第15話 旗をふる女神

 アテナは改めて、あの夜、非常階段で転倒して負傷した経緯を上官であるカールと仲間に報告した。


「ミサイルが使えたのか?」「フチンの特殊部隊とマジ、やりあったのか」「よく、その程度の怪我ですんだな」


 カールもミハイルもブロスも目を丸くした。


「……その怪我では、弾薬を運べそうにないな。ハンドルを握るわけにもいかない」


 目を細めるカールに、自分はやれる、部隊に戻してほしい、とアテナは詰め寄った。


「医者は、ひと月は安静にすべきだと話していたよ」


 突然、背後から声がした。振り返ると、軍服姿のドミトリーがいた。


「大統領……」


 皆、彼の姿に驚き、反射的に敬礼した。


「いや、私たちはユウケイ戦争を戦う同志だ。堅苦しい挨拶はいらない。君がカールだね。東部戦線での活躍、報告を受けているよ……」


 彼は、カールたちの日々の活動を賞賛した。


「……フチンに攻め込まれたのは、私の外交が未熟だったからなのだろう。そのために、多くの国民が犠牲になっている……」


 ドミトリーの瞳に暗い炎が燃えていた。


「……だが、後悔に打ちひしがれている場合ではないのだ。もちろん、降伏するわけにもいかない。100年前のように自由を奪われ、重税にあえぎ、収容所に送られるようなことがあってはならない。……命は大切なものだが、今は大事にしてくれとは言わない。それを犠牲にしても守らなければならないものがある。……停戦交渉を続けているが、イワンには、妥協する様子がない。南部の町はここよりひどい。敵に包囲され、市民が餓死に瀕している町もある。彼らを一刻も早く救うために、しばらく無茶な戦いも覚悟しなければならない。協力してほしい」


 彼の顔にはレイヤーがあって、決意と苦渋と自信が重なっているように見えた。


「まさか、餓死だなんて……」


 アテナは歴史の授業を思い出した。大フチン帝国に組み込まれた当初、穀物や家畜を収奪されたユウケイは、百万単位の餓死者を出した。実際、祖母の兄妹は、それが原因で幼くして亡くなっていた。同じことが繰り返されるのかと思うと背筋が凍る。唯一の救いは、進展していないとはいえ、停戦交渉が行われているという事実だった。


「それでカール君、君に頼みがある。アテナを私に貸してほしい。政府の広報に一役買ってもらうつもりだ」


 ドミトリーがカールとアテナの顔を交互に見た。


「大統領は軍の最高司令官です。大統領がお望みならば」


 カールは敬礼で答えたが、アテナは荷が重いと拒んだ。気持ちのどこかに職業軍人ではないという甘えがある。


「戦いには士気が重要だ。その点、国土と誇りを守らなければならない我が軍は侵略者に勝る。わかるね?」


 子供に向かって諭すようなドミトリー。アテナはうなずいて応じた。


「英雄の存在も重要だ……」


 彼の視線が墓地に向く。


「……死者ではない。生きた英雄が旗を振れば、その者が神に導かれる存在だと信じられたら、……人は直面する苦難を乗り越え、実力以上の力を発揮するだろう」


 ドミトリーの熱い視線がアテナの瞳をとらえていた。


 アテナの脳裏に、ドラクロワが描いた〝民衆を導く自由の女神〟が浮かんだ。もっとも、そこで描かれた半裸の女性は、人間ではなく、民衆が信じる女神に違いなかった。


 ドミトリーの理屈はよくわかった。熱意も十分感じたが、やはりアテナは、彼の申し出を受け入れる気持ちになれなかった。自分が英雄を演じるのは国民をだますことになるような気がするのだ。


「大統領のお気持ちはわかります。でも先日のことは偶然です。なので、国民を鼓舞する英雄なんて演じられません。それに、私は身体を使う現場が性にあっています。許していただけないでしょうか?」


 アテナは率直な気持ちを言った。


「君の気持ちはわかった。しかし、これだけは知っておくべきだ。戦場で偶然はない。全て君の実力だよ。それでだ……」


 本来なら最高司令官として命じることができるドミトリーが、怪我が治るまでという条件で譲歩した。アテナはそれを受け入れ、彼の広報活動に加わることにした。


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