンと叩く。それでも戸を叩く音は、静かになった神田の町に響く。


「あのー、おいらも家出してきちゃったよ。助けてもらえないかな」


 遠慮気味なのは、街の静けさに臆したのではなく、自分の目的が世間に憚るため声を落としているようだ。


「おーい、家出して困ってるんだよ~。助けておくれよ~」


 もう一度、小さな男の子は大店の裏口から、近くに控えているであろう下男に声をかける。彼が聞き込んできた話では、こうやって声をかければ、すぐに戸が開くらしい。


 ――キィ。


 開いた戸の先には身なりの良い若い男が手招きをしている。

 哲太は、しめたとばかりに戸を潜り屋敷に入り込む。


 若い男が後ろ手に戸を閉めると入り込んできた哲太に妙に優し気な声をかける。


「坊。家出したんだってな。心細かっただろう。もう大丈夫だよ。私は番頭の鶴松というんだ」


 中に入れてくれた男は二十を超えたか超えないかという若さ。どう見ても番頭になれる程の経験があるとは思えない。筆頭手代になったばかりと言われる方がしっくりくる。

(商家の序列イメージ:店主=社長、番頭=役員~課長、手代=係長~平社員、丁稚=見習)



 だが、着ている者は店主と言われても疑う余地もない程に高価な絹物の小袖を着流し、練絹の羽織を着ていた。

 番頭だと言う鶴松の言はあながち間違っていないらしい。少なくとも手代が着るような着物ではない。


 彼は歳のわりに落ち着いていて、つるりとした優男。柔らかな笑顔は家出をしてきて不安な子供にとっては大層頼りになりそうに思える。


「うん。家出して、その後ブラブラしてお寺の軒下とかで暮らしてたんだけど、もう辛くて」


 確かに男の子の姿は。浮浪児のように生活してきたという言葉に間違いはなさそうだそうだ。


 それもそのはず、彼は本当に浮浪児なのだから。


 浮浪児である彼は親もおらず家もない。

 だから家出など出来ようはずもないのだが、それを素直に白状すると、この屋敷に入れてもらえない。


 そういう事情もあって、みすぼらしい身形でも納得してもらえるように家出エピソードを作ってきたのだ。幼い彼なりに。


 しかし、そこは海千山千の商人。ましてや、鶴松は若くして番頭に昇り詰めるほどの才人。

 鶴松にはそれが嘘であることは疾うの昔に看破しているのであるが、おくびにも出さない。


 彼は男の子の話を信じているかのように、さも同情しているかのような態度を示しているのだ。



 中に入れてもらった男の子は、鶴松と名乗る番頭に促され、使用人の長屋の一室に連れていかれた。

 そこに腰を落ち着けさせると、鶴松が自ずから白湯を運んできて彼に供した。


 そこでいくつか質問される。

 住まいはどこだったのか。いつから家出をしていたのか。名前は? 歳は?と。


「そうか。坊は哲太というのか。十にも満たない年頃でちゃんとお話しできて偉いじゃないか」


 そう言われた哲太はながら白湯をすする。

 さながら大人に褒められた小さな子の様子で。しかし彼のは演技である。


 なぜなら、幼子の見た目とは対照的に歳は十四。この時代ではそろそろ一人前扱いされる年頃なのだから。


 浮浪児としての生活が長い哲太は、まともな食事がとれなかったせいもあり体の成長が遅い。

 幼い頃の記憶を遡っても浮浪児であった記憶しかない哲太にとっては、自分の出自を知らない。捨て子だったのか、遺児だったのか。


 気が付いたら浮浪児の集団にいて、年嵩の浮浪児たちに面倒を見てもらっていた。

 時が経ち、年上の浮浪児は死んでしまったり、役人に捕まってしまったりしていき、いつの間にやら哲太が一番の年長者となった。


 年嵩の浮浪児がいなくなっても、どんどんと下の子が入ってくるので集団の人数は減っていない。

 むしろ集団を成り立たせるために受け入れを停止せねばならぬほどに。


 あまり大きな子では、家出という理由付けも説得力を無くしてしまうので、九歳という設定にした。

 十歳では、もう丁稚奉公に出る時期でもあるので家出をする年頃でもあった事も要因の一つである。


 簡単な身の上話をしていると、ちょうど時刻も良い頃合いだと呟き、鶴松は哲太にここで待つように指示をして長屋から出て行った。

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