第18話 ネット市民
普段なら会議室を真っ先に退出するイワンだったが、その日は大臣らが退出するのを見送り、秘書官のヨシフを呼んだ。彼は核兵器の発射ボタンの入ったスーツケースにチラッと目をやり、「御用ですか?」と直立不動の姿勢を取った。
「君は初代皇帝と同じ名前だったな。ご両親は君の誕生を喜び、大きな期待を抱いていたのに違いない」
「はい……」
彼の顔に困惑が浮かぶ。
「いや、君を困らせるつもりはない。今の困難な状況にあって、大フチン帝国建国時の皇帝の苦労に思い至ったよ」
「そういうことでしたか。ご心中、察し申し上げます」
彼が同情の意志を示す。その目元が娘のレナを思い出させた。
「ヨシフ、君は軍事作戦の状況をどう見ている?」
「私などは……」
彼が口ごもる。見解がないというのではなく、本音を語りたくないように見えた。
「とぼけるな。お前が軍と諜報部の報告書に目を通していることぐらい知っている。まさか、都合の悪い報告書をぬいたりしてはいないだろうな?」
「……とんでもございません」
「私を
――たとえレナの父親だとしてもだ。――そこの部分はのみこんだ。
「はい。私は忠誠を尽くしております。決して、大統領のミサイルを無駄にするようなことはございません」
ヨシフが、陶器のようなのっぺりした顔を下げた。
「ふむ。……レナはどうしている?」
「娘、ですか? 大統領がご心配することでは……」
彼の顔に笑みの陰が浮く。
足元を見られている。……イワンはそんな気がした。
「インフレがすすんでいるだろう。そのことでレナがどんな感想を持っているのか、若者なりの率直な思いを知りたいだけだ」
「そうでしたか。輸入品はほぼ3倍になっております。というより、品切れ状態といえるでしょう……」
ヨシフが自分で見聞きした首都トロイアの経済状況や、若者によるデモとその取り締まり状況を説明した。
イワンは、彼の言葉からトロイアの街の様子を頭の中で描いた。そうした想像力には自信があった。街の様子は、軍事行動を開始する前に比べれば混乱しているといえたが、大フチン帝国が分裂した時の混乱に比べればはるかに安定しており、市民は豊かで安全に暮らしている、と思えた。
にもかかわらず若者たちは、政府に、いや、私に不満があるらしい。……腹の底が熱くなるのを感じた。
「飢えることがない。着飾ることも出来れば、映画や遊園地で遊ぶこともできる。世の中は豊かになったと思うのだが、庶民は、それでは満足できないものらしい。国家の繁栄よりも己の欲望を優先する若者ばかりだ……」
イワンは苦いものが胃袋から逆流してくるのを感じた。
「……非国民、そう呼ぶにふさわしい者が増えたようだ。そんなことだから我が国は弱体化し、軍もユウケイごときに手こずるのだ。一旦、敵に攻め込まれたなら、畑は荒らされ農民は散り散りになり、国民は木の根を食み、泥水をすすらねばならない事態に陥るというのに……」
遠い昔、西部のブランディ皇帝やバトラー総統に
「そういえば……」
ヨシフがスマホを操作する。イワンは待った。
「……これです。昨日、ドミトリーがアップした動画です。ユウケイの英雄だとか……」
画面に映っているのは薄暗い病室のようだった。彼は30歳前後の細身の女性兵士を紹介していた。大統領府を襲った特殊部隊の戦闘ヘリを撃墜し、機関銃陣地を奪還したジャンヌダルクだという。
「あの国には、こんな女がいるのか……」
ドミトリーが得意げに話すのは面白くなかったが、その女性には何故か腹が立たなかった。――ユウケイ民主国に栄光あれ――最後の合唱には腹が立った。
前日、ユーリイに会って酷評されたことを思い出した。ユウケイへの軍事作戦の良否はともかく、世界戦略、とりわけ情報戦略で、フチン共和国は失敗しているというのだ。「……ネットの世界を見るに、ユウケイが見せるものは若々しい美女の姿だが、フチンのそれはしみだらけの老人の顔だ。強面の老人が己の権益を守るために杖を振り回し、スケボーや日光浴を楽しむ若者を追い散らしている。そんな姿だ。とてもネット界隈の共感を得ることはできないだろう」
その時、彼の言葉はイワンの心を打たなかった。しかし、今、ドミトリーが語るジャンヌダルクの物語を聞くと、ユーリイが伝えようとしていたことが僅かながら理解できた気がした。
「この動画、フチン国民も目にしているのか?」
「動画サイトは封鎖しましたが、メールなどで、一部の若者の間で広まっているようです」
自国の戦闘ヘリを撃ち落とし、特殊部隊を殺した者を称賛する動画。それに興味を示す国民がいることに怒りを覚えた。
「いつか、このジャンヌダルクを私の前に連れてこい。死体でもかまわん」
ヨシフに命じて、イワンは席を立った。
翌日、戦闘機の譲渡や飛行禁止区域の設置を要求するドミトリーと彼を支援する西部同盟を牽制するために、改めて声明を出した。……ドミトリーの望みに応じることは第三次世界大戦のトリガーになるだろう、と。フチンの地下資源の購入にはギルによる支払いが条件だ、と付け加えることも忘れなかった。
撮影時は、ドミトリーの動画を意識した。それで極力柔和に、かつ力強く話したつもりだが、確認した映像は相変わらずの仏頂面の自分だった。失望が心を過った。……今更どうしろというのだ。自分は自分だ。そう脳裏のユーリイに言葉を投げた。彼はこうも言った。「……インターネット上で多くの情報が飛び交う今、君が戦っているのは、ドミトリーではなく、世界中のネット市民だぞ」と……。
映像の出来栄えはともかく、発信しただけの成果はあった。翌日、ギルの暴落は止り、上昇に転じた。フチン共和国に経済制裁をかける国家は世界の半分ほどにすぎず、残りの多くの国々にフチンの地下資源が必要とされていたからだ。
『大統領の手腕、お見それいたしました。すべて、大統領がおっしゃった通りになっています』
エリーナからギル相場が回復した旨の電話があったのは、イワンがベッドに入ってからのことだった。
受話器を置く。感情が言葉になってあふれるのを抑えられなかった。
「ネット市民がなんだというのだ。所詮、仮想空間でのたわごとではないか。リアルはもっと血生臭いものなのだ」
自分は正しかった。ユーリイはネット市民などを恐れる臆病者だ。……高揚感の中で確信した。
「何かあったのですか?」
ソフィアがイワンの腰に手を回し、寝ぼけ眼で見上げていた。
「何でもない」
彼女の細い手首を握り、イワンはベッドにもぐりこんだ。柔らかく
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