第9話 嫉妬
イワンは水をかくのを止めて仰向けになり、暖かな水に身体を任せる。天井のガラスの向こう、低い空が白ばみ、渡る鳥の姿があった。
その日のスケジュールを考えた。ライス民主共和国の飼い犬のような小国の首脳との電話会談、フチンと西部同盟の両陣営の間でコウモリのような生き方をしている中東の首脳との会談、経済団体との電話会合……。どれも取るに足らない行事だった。
「大フチン帝国に栄光あれ」
宙に向かってつぶやくと身体をひねって水に潜った。プールの底を這うように進み、壁にぶつかってから真っすぐ浮き上がる。
「大統領、お早いのですね」
目の前に頰を赤く染めたレナの姿があった。
「やあ、おはよう。レナと過ごすと力がみなぎる。生まれ変わったようだよ」
水から勢いよく上がってから全裸だったことに気づいた。
「キャッ」
レナが小さな悲鳴を上げて顔をそむけた。
「どうした。昨夜、遊んだものだろう」
彼女をからかいながらバスタオルで身体をふいた。
「大統領、いじめないでください」
「いじめてなんていないさ。可愛い奴だな」
心底そう思っていた。そんな彼女から意外な話を聞いたのは二日後、ラコニアを離れる日の朝、ベッドの中でのことだった。
「私、結婚するのです」
レナの声を聞いたイワンは、夢を見ているのだと思った。
彼女の話は終わっていなかった。
「……3か月後に結婚します。それで、同行できるのは、今回が最後になります」
はっきり告げられて頭が冴えた。
「まさか……。いや、おめでとう。……で、誰と結婚するのだ?」
レナを自分のものだと思い込んでいたイワンは動揺していた。やっとの思いで祝いの言葉を述べ、婚約者を戦争の最前線に送り込もう、と思った。彼が戦死すれば、彼女は再び自分のものになるだろう。
「大統領の知らない男性です」
「教えてくれ。君のフィアンセに良い仕事を用意しよう」
情報を得るために、心にもないことを言った。
「今は陸軍にいます……」彼女は婚約者のアレクセイは徴兵され、ユウケイにいるはずだと話した。
「そうか。それは心配なことだな」
同情を示しながら、胸の内で笑った。
「アレクセイはミュージシャンなのです。仕事を用意していただく必要はありません。代わりに、大統領の力で彼を退役させ、帰国させていただけないでしょうか?」
彼女の恋心にはいじらしさを覚えた。が、フィアンセに対する怒りにも似た気持ちが勝った。それが嫉妬という原罪のひとつなのだろう。そんな風に冷静に考える自分もいた。
「ふむ、そうしよう」
無表情を装い、ベッドサイドの電話を取った。陸軍本部の将軍を呼び出し、婚約者の居所を確認するよう命じた。
アレクセイの居所がわかったら、1週間、最前線に送り出してやろう。それで生き残ったら帰国させよう。もっとも、その頃にはユウケイ民主国は降伏しているに違いない。私も悪人だな。……そう考えて胸の内で笑った。
「ありがとうございます。レナ、嬉しい」
彼女がその旅行で一番の笑顔を作った。
将軍から返事が届いたのは、車が空港に着いたときだった。VIPルームに入るとコーヒーを注文し、ひとりになって報告に耳を傾ける。
『申し上げにくいのですが……』
将軍の声は怯えているようだった。
「どうした? 何があった?」
『じ、実は……』彼の声が緊張を増す。『……アレクセイ君が所属する小隊は南部戦線で……』
彼はアレクセイを君付けで呼んだ。イワンにとって重要な人物だと誤解しているようだ。
「小隊がどうした? まさか、遊んでいるというのではないだろうな?」
『と、とんでもありません……』アレクセイが所属する小隊は全滅し、彼の遺体はまだ回収されていないということだった。
「そうか……」
弾けそうな喜びを隠さなければならなかった。小隊とはいえ、フチン軍の敗北の報告に喜びを感じたのは初めてだった。
『申し訳ありません……』
「いや、気にするな」
そう告げると、受話器の向こうの将軍はホッとした様子だった。
「今度君の声を聞く時は、勝利の報告だと信じているよ。三日以内だ」
そうプレッシャーをかけて電話を切った。
ヨシフを呼んだ。
「君の娘のフィアンセがいた小隊は全滅したらしい。遺体も見つかっていないそうだ」
微笑みそうになるのを必死でこらえ、難しい表情を作って話した。
「アレクセイが……」
ヨシフが目を白黒させ、出入り口に目をやった。その向こうにいる娘の姿を思ったのだろう。
「慰めてやるといい」
そう言って彼を返した。
――トントン――
ひかえめなノックの音がする。警備の親衛隊員が、ヨシフとレナが話したいと言っている、と告げた。
フィアンセを失い絶望の沼の底にいるレナが、これからも自分に仕えたいたいとでも言ってくるのだろう。そんなふうに想像して入室を許した。
ヨシフに続いて入ってきたレナは、目を真っ赤にしていた。が、その顔は絶望の沼の底にいる者のものではなかった。イワンの前に座り込み、膝にむしゃぶりつくようにして顔を見つめた。
「大統領、アレクセイは生きています!」
「……どういうことだ?」
つい先ほど話したことを否定されて驚いた。悲しみのあまり、彼女は気が触れてしまったのではないかと案じた。
「これを見てください」
彼女がスマホの動画を示した。
見知らぬ青年がひとり、画面に映らない誰かから追及を受けていた。
『なぜ、ここに来た?』
『僕は何も知らなかった。訓練だと言われて……』
彼は恐れ、ひどくおどおどしていた。その姿に彼がユウケイ民主国で捕虜になった自国の兵隊だとピンときた。
『どこから来た?』
『フチン共和国のトロイア』
「捕虜がぺらぺらと、敵のプロパガンダに利用されるとは……」
思わず唾を吐きかけそうになった。
『名前は? 年齢は?』
『アレクセイ、26歳』
「なんだと……」
イワンは絶句した。
「大統領、お願いです……」レナがアレクセイを救ってほしいと懇願する。
イワンが彼女やアレクセイに同情を覚えることはなかった。ただ、腹の底から怒りがわきあがる。慌てたヨシフが上半身を折って、家族の関係者が無様な姿をさらしたことを謝罪した。
「こんなものを国民に見せてはならない。すべてのSNSを遮断しろ。それだけでは甘い。西部同盟とライス各国のプロバイダーに電子戦を仕掛けて、インターネット内で平穏を
イワンは、ヨシフの後頭部に命じた。
「速やかに、指示いたします」
頭をあげたヨシフが飛び出していく。
レナは、イワンと父親の間で交わされた会話にどんな意味があるのか、理解していないようだった。
「大統領、アレクセイを……」
彼女の両手が、イワンの膝を強く握った。
イワンは、彼女の肩に手を添えた。
「彼が所属する小隊は全滅した。わが軍の将軍が報告してきたのだから間違いない。……レナは知らないだろうが、コンピューター技術によって、姿形も声までも、別人に見せかけるディープフェイクという技術がある。アレクセイのパーソナルデータをAIに学ばせ、役者が演じるものを、さもアレクセイがそうしているように偽装するのだ。君が今見ているものは全て、敵が作ったそうしたディープフェイク動画だよ」
「まさか……」
レナが、動画を再生して見直す。
「それは作りものなのだ。敵はフチンを、いや、私を動揺させようとして、そんな動画を作りインターネットにばらまいているのだ。悲しいだろうが、彼は死んだのだ。現実を受け入れなさい」
恋人が生きていると喜んだのはつかの間、一転、彼の死を受け入れるのは、奈落の底に落ちるような苦悩だろう。その表情には常人と異なる妖しい美しさがあった。
親衛隊員がやってきて、出発の準備ができたことを告げた。彼は、大統領の前で嘆き悲しむ佳人を怪しみ、視線をイワンに向けた。その美女を、排除すべきか問うように。
「さあ、飛行機の準備ができたようだ」
アレクセイをどうしたものか……。イワンは、そんなことを考えながら、レナの肩をそっと抱いて立ち上がらせた。
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