3.うぐいす

 女将に見つからないようにその場を迂回すると、白い法被を着て肩を怒らせて歩く男を見つけた。ガラゴロと下駄を鳴らしながら歩いていた。


 料理人らしい身なりから、女将との言い争い相手はこの人かと当たりを付けて尾行する。

 無駄に隠形の忍術を駆使しながら。


 一連の流れを見ていればこそ気が付けるが、つけられている男も、同じ方向に歩いている町人も、近くを歩く女子たちが尾行しているなんて気が付かない。


 彼女たちは並んで歩かず、交互に前に出たり後に出たり。直接目視して歩くのは一人だけにして、もう一人は離れて歩く。ある程度歩くと交代して、一人だけが、ずっと後ろにくっついて歩く事はしないよう気を配っている。


 それだけでは無い。後ろに下がった方は手拭いを頭に巻いてみたりして雰囲気を変えていた。


 しかし、準備をしてきたわけではないので、ある程度の距離を尾行していると手詰まりになる。


 そうなればなったで今度は物陰に入り、着ていた着物を裏返し、裏張りしていた別の柄の着物を羽織り直して、別人を装う。


 ずっと似たような人物が後ろを歩いているのを不自然に思われないためだ。


 それらは、御庭番衆の隠形のテクニックなのだが、それを惜しげもなく使用している。お役目ではなく興味本位の尾行で。


 彼女らにとって忍術の修得も興味本位だったので、その点について特に疑問を持っていない。


 法被姿の男は、尾行されていることなど考えもしないように黙々と歩く。


 広小路を抜け、谷中道に入ると不忍池を左手に寛永寺の脇を抜けていく。


 不忍池の蓮は今か今かと咲き誇る時を待っているように思えるほど蕾を膨らませていた。蕾を守る青々とした葉は日差しを目一杯受け止めようと押し競饅頭をしている。



 そんな風情に目もくれず、法被の男と野次馬くノ一の二人は北上を続ける。


 四半刻も歩けば、そこは鄙びた風景が広がりだし、そこらの民家にも風情を感じるようになる。

 鶯谷に入ったようだ。


 このあたりは、俳諧の師匠や作家などが挙って住まう雅なところ。

 

 なんでも、むかしむかし、さる皇族の方が下向された際に江戸の鶯は鳴き声が訛っていると言い、京の都から鶯を連れてきて放ったそうな。


 それ以来、この地は鶯の名所として歌にも読まれるようになり文化人が別邸を構え、思索に耽るという。さもありなん。


 そのうち、一件の小さな料亭に着くと法被の男は躊躇いもなく、裏手に回って入っていってしまった。


「撒かれずに標的を尾行できたわね」

「うん。でもなんで尾行してたんだっけ?」


 やってる事は凄いのに、いつもこんな調子だ。物陰に隠れて言い争いを見ていた時の怒りはどっかに行ってしまったようだ。

 大方、尾行することに夢中になって、なぜ尾行するに至ったのか忘れてしまったのだろう。


「うーん……女将さんを泣かせた男に文句を言おうと思ったんじゃなかったっけ」

「そうだった! けど何て言うの? 事情もよく知らないよね」


「うっ?! まあ、ねぐらは突き止めたし、女将さんに情報収集でもしてみましょうよ! もしかしたらなにか役に立つかも」

「お昼食べ損ねちゃったね。今日は遅いからまた今度にしようか」


「そうね。次こそ必ず行くわよ。確か屋だっけ?」

「そうなんだけど……ここも屋って書いてあるよ」



 ※ ※ ※



「銀次のやつ、もうすぐ、もうすぐっていつまで待たせるのかしら」


 女将はひどく疲れたように壁に寄りかかり、少し遠くを見つめている。店はいつものように閑散としていたので仕事で疲れたわけではなさそうだ。銀次と言い争った事に後悔しているのだろうか。


 彼女は銀次が豆腐料理の試作をすると体調を崩すことは知っていた。他の料理であれば、親方でもある厳しい父が一目置くほどの腕前であることも。


 そして、その腕前があれば看板料理の淡雪豆腐を再現することが、そう難しくないことも。


「本当は私と結婚したくないのかも。豆腐を食べると風邪を引くなんて冗談にも程があるわ。昔から銀次のことを知らなきゃ、馬鹿にするんじゃないよって、ひっぱたいてやるのに」


 この一年、幾度となく問いかけた質問を繰り返しては、同じ考えに行き着く。

 彼女の言を借りれば、愛らしくもあり、憎らしくもあるというところだろうか。

  

 愛する人を信じたい気持ちと現実を見て打ちひしがれる気持ち。

 どちらか片方だけであれば、どれだけ楽になるのであろうか。


 人の気持ちとは難しいもので、楽になるからといって片方の気持ちを捨て去ることはできない。

 なんとも思った通りにいかないものである。


「……お医者様を訪ねてみるしかないのかしら」


 結局、彼女も諦めることはできず、事態を打開するすべを探すことにしたようだ。

 

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