1.疑惑
「それで、上川さんが、怒ったの?」
美加が興味津々だ。
「いいえ、違うんです。泣いたんです」
下村さんが、気不味そうに云った。
今にも、思い出して、泣きそうな顔だ。
「だから、私は、言ったの」
下村さんが、今度は、紛れもなく泣いて、云った。
下村さんが、美加と対立したした時期に退部した、同じクラスの、板井さんを呼び出した。
開口一番。
「わたしは、もう、退部したんやから、話す事は、無いわ」
下村さんは、実力もあるし、勉強も出来る。
だから、板井さんの気持ちは、分からない。
下村さんは、石木スポーツクラブでも、西田さんとポジション争いも、互角に競い合っていた。
ちょっと待て。
千景は、下村さんの話しが、理解出来なくなった。
「それは、上川さんの話し?」
千景は、確認した。
「いいえ。板井さんの話しです」
下村さんか答えた。
「その、上川さんの話しで、泣いたんやないの?」
千景が質した。
「そうです」
下村さんが頷いた。
「そしたら、それは…」
千景は、要点を話すように、云おうとした。
何故、板井さんの話しが始まるのか。
「チカ。良えやん。最後まで聞こうや」
美加が千景を宥めた。
「それで、どうしたの?」
美加が、その後を引取って、下村さんに話しの続きを促した。
下村さんは、話しを続けた。
もう一人の、バレーボール部を退部した、板井さんの話しを始めた。
板井さんは、美加が、柚葉の応援をしてあげるように、云っていたから、イベントのチケットを買った。
どうせ、大会には、出場出来ないのだから。
他の一年生も、同じ思いだった筈だ。
しかも、彩乃が、イベントへ行っても良いように、取り計らうと云っていた。
えっ。
美加が驚いた。
そんな話しは、今、初めて聞いたようだ。
彩乃が、そんな事を云っていたのか。
ひと言、相談してくれれば、良かったのに、と悔しがった。
ただ、彩乃は、優しいから、云い出せなかったのだろう。
千景は、美加に睨まれた。
暗に、美加は、怖いからと匂わせたのが、分かったようだ。
練習には、参加するように云われるし、大会当日には、応援に来るように云われた。
勿論、強制では無い。
しかし、スポーツクラブ時代から一緒にバレーボールをやっていた美加に、そう云われると、断われない。
美加は、スポーツクラブ時代からリーダー格だった。
バレーボールの大会は、イベントと重なっていた。
そして、板井さんは、当日、一人で、イベント会場へ行った。
すると、上川さんも、イベント会場に来ていた。
他の一年生は、来ていなかった。
上川さんにとっては、どうなのか分からないが、三千円というと、板井さんにとって、一ヶ月分のお小遣いだ。
あまり、親しくは、無かったが、「掟破り」の同罪を冒した者同士、一緒に柚葉のステージを見た。
イベントに出演と云っても、地元の、しかも、同じ中学校の二年生の柚葉だ。
ずっと、レッスンを受けていたとは云え、所詮、テレビで見ているような、高揚感は湧かない。
ケーブルテレビの、録画放送で充分だと思った。
いや、ケーブルテレビの録画放送さえ、見なくても良いと思った。
これなら、試合の応援に行った方が、良かったと後悔した。
更に、美加が柚葉に交渉して、イベントへ行けなかった部員の、チケット代を返金させた。
ただ、柚葉から板井さんに、お礼とお詫びがあったそうだ。
イベントに来てくれたお礼だった。
それと、バレーボール部に、居辛くさせてしまったお詫びだった。
そして、チケット代を千円戻してくれた。
イベントへ行ったのに、千円戻って来た。
良かった。
一ヶ月分のお小遣いの、三分の一が、戻って来た。
これで、暫く凌げる。
「ありがとうございます」
板井さんは、柚葉の手を取り、深々と頭を下げて、お礼を云った。
なんだか、人情裏長屋のような話しになって来た。
七輪で炙った鰯の煙が、目に染みるような気がした。
「それで?」
美加が下村さんに、話しの続きを促した。
「いや。板井さんの話しは、これで終りです」
下村さんは、平然と云った。
「分かったわ。これから、上川さんの話しね」
美加が辛抱して尋ねた。
「そして、上川さんは、辻倉さんから、何も言われていませんでした」
更に、下村さんの話しは続く。
彩乃は、上川さんに、イベントへ行っても良いように、取り計らうとは、云っていなかった。
元々、上川さんは、柚葉の出演するイベントに興味が無かった。
だから、試合の応援に行くつもりだった。
ところが、バレーボール部の一年生は、皆、チケットを購入していた。
こんな事で、バレーボール部で、浮いてしまうのも嫌だった。
だから、興味も無いのに、チケットを購入した。
「分かるわ」
それを聞いた時、下村さんは、共感したそうだ。
テレビに出ると云っても、地元のケーブルテレビだ。
全国ネットのテレビに出ているタレントなら分かるけど。
だから、下村さんも同じ思いだった。
下村さんは、試合の応援に参加したので、チケット代は、全額、戻ってきた。
上川さんに、柚葉から、イベントへ来てくれた、お礼があったそうだ。
しかし、板井さんと違って、千円の戻りは無かったそうだ。
それで、「上川さんは、レシーブが下手だから」と下村さんが、云ったそうだ。
「ちょっと待って」
美加が、下村さんの話しを遮った。
千景も頭を整理したかった。
彩乃が、何故、板井さんに声掛けして、上川さんに声掛けしなかったのか。
声掛けとは、イベントへ行っても良いように取り計らう事だ。
ただ、取り計らうと云っても、何をどうするのか、具体的な話しは、無かった。
板井さんに、約束したのは、下村さんや上川さんが、チケットを購入した日と、同じだ。
同じ日にチケットを購入して、板井さんには、彩乃が話し掛けている。
しかし、上川さんには、話し掛けていない。
板井さんと、上川さんでは、何が違うのか。
「違いと言っても」
下村さんが云った。
板井さんは、セッターで、上川さんは、どちらかと云うと、アタッカーか?という違いだ。
しかも、板井さんは、横田さんのサブくらいだ。
決して、試合に出られるような実力ではない。
三年生部員の最後、夏の大会に、美加も彩乃も試合には、出場していない。
勿論、当時の一年生も、誰一人、出場していない。
横田さんとは、美加とスポーツクラブで親しかった下級生だ。
美加が、今回、呼び出した、最初の下級生だ。
まさか、ポジションで対応を変えた訳では無いだろう。
「そうそう。横田さんにも、辻倉さんから話しを聞いていたわ」
下村さんが云った。
驚いた事に、横田さんも、彩乃から、イベントへ行ってと良いように取り計らうと、云っていたらしい。
千景は、何か、彩乃と柚葉の間で、取り決めが、あったのではないかと思った。
もしかしたら、彩乃が「金蔓」なのか。
「うさぎの死骸遺棄事件」の後、千景は、彩乃と柚葉を訪ねた。
中学校で飼育している、うさぎ二羽は無事にケージに居た。
それでは、教室に遺棄されたうさぎの死骸は、どこの、うさぎなのか。
だから、柚葉が、小学校から譲り受けた、うさぎを確認するためだ。
その時の、彩乃の様子が可怪しかった。
彩乃は、柚葉の帰宅時間を知っていたようだ。
知っていたのなら、そう云えば良いのに。
何を隠しているのだろうか。
柚葉は、イベントに行かなかったバレーボール部員に、全額チケット代を返金している。
イベントに出演する衣装は、誰が準備するのか、分からない。
イベント会社なのか、出演者が準備するのか。
それとも、協賛会社なのか。
この辺りは、弘君に聞いてみないと分からない。
弘君も、彩乃に何か不審を持っているようだ。
つまり、弘君も彩乃を怪しんでいるという事だ。
確かに、イベントの出演者は、そんなに沢山は居ないそうだ。
都会ならともかく、地方でタレントを目指す人は少ない。
それに、新型コロナの影響もあって、イベントへ出掛けて行く人も少ない。
横田さんも、イベントへは、行かなかった。
ただ、皆と違って、横田さんは、イベントへ、行きたかったそうだ。
美加が、応援していたのも、知っていた。
美加と仲が良い事も、知っていた。
だから、一度、柚葉の出演するイベントへ行った事がある。
柚葉が、一生懸命に、歌っていた。
何か、音程に不安を感じたが、それでも一生懸命だった。
横田さんが、一生懸命、バレーボールに打ち込んでいるのと、何ら変わりは無かった。
横田さんは、高校、大学と進学するつもりだ。
そして、バレーボールも続けるつもりだ。
しかし、限界を感じたら、あっさり、バレーボールを諦める。
だから、横田さんも、偉そうな事は、云えないのだ。
尚更、柚葉を応援したかった。
柚葉は、地元のスタジオに通っていた。
いつか認められて。
東京で。
全国ネットで。
そう思って努力している。
それが、ありありと解った。
千景は、ちょっと、横田さんが、柚葉を買いかぶり過ぎていると思った。
確かに、歌が上手い訳では無い。
しかし、音程に不安があっても、必死で努力していたのだろう。
ただし、悪どい事もしていた筈だ。
「金蔓」を見付けたという、悪どい事だ。
昨日、母娘で話していた「金蔓」の事だ。
下村さんは、元バレーボール部員の二人に話しを聞いた。
バレーボール部に留まっている、横田さんにも話しを聞いた。
しかし、「金蔓」の話しは、出て来ない。
更に、下村さんが、横田さんの話しを続ける。
ちょっと、嫌な事があれば、すぐ辞めてしまう。
板井さんや上川さんのような人より、余程、立派だと思った。
それを半ば強制的に、試合の応援に参加させられた。
更に、美加が、柚葉に酷い事を云って、チケット代を返金させた。
もっと云えば、皆から反発されて、負け犬のように、転校した美加に、失望した。
失礼。と云って、下村さんは、黙った。
美加は。唇を噛んて聞いていた。
悔しかったのだろう。
しかし、気にしていない事が分かった。
「やっぱし、ポジションかもしれない」
美加が云った。
セッターの横田さんと、板井さんに、彩乃は、イベントへ行っても良いように取り計らうと約束している。
だから、ポジションがセッターの部員にだけ、声掛けをしていた。
つまり、セッターの部員を大事に思っていた?
あるいは、セッターの部員に、イベントへ、行き易くした。
何のために。
やはり、彩乃は、何か関わりがあるのだ。
彩乃が「金蔓」なのか。
しかし、彩乃に、柚葉の「金蔓」になるような理由が無いし、小遣いも無いだろう。
横田さんが、彩乃に話しをしている筈だ。
美加や下村さんが、バレーボール部員や、元バレーボール部員にを呼び出している。
彩乃の耳に、入らない訳が無い。
それでも、彩乃から何も云って来ない。
「分かったわ。それで、何で、上川さんか泣いたの?」
美加が、苦虫を噛み潰したような顔で尋ねた。
「今、云ったじゃないですか」
下村さんが、心外だと云わんばかりな顔をして云った。
千景は、思い出せない。
下村さんが、上川の事を何て云ったのか。
「レシーブが下手だって」
下村さんが云った。
それは、聞いた。
だから、下村さんが、怒ったのだと思った。
しかし、泣いたというのは、どういう意味なのか。
「だから…」
下村さんが、説明した。
上川さんは、スポーツクラブに居た時から、「レシーブ」が下手だった。
だから、そう云ったのだ。
「レシーブ」が下手だから、柚葉から、返金を「受け」られなかった。
ぷっ。
美加が失笑した。
なんだ。
下手な小噺か。
説明を聞いて、やっと分かった。
しかし、そこは、泣くところでは無いだろう。
「えっ。何か、可笑しいん?」
下村さんが、真剣に尋ねている。
もしかしたら、ギャグでは無く、本当に、そう思っているのか。
「もう良えわ」
美加が、下村さんの話しを遮った。
「何で。だから、言ったのよ」
下村さんが云った。
「レシーブが駄目なら、ブロックを練習すれば、良かったのに」って云ったのだった。
真面目な顔をして、下村さんが力説している。
板井さんは、下村さんについて、バレーボールも、勉強も出来ると云った。
千景は、怪しいと思った。
バレーボールは、上手いが、勉強の方は、どうだか分からない。
もしかしたら、発想が、変わっているのかもしれない。
柚葉が殺害されてから、二週間になる。
千景は、ずっと、一人で、深刻に考えていた。
いや、千景だけではないだろう。
新型コロナに、殺人事件。
授業はオンライン。
外出も憚られる毎日だ。
仲間が出来て、気持ちに、余裕が出来た。
長い間、笑顔を忘れていた。
下村さんのお陰で、笑えた。
ただし、お笑いの才能は、無いと思う。
だから、下村さん。バレーボール。
頑張れ。
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