信じるために

 一年後、中学三年生の夏。私は祖父の葬式に参列していた。祖父は糖尿病や肝臓がんを患っていたが、最期まで自宅療養で、病院に入ることはなかった。今際いまわは危篤特有の掠れるような呼吸をしていて少し苦しそうだったものの、家族や親戚、総勢十名以上に看取られ、穏やかに息を引き取った。まさに大往生だった。

 直前、私は「おじいちゃん、○○だよ」と言って手を握った。祖父は目をきつく閉じながら無言で頷き、シワくちゃの手で握り返してくれた。それが驚くほどに力強く、そして温かかったことを、今でも昨日のことのように思い出す。――根拠はないが、きっと祖父は満足して生を全うしたのではないかと思っている。


 その後、私は一周忌、三回忌と何度も祖父の墓へ足を運ぶことになるわけだが、実は当初からずっと心に渦巻いていたモヤモヤがある。それは、いま手を合わせ、こうして語りかけている私の「心の声」は、果たして祖父に届いているのだろうか、という疑念だった。

 大学時代、受講していた民俗学で、死を悼む行為とは悲しみに縛られて現在を生きる人間が、心に折り合いをつけ、前に進むためのものではないか、と一つの仮説を示していた。すなわち、葬儀や墓参りは故人のためというよりも、その故人が死してなお幸せを願っているであろう、残された大切な人達のためにあるのだ――と、このような考え方である。

 別の回では、人は死んでしまった時点でこの世に対して一切の干渉が不可能となる上、霊魂といった曖昧なものは実際問題、観測することができないわけだから、実質的に故人は"無"になる。つまり存在が抹消されたのと同義であり、そこへ執着するのは非科学的で不毛に違いないが、あくまでもそれは理屈の話であって、人が人である以上、行き場のない感情というものは確かに存在する。死を悼む行為とは謂わばその感情の受け皿であり、心身ともに健やかな生命活動を維持するには便宜上、必要不可欠な慰安に当たる――と少し角度を変え、その仮説が補足されていた。


 私は上記の仮説に対して、一理あるなとは思いつつも、如何せん腑に落ちずにいた。無論、自身の死後、親しい者たちに暗い顔をされ続けるなど、故人にとって本意でないのは推量できる。しかし命の有無、その隔たりを口実にして、亡くなった人への感情が生きている人にとっての保身の材料に置き換えられ、そもそも"無いものは無い"と割り切ってしまうならば、真の意味で故人を悼むことなど永劫できなかろうと、心の底で考えていたからだと思う。

 もしこの説に納得してしまえば、心の声は空を舞い、手を合わせることも、黙祷することも、本当は意味がないと知っていながら行う、ただただ寂しい儀式になり果てる道理なのだ。私は祖父へ語りかける想いが、かつてクラスメイトに手向けた歌が、それによって得られたこの溢れる情緒が、自分本位に生まれてきた、滑稽で空虚な産物だとは……信じたくなかったのかもしれない。


 そうした葛藤が前提にあって。私はいつしか、たとえ証明できないにしろ、霊魂の存在をどうにかして感じることはできないか、と模索するようになっていた。感じられさえすれば、少なくとも自分の中で、何か決定的な変化が起こるはずなのだ。

 とはいえ特に具体的な行動をするでもなく、私は目に見えないものを題材とした文章や娯楽媒体を好んで享受する日々を送っているうちに、気づけば十代を終えていた。


 成人後、大学二年生の頃だった。若気の至りともいえようが、わたしはそれまで死者に対する冒涜になると捉えていたため、絶対に行きたくないと目を背けていた心霊スポットに、足を運ぶようになる。

 その契機となったのは、ある日、腐れ縁の友人が誘ってきた深夜ドライブ。道中、頑なに目的地を言わないから変だなぁと勘ぐっていると、車はどんどん山へと入っていった。やがて辿り着いたのは廃墟であった。聞けば過去に殺人事件があったとかで、そういった場所に生まれて初めて訪れた私は、外観を見るだけでも漠然とした恐怖を感じていた。

 ただ同時に、深い静寂に包まれ、何十年も放置されているであろう建物の残骸を目の当たりにして、私はふと「昔ここで人の時間が流れていたんだよな」とも感じた。すると急に、世界に忘れ去られてしまったこの場所が、とても不憫に思えて仕方がなくなった。本当に亡くなった方がいるならば、これほど悲しい顛末が他にあるだろうか。せめて我々の心に留めおくことで、供養に代えることはできないだろうか――瞬間、私は自分のなかにある心の声、悼みの念が、こうした気持ちを源泉として生じているのだと悟った。決して繋がりが絶たれたわけではない、遠くに行ったわけでもない。それを確認して伝えたいという願望が、戒めを解き放ち、私を突き動かした。


 その日を堺に、我々は自分の住んでいるエリアを中心として、心霊スポット巡りを開始する。人々が真の意味で悼むことを諦めた先に広がっている、"無”の空間。そこに何かが残っているのだと、信じるために。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


【蛇足】


・スポットへの遠征メンバーは私とK、Tの三名のみ。


・この話に出てきた廃墟訪問の翌日、メンバーの中で唯一(自称)霊感があるというTの足首に謎のあざが浮かび上がる。黒くなった五つの点は、まるで手で掴まれたような痕跡となっていた。彼はその日、原因不明の高熱で仕事を休む。その後は問題なく回復し、現在も元気に生きている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る