肆話 燻る痛みは薄れる事無く

 いつになく慌ただしく、緊迫したラウンジ内。辺りはいつもの倍程の隊士でごった返している。頭上のモニターには「警告:大型種発生」とシンプルだが一目で緊急事態と分かる文字が表示されていた。


 ジェノは「通して下さい」と苛立った様に、ラウンジに集まっていた不安そうな人混みをかき分けながら、一人オペレーションルームへと繋がる扉を目指していた。


 やがて扉の前へ辿り着けば、自動のセンサーがジェノを認識してウィーンと静かに開いていく。

 しかし今はそれが完璧に開く時間でさえももどかしく、ジェノは半開きの扉に無理矢理体をねじ込むと、オペレーションルームの中央辺りで必死にコンピューターの操作をしているアヤメへと一目散に駆け寄った。


「アヤメさん! どう言う事すか!? ヴィオさんが居ないって……!?」


 相当急いで来たらしく、ジェノは肩で息をしながら険しい表情のアヤメへと詰め寄った。


「それが分からんねん! 大型種発生の速報の後、唐突に連絡取れんくなってん! 大型種との戦闘許可も降りてへんのに……っ!」


 アヤメはジェノに一瞥もくれないまま声を荒らげた。彼女も相当焦っている様だ。

 大型のオニとの戦闘はあまりにも危険すぎる為、原則として本部からの戦闘許可が無いと交戦してはいけない決まりになっている。もちろん大型種がエデンへと進行していたのであれば即座に許可は降りるが、今回の場合はそうでは無いのである。


『奴だけはどうしても……、どうしてもこの手で葬り去りたいのです……!』


 ジェノの脳内に、シルヴィオの怒気を孕んだ声が木霊して、彼はグッと唇を噛み締めた。


「クソッ! 何してんだよヴィオさん……っ!」


 オペレーションルームに、バンと思い切り机を叩く音と、ジェノの悲痛な叫びが響き渡った。


◈◈◈◈


 ――やっと見つけた。


 もっと、疾く、前へ。

 歯を食いしばって、力強く鎌の柄を握り締めて、風を切るように駆けていく。

 やっと、やっとなのだ。あの時から、どれだけ奴が現れるのを待ち侘びただろう。


「――ッ、おおおおおぉぉぉッッ!」


 怒りに任せて大地を蹴って、邪魔をしてくる小型を蹴散らして、腹の底から殺意に満ちた雄叫びを上げる。


 ――もう少しだけ、待っていて下さい。


 目を閉じて、最愛の人の姿を思い描く。


『こっちよ、シルバー!』


 こちらを振り返りながら満面の笑みを浮かべ、私を呼ぶ優しい声音が蘇った。

 夕日を浴びてキラキラと輝く金色の髪、いつでも喜びに満ちたガーネットの瞳、鈴の音の様な美しい笑い声。


「レイラ……ッッ!」


 私は一人、愛しきあの人の名を叫んだ。



「――なぁに? どうしたのシルバー、そんなに怖い顔して……」


 私の焦った声に名を呼ばれた彼女は、ゆっくりとした動作で振り返った。ここは自分達が住む町を一望出来る高台。彼女のお気に入りの場所であった。


「また貴女はこんな所に……あまり遅くまで外に居たら風邪を引きます。さぁ、家へ帰りましょう」


「まって、もう少しだけ!」


 私が「帰りましょう」と手を差し出せば、彼女は逆にその手を引いて「もう少し」と首を横に振る。肌寒くなってきたこの季節、私の手を引く華奢な手はとうに冷え切っていた。


「もう少しって一体何故……」


 彼女が頑固である事を知っている私は、すっかり困ってしまって思わず呟いた。一度こうなってしまえば、彼女は気が済むまでテコでも動かない。


「……あ、ほら見てシルバー! 始まったわ!」


 私の思考を遮るのは、興奮した様な彼女の声。慌てて、彼女が空いた手で指し示す方向へと顔を向ければ、


「――!」


 沈みゆく美しい黄金の夕日が、私の目に飛び込んで来た。その一瞬、町が金色こんじきに染まっていく。それはまるで、いつか彼女に「愛している」と告げられた時の花畑の様で――。


「ふふ、綺麗でしょう?」


 隣に立つ彼女は楽しそうに笑った。彼女の金の髪は、夕日を反射してより一層美しく輝いている。夕日に染まる彼女は、まさに価値ある一枚の絵の様であった。


「……えぇ、とても綺麗です――この景色も、貴女も」


 感極まったままそう返せば、ガーネットの瞳が見開かれた。彼女はぱちくりと瞬きを繰り返した後、こそばゆそうに笑い始めた。


「ねぇシルバー、愛しているわ」


 彼女は不意に嬉しそうに目を細めると、柔らかな声音でそう呟いた。


「……私も、愛していますよ。レイラ」


 お互いに見つめ合った私と彼女の間の距離は消え、しばらくしてからまた生まれる。それからどちらからとでもなく笑って、二人一緒に沈みゆく夕日へと手を伸ばした。



 熱さから逃れる為に、伸ばした腕を翳す。また近くで燃える炎の勢いが強くなった。あちこちで立ち昇る黒い煙、逃げ惑う人々の悲鳴や怒号。思い切り煙を吸ってしまった肺の痛みが、それらが現実である事を告げている。


「……っげほ、れい、ら……レイラ……っ!」


 呼んでも返事は無い。彼女は警報を聞いた途端、疾風の如く飛び出して、一人高台へと行ってしまったのだ。私は逃げ惑う人々の波に逆らいながら、必死にそこを目指した。



「――レイラっ!」


 ようやくその姿を見つけた私は駆け寄って、振り返る彼女を抱き締めた。


「シルバー……っ! 町が……!」


 彼女は私に縋り付きながら訴えた。下に広がる町へ視線を移せば、炎に包まれる町が目に入った。空は炎と煙で赤黒く染っている。


「レイラ、早く避難しましょう。ここに居ては危険だ」


「分かってる……だけど……!」


 私は彼女の肩を掴んで説得するが、彼女は簡単には頷かなかった。自分達に出来る事は何も無いと分かっている様だが、それでも心配そうに燃え盛る町を見つめ続けていた。


 不意に、彼女の瞳が絶望に見開かれた。


「――ッ! シルバー、危ないっ!」


 ドンと強い衝撃を受けて、私は尻もちを着いた。


「ッ、ぁああッッ――!」


 遅れて、彼女の絶叫。仰け反った彼女は血飛沫を撒き散らしながら私へと倒れ込んでくる。


「れい、ら……?」


 背中には大きな裂傷。彼女の金色の髪が、白いワンピースが、鮮血に染まっていく。彼女は呻きながら顔を上げると、苦痛に歪んだ表情のまま、


「……にげ……、て」


 とただ一言呟いた。彼女は力の入らない手で私の体を押す。突然の事に真っ白になってしまった私の頭は、ようやく彼女が視えざる者オニに襲われた事を理解した。


「――ッ! れいら、レイラ! しっかりして下さい、貴女を置いて逃げる事なんて出来ませんッ!」


 私は彼女の名を何度も呼びながら、彼女が私を庇った事を思い出した。恐らく彼女は最初からオニが視えていたのだ。


 ――どうして気付かなかったのだろう。


 心を焼く様な後悔が、雫となって頬を伝っていく。彼女は息も絶え絶えになりながら、繰り返し逃げてと呟いている。


「レイラッ! 目を開けてください! レイ――」


 不意に、まるで急に夜が訪れたかの様な錯覚に陥って息が詰まった。突如として辺りが暗く染まったのだ。


「――は」


 何事かと緩慢な動作で顔を上げれば、こちらを見下ろす無機質な瞳と目が合った。五メートルは優に超えているであろう狐のようなそれは目の前に座り、背後の炎に包まれる町を隠していた。それの強靭な爪の先には、鮮血と見覚えのある服の切れ端がこびり付いている。


「ぉ、に……」


 自然と口が動いていた。それは、今まで交わる事の無かった視線の筈だ。

 体中から汗が吹き出した。口の中が乾いて、ドクドクと心臓の鼓動が速まっていく。

 彼女はこれから逃げろと言っていたのだ。今すぐ彼女を抱えて走り出さなくてはいけない筈なのに、恐怖に支配された情けないこの足は一向に動かない。


 その瞬間、こちらを静かに見下ろしていたオニが飽きた様に前の足を振り上げた。

 

 ――もう逃げられない。


 そうさとった私は、腕の中の彼女を守る様に覆い被さった。


 歯を食いしばって覚悟する私の頭上で、キンと固い金属同士がぶつかる様な音が聞こえた。痛みも衝撃もやってこない。


「おい! 生きてるか!?」


 焦る様な男性の怒号に、私はハッと顔を上げる。私達とオニの間に、男性が一人。オニの強靭な爪は、男性の持つバスターブレードによって止められていた。


「チッ、急げお前ら! 怪我人が居る!」


 男性が何者かに指示を出しながらバスターブレードをグッと押し込めばミシリと音が鳴り、オニはギュワンと耳障りな声を発して飛びずさった。それは低い唸り声を上げながら、突如現れた男性を睥睨する。どうやら標的が移った様だ。お互いに吼えて、再びぶつかり合いが始まった。


「オーミーン隊士です! 怪我人をこちらに!」


 ただ呆然と男性とオニの攻防に釘付けになっていた私は、突然かけられた声に驚いて肩を震わせた。咄嗟に言葉の意味を理解出来ず、声をかけてきた少年隊士の顔を眺めていると、少年隊士は「そのままで大丈夫ですので」と私の腕の中に倒れ伏す彼女の手当を始めた。


「――っ、隊長、ダグラス隊長! 怪我人の血が止まりません!」


 しかし、少年隊士は依然止まることのない彼女の血を見て、青ざめたままオニと渡り合っている男性へと声をかけた。


「るせぇっ! 集中してやれ!」


 ダグラスと呼ばれた男性はこちらを一切見ずに怒号を飛ばす。少年隊士は泣きそうになりながら頷き、再び彼女の治療へと戻る。しかし、彼女の血はとめどなく流れ続けていた。



「――ぐ、ァァァッ!」


『ギュワァァァァァァンンッッ!』


 そんな中、男性の激痛にひび割れる絶叫と、ビリビリと大気を揺らすオニの咆哮が、不快な不協和音を奏でた。


「――! ダグラス隊長ッッ!」


 顔を上げた少年隊士が叫ぶ。

 私の目に飛び込んで来たのは、繋がっているはずの片足を失くした男性と、無機質な片目からとめどなく血を流す大きなオニの姿だった。

 遅れて落ちてきたのは、大きなバスターブレードと千切られた片足。片目を失ったオニは苛立った様に甲高い機械音で吠えると、こちらを一睨みして歪みの中へ消えていった。


「ぁ、ぐ……俺は、ぃ……ッ! そいつ、を……ッ!」


 男性が痛みに耐えつつ鋭く指示を飛ばした途端、ずしりと腕の中の彼女が重くなった様に感じた。先程彼女の体に繋がれたばかりの機械が悲鳴を上げている。


「隊長ッ! 駄目です、血が、血がぁっ!」


「っ! レイラ、レイラァッ!」


 少年隊士が騒ぐ横で、私は何度も彼女の名を呼んだ。彼女は私の言葉を遮る様に、震える手を私へと伸ばして、血にまみれた口を微笑みに染めた。


「――ごめ、ん……ね……ぁい、して……」


 突如彼女の体は鉛の様に重くなり、伸ばされていた手がパタリと落ちた。それ以上言葉の続きは紡がれず、彼女のガーネットの瞳は、二度と光を映すことは無かった。


「――ッッ! レイラッ、レイラッッ! レイラァァァァァァッッ!」


 燃え盛り、消えてゆく町の中に、魂を引き裂かれた様な絶叫が轟いた。

 彼女は、レイラはもう二度と目を開けない。

 私の時間は、その日を境にカチリと動きを止めてしまったのだ。



「――やっと、逢えましたね」


 刻み付けられた惨憺たる記憶から意識を浮上させれば、目の前には大きな影。何もかもが燃え尽き、煤けた世界の中で揺らいでいるのは、無機質な隻眼の眼光。


「――――」


 キュルキュルと甲高く不快な機械音が響いている。奴も私を認識した様だ。全身に走る回路が赤く染まり、奴は徐ろに立ち上がる。


「――――ッ!」


 瞬間、殺気と殺気がぶつかり合い、雄叫びと咆哮がビリビリと大気を振動させた。

 復讐鬼と鬼の戦いの火蓋は、今ここに切って落とされたのである。

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