見えないものに対する意識の変遷
焉
きっかけ
私が中学生の頃、初夏にクラスメイトが亡くなった。交通事故だった。彼女はやや重い障がいを抱えている子で、いつも車椅子で移動していたのを覚えている。事故の概要については、朝の四時頃に親戚の運転する車に乗っていたところ、とある県道のカーブで曲がり切れず、ガードレールに衝突してしまったと聞かされた。
親ではなく親戚? なぜそのような時間帯に? それほどスピードを出していたのか? はたまた居眠りか飲酒運転? 当時も今も疑問は尽きないが、真相は誰も教えてくれなかったから、わからない。
私は彼女と同じ小学校に通っていた。とはいえその時はクラスも異なっていたし、私は四年生で転校してきた境遇でもあったため、互いに薄っすら存在は認知しているものの、殆ど知らない人といった表現がしっくりくるような遠い距離感だった。
ところが中学生に上がり、二年生で初めて同じクラスになった。相変わらず直接、話したりする機会はないのだが、ああ、同じ空間にいるんだなぁという実感が湧く程度には、近い距離感になっていたと思う。
その実感を強めていたのは、彼女がしばしば、いじめられていたことにも起因する。彼女は基本、大人の目がある範囲で行動するため、いじめの規模はそれほど大きくはなかった。しかし悪意の大小は問題ではなく、私は誰かが誰かに嫌な顔をさせている現実を目の当たりにすると、そこへ助けに入れない自分は本当に無力で、最も悪辣な生物だと痛感してやまず、息苦しかった。
あの時期は私も暴力によるいじめを受けていたのだが、そうやって「自分のことで精一杯だった」と言い訳し、攻撃される彼女を放置するたび、ああ、同じ空間にいるのになぁと後悔ばかりしては、何もできずにいたのを思い出す。
ある日、作文の授業があった。当時は推敲などという技術を知らなかったため、気ままに文章を綴ることができたのも手伝ったのだろう。筆が乗っていた私は、気づけば短時間で原稿用紙を十枚以上埋めていた。この授業は、三枚目以降に到達した場合、教壇に置いてある新しい用紙を取りにいかなければならないシステムだった。他に席を立った生徒はあまりいなかったから、おそらくかなり悪目立ちしていたように思う。
教壇の横に、彼女が座っていた。要するに一番前の席にいたわけなのだが、彼女は頻りに用紙を取りに来る私の愚行を見て、こう言った。
「すっげ~~!」
教室の中にはきっと、「なんだあいつは」「真面目のつもりか」「面白くねぇ」ともやもやしている生徒が沢山いたのは想像に難くない。しかし彼女が私に向けたのは笑顔だった。おそらく純粋に思ったことを口にしただけなのだろうが、私にはそれがひどく衝撃的だった。彼女はただ生きるだけでも自分の何倍も苦労しているはずで、他人に嫌な顔をさせられる日々を過ごしているのも知っている。だのに惜しげもなく放たれた称賛の一言は、私の心に嬉しさと悲しさを一遍に齎した。彼女と話したのは――いや、厳密には一方的に言葉を貰ったのは、それが最初で最後の機会となった。
私は学級委員の立場を押し付けられていたのが幸いし、彼女の通夜、告別式、出棺と、担任の先生とともに一通りの葬儀に参列することができた。他の生徒は通夜のみだったが、その日の光景はとても印象的だった。彼女を直接いじめていた者、また間接的にいじめていた者、こうした状況に頓着のなさそうだった不良の者。その全員が、泣いて彼女の死を悼んでいたのだ。斎場には生前の彼女が好きだったという、ゆずの『栄光の架橋』が小さく流れていた。直面する状況のすべてが私の何かを揺さぶり、頬に感情を伝わせていた。一方、私をいじめていた一派は、あろうことか笑いながら現場で追いかけっこをしていたりしたのだが。それはまた別の話であるゆえ、ここでは割愛する。
同年の冬、合唱コンクールがあった。私はこれの実行委員も押し付けられており、練習に参加しない者たちへの声掛けに、すこぶる難儀していた。さておき、この時に歌ったものの一つに『友よ北の空へ』という楽曲がある。歌い出しは"笑顔ひとつ 風に残し 北ぐにへ 帰った君"。私は練習している時点で既に、なんとなくではあるが、彼女のことを想起せずにはいられなかった。このクラスで、この楽曲を歌うことになった意味――そのようなものはないのかもしれないし、あるのかもしれない。いずれにせよ、少なくとも私に限っては、彼女への手向けとして『友よ北の空へ』を歌うことに、強い意味があると何故か直感していた。だから心を込めて、本番に臨んだと記憶している。
歌っている最中、不思議な感覚があった。彼女へ向けた悼みの念が雲となって心を覆い、出だしまでは神妙になっていたのだが、途中から悲しい気持ちが消え、以降全く起こらなくなったのだ。それどころか、楽しい気持ちさえ生まれるようになっていた。
全員の歌声が共鳴する壇上、差し込む照明の鮮烈な光が自分たちを包み込み、酸欠とともに自己の意識が空間に融け出しているような、目眩に似た感覚。その感覚が襲う中、私はあることに気づいた。たぶん、彼女も今ここで一緒に歌っているのだなと。
つまり、死という決定的な隔たりに打ちひしがれ、手向けを用意してきた自分の物憂さは、どこかお門違いだったのだ。彼女は別段、遠くに行ったわけではない――根も葉もない情緒が俄然、私を支配していた。そしてその情緒は、コンクールが終わった後もずっと、私のそばから離れずに残留している。
見えないものについて考える時間が増えたのは、確かその頃からだった気がする。
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