1.朝礼

セーフ。

七時五十九分。

寒い朝なのに、汗をかいている。


午前八時に校門が閉まる。

それまでに、校庭内に入っていれば、遅刻ではない。

それでも、通用口は開いているのだけれど。


自転車置場へ向かっていると、遅刻の常習犯が、急いで自転車を押して登校して来た。

クラスメートの四人組は、ゆっくりと自転車置場へ近づいて来た。

本当は、学活が始まるまで遅刻を見逃してもらえる。


教室の後ろの壁に、生徒各自のリュックとバッグを置くロッカーがある。

教室の後方の出入口から入ると、「歩行注意」のカラーコーンにポールが掛かって立っていた。


秋山千景と名前のシールを貼ったロッカーにリュックと肩掛けバッグを置いた。


「おはよう」と彩乃の声に、「おはよう」と千景は、応えた。

彩乃が、少し屈んで、千景のスカートの裾から、ひっ付き虫を取って見せた。

細長い二センチくらいのひっ付き虫の先に三本の針が突き出ている。

彩乃が、千景のスカートに付いた、ひっ付き虫を毎朝、取ってくれる。


彩乃は、千景のスカートのひっ付き虫を取る係みたいになっている。


千景は、席に着くと彩乃も席に着いた。

彩乃とは、保育園から一緒だった。

隣町の丸肥町にある弥勒保育園に通っていた。

石木町の人口が急激に増えて、保育所が足りなかったそうだ。

小学校では、五年、六年生と同じクラスになった。

中学校では、一年、二年生と同じクラスになった。


先程、駐輪場で見かけた男子四人組が、教室へ駆け込んで来た。


規則では、午前八時五分までに着席する事になっているが、慣例的に、先生が教壇に立つまでは、遅刻にならない。


高木由人、薮内健太、森勇人と三宅康夫。いつもの四人だ。

千景と同様、急いで各自のロッカーに、リュックとバッグを置いて、席に着いた。


担任の斎藤先生は、大抵、八時二十分頃、教室に入って来る。

今度は、女子二人が、教室に入って来た。

三原裕子と筒井陽奈が、ほっとしたように、リュックとバッグを片付けて、席に着いた。


しかし、もう既に八時二十五分になる。


大西利信君が、教室に入って来た。

通学用カバンは、いつも教室に置いたままだ。

慌てる様子もなく、大西君は、いつもの通り、ゆっくりと席に着いた。

遅刻の常連も席に着いて、クラス全員が揃ったようだ。


一年生の時、千景は二組だった。

二学期くらいから、二組の女子が、休憩時間の度に、三組の教室の廊下で、屯するようになっていた。


気付くと、他のクラスの女子も、三組の教室の廊下で、二、三人ずつ並んで立っている。

雀が電線に集って止まり、何羽ずつ飛び去って、また、何羽か集まっている。


暫くして、「誰それと誰それが、大西君を見に来ていた」と云う、クラスメイトの話声をトイレで聞いた。


千景は、三組の教室の廊下で、女子が雀のように集まる理由をやっと理解した。


気付くと、八時三十分。

何か、クラスが騒がしい。

何人かが、教室の入口から廊下へ出ている。


千景は、ぼんやりと、窓の外を見ていた。

ゆっくりと、大西君が千景の席にやって来た。

「西田さん。来てないけど、休みか?」

大西君が小さな声で、千景に尋ねた。

「西田さん」とは、西田美加の事だ。


大西君は、千景が彩乃や美加と、保育園以来の仲良しなのを知っている。

千景は、大西君に尋ねられて、始めて、美加が教室に居ない事に気付いた。

「分からない」と答えると、大西君は、席に戻った。

彩乃には、尋ねたのだろうか。

美加は、中学校に入学してから一度も休んだ事が無い。

しかも、土曜、日曜日、休日、春、夏、冬休みも、一日も欠かさずに、朝夕、学校へ来ている。


それは、中学校で飼育しているうさぎの世話をするためだ。

勿論、バレー部の練習のためでもあるのだが。


しかし、さすがに、修学旅行だけは、用務員さんに、お土産をいっぱい買ってくると云って、お願いしていた。

それ以外は、毎日、うさぎの世話をするため、学校へ通っている。


それなのに、今日は、来ていない。

大西君は、それを不審に思っているようだ。


相変わらず教室が騒々しい。

窓から首を廊下へ突き出して、左右を見回している。

一時間目の授業は八時四十分からなのに、もう八時三十五分になる。

朝礼さえ、していない。


騒がしいのを聞き付けたのか、二組担任の西川先生が、三組の教室を覗いた。

西川先生は、今年四月に石木中学校に赴任して来た。


石木葛原小学校で同級生だった二組の末光君のお母さんが、千景のお母さんに愚痴を溢していたのを聞いた事がある。

「来年は、高校受験だというのに、あんな若い、チャラチャラした女教師が担任になってしまって、学校は、何を考えているのか」と憤っていた。


西川先生は、社会科の授業を担当し、二組の担任をしている。

綺麗な先生で、男子生徒に人気があるのだが、女子生徒には、反感を買っている。

同級生の女子生徒同士で、社会科の授業の後、休み時間に不満を云い合っていた。

中には、担任の斉藤先生に何度も苦情を云う女子生徒がいる。

授業の進捗に関する苦情らしい。


西川先生の授業は、途中で脱線して、風土や人物の逸話に、長時間費やしてしまう事が度々ある。

これでは、一年間で教科書の全部を終了出来ないのではないか不安である。と云うのだ。


斉藤先生は、生徒から相談される度に、西川先生を庇っている。


西川先生は、まだ若い。

決まりきった授業より、色んな情報を伝えて、少しでも社会科の面白さに興味を持たせようと、工夫しているのだ。と力説している。


しかし、斉藤先生自身も、まだ若いのだ。

それでも、教科書に沿った、真面目で、面白くもない授業を続けている。

もっとも、数学の授業では、脱線のしようがないのかもしれない。


どちらかと云うと、川口先生の国語の授業の方が、脱線に脱線を重ねて教室中が熱気に包まれる事がよくある。

それでも、川口先生に対する苦情は、無いようだ。

川口先生にしたって、四十歳前半だが、綺麗な先生だ。

それでは、この差は、何なのか分からない。

もしかすると、既婚者と独身者の違いかもしれない。


斉藤先生も独身だし、綺麗な西川先生に気があるのではないか、と噂されている。

思春期真っ只中の生徒にとっては、極めて自然な勘繰りかもしれない。

しかし、同時に、だからこそ、敏感に感じ取っているのかもしれない。


「静かに」西川先生が教室の入口から云った。

大声で生徒を静めた。

「どうしたの」

と委員長の長野君に云ってから、何かに気付いたように手で制した。


西川先生は、斎藤先生が、まだ教室へ来ていない状況に思い当たる事があったようだ。

自習をするように指導して、教室から出て行った。

二組の教室とは反対方向へ向かったので、職員室へ行ったのだろう。


暫くすると、西川先生が教室に戻って来て、授業科目の変更を告げた。

一時限目は、国語の時間だから、学年主任の川口先生の授業だが、担任の斎藤先生の数学の授業に振り替わった。

川口先生の国語は、二時限目に振替った。


午前八時四十分。

斉藤先生が、怜奈と一緒に教室へ入って来た。

斉藤先生が教壇に立ち、怜奈は席に着いた。


クラス委員の長野君が、号令を掛け、一礼して着席した。


「えーと。ひとつ。問題が起こった」

斉藤先生の説明が始まった。

「今朝、片山さんが、登校して教室に入った時、うさぎの死骸を発見した」

片山さんとは、片山怜奈の事だ。

皆、一斉に振り向き、「歩行注意」のカラーコーンを見た。


斉藤先生は説明を続けようとした。

怜奈が、手を挙げた。

「どうした」斉藤先生は、心配そうに、怜奈に問い掛けた。

「先生。私が説明します」

怜奈が、思いがけない事を云った。

「大丈夫か?」斉藤先生は、まだ心配そうだ。

「大丈夫です」

斉藤先生は、頷いた。

怜奈も頷いた。

「今日、テスト勉強しようと、七時くらいに学校へ来ました」

怜奈が、話を始めた。

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