第8話 野望の炎

 ――大フチン帝国に栄光あれ――


 33歳のイワンが大使館に掲げられた国旗に向かって叫んでいた。胸の中には国家を引き裂こうとする国民への強い憤りがあった。


 大フチン帝国は、15の共和国で作る連邦国家だった。中心にあるのが軍事国家、フチン共和国で政治の中心だった。それぞれの共和国の首相は選挙で選ばれたが、帝国政府の承認が得られなければその椅子に座れない。そんなこともあって、帝国成立以来、各国の首相は、フチン共和国から派遣されたフチン人が担っていた。その仕組みは第二次世界大戦が終わっても同じだった。


 大学を卒業したイワンは国家防衛省治安局に就職し、そこでユーリイと知り合った。外交事務官として大使館に勤務するイワンをバックアップするのがユーリイの仕事だった。


 野心家のイワンに対して機械オタクのユーリイ。性格も好みも全く異なる2人だったが、だからこそ不足するものを補いあい、任務はすべてうまくいった。プライベートでも付き合うようになり、イワンはユーリイの妹のエリスを妻にした。若いエリスはとても献身的で申し分のない伴侶だった。


 そのころイワンの両親は、彼の仕送りがあって贅沢な暮らしをしていた。イワンがエリスを紹介すると、彼が陸軍学校に進んだことを自分たちの手柄のように自慢した。


 イワンがライス民主共和国にある大使館に赴任してまもなく、大フチン帝国が揺れた。共和国の多くの首相が私腹を肥やしており、それを帝国政府が黙認している、というメディアのスクープが起因だった。


 日々の生活に困窮していた労働者階級のストライキやデモが各国の都市を中心に頻発し、大衆に迎合する政治家たちはそれをあおり、暴徒と化した市民が政府機関や商店を襲うといった事態に発展したのだ。


 実際、首相に限らず大臣や行政機関の小役人まで、賄賂を取るようなことが日常化していた。軍事力の増強や宇宙開発のための増税もあり、国民の中に不満が溜まっていたのも事実だった。そうした状況を政治家はもちろん、役人や経済を牛耳る財閥のトップたちもよく知っていた。そして誰も、何もせずにいた。


 地方政府に対する国民の怒りはやがて帝国政府に向かい、各国の独立の機運が高まった。ほどなく6カ国が不意を突くようにして分離独立した。


 大フチン帝国は消滅し、フチン共和国と名前を改めた。そこに残った共和国は9カ国、経済規模は6割ほどに縮小した。そうした状況をイワンは、海の向こうの大国から苦々しい思いで見守るしかなかった。


 国家の分裂……。人類の長い歴史をかえりみれば珍しいことではないが、イワンにとっては一大事だった。その特異な事件に大フチン帝国は世界から嘲笑され、彼はそれを自分自身のこととして受け止め、心を痛めていた。そんな彼が異国で頼れるのはエリスだけだった。


「ユウケイが独立し、私と君の祖国は別々になってしまったよ……」


 ある夜、2人きり、バーボンを酌み交わしながら気持ちを吐露した。心細さと切なさに、泣いてしまいそうだった。


「私は気にしていませんよ。もともと別の共和国だったのですもの。でも、今度は里帰りするのにパスポートが必要なのね。困ったことだわ。面倒だもの」


 彼女は、イワンほど落ち込んでいなかった。それがイワンには面白くなかった。


「僕らの国が笑われているのだぞ。よくそんなに軽々しく語れるな」


「おきてしまったことを嘆いても仕方がないではありませんか。それより、これからどうするかが大切だと思いませんか?」


「それはそうだが……」


 どうしようもないと思った。今は、立っているだけでやっとの思いだ。


「別々になったのが悔しいのなら、再びひとつにして見せたらどうです」


 エリスが口角を上げていた。その瞳に、妖しい炎が燃えていた。それに魅せられ、イワンは気力を奮い立たせた。


 ――大フチン帝国に栄光あれ――


 その言葉を胸に刻み、イワンは職を辞した。


「イワン、全く無謀な奴だな。プライドなど捨てれば公務員としてやっていけただろうに」


 後部座席に座る軍の技術士官、ユーリイが笑った。祖国、フチン共和国に戻ったイワンはタクシーの運転手になっていた。


「私は夢を見たいのだ」


「夢?」


「私の力で嘲笑の的のフチンを世界の大国に戻してやる」


「政治家になるつもりか。……それがどうして、タクシードライバーなのだ?」


「町場の情報を集めるのはこれが一番さ。運が良ければ人脈も作ることができる」


「まさに夢のような話だな」


 ユーリイは笑ったが、その後は助力してくれた。彼に呼ばれてレストランやパブに車を回すと、乗客は行政庁や大企業の幹部、地方議員といった上客だった。


「ユーリイに聞いたよ。外交事務官だったんだって?」


 彼等は漫談やほら話を聞くように、運転手の身の上話に興味を示した。


「この国のためですよ……」イワンは、国際情勢やフチン共和国はどうあるべきか、政治家は国民に安全と希望を提供しなければならない、といったことを話した。そうしたことを論理的に、時には具体的な政策を交えて語り終えるころには、彼らは真顔でうなずいているといった具合だった。


 それだけではない。


 目的地に着いてイワンの話に聞きほれていた客が車を降りると、図ったように暴漢が現れた。帝国時代から汚職や不正入札、裏取引が恒常的なフチン共和国だ。彼等には襲われるだけの理由があった。


 普通のタクシー運転手なら、慌てて車を発進させただろう。イワンは違った。客に代わって暴漢を撃退した。


 帝国崩壊にともなって治安が悪化したとはいえ、タクシーを降りた途端に襲われることが続く偶然に驚いていたが、やがてそれがイワンの信用を高めるための、ユーリイの策略だと気づいた。


 暴漢から客を守ったイワンは命の恩人と感謝され、ホームパーティーに呼ばれたり、アイスホッケー観戦や観劇、ビリヤードやスキーに誘われたりすることが増えた。そこで普段はタクシーに乗らないような上流階級の知己を得た。


「君は志が高いようだね。しかも腕っ節も強い。君が言う通り、経済の発展には街の治安が良くなければならない。私が資金援助しよう。次の選挙に出てみないかね?」


 とあるパーティーで声をかけてきたのは、金融王といわれる老人だった。彼の求めに応じてトロイアの市長選挙に立候補。それまで築いた人脈を活用して市長に当選した。結局、タクシーの運転手をしていたのは1年にも満たない期間だった。


 市長就任パーティーにユーリイを招待したが、彼は来なかった。公の場では会わない方がいいというのが彼の意見だった。裏方に徹するつもりらしい。イワンは、彼の気持ちを尊重し、かつ、感謝した。


 市長は4年務めた。その間、警察の予算を増やして治安を改善し、教育予算を増やして大学進学率の向上に努めた。周囲からは再選の要望が多かったが、中央政府からの要請があって、大統領府の総務局次長に就任した。


「イワン、おめでとう。夢に一歩近づいたな」


 深夜のパブでユーリイがグラスを掲げた。


「ユーリイ、君のおかげだ。昨夜は大統領の椅子の夢を見たよ」


「ずいぶん、気が早いな」


「事務官を辞めて6年でここまできた。今度は5年だ。5年後の大統領選挙に打って出る。そのためには君の力が必要だ」


「俺にそんな力があるものか」


 ユーリイが笑った。


「あるさ。私がタクシーを運転していた頃のように……」


 イワンは、あの時のような演出ができれば、そしてそれを全国に知らしめることができれば、大統領の椅子に座るのも無理ではないと考えていた。


 ユーリイの顔から笑みが消えた。


「地獄に落ちても知らないぞ」


「かまわんさ。この国のためなら落ちてやる」


「そうか……」


 2人はグラスを掲げた。


 ――チン――


 澄んだ音が鳴る。


 ――大フチン帝国に栄光あれ――


 決意を声にした途端、イワンは目覚めた。寝心地の良いベッドの中にいた。


「夢か……」


 寝言を聞かれたのではないか?……隣のレナをうかがう。彼女の穏やかな寝息がした。


 ベッドを抜け出し、カーテンの隙間から外を見やった。夜明け前の空は灰色をしており、世界は静まり返っている。邸宅は親衛隊が守っていて、庭を巡回する隊員と犬の姿が見えた。


 階下に降りてプール室に入る。全裸になって飛び込んだ。勢いのままに100メートル泳いだ。


 まだやれる。……自信が蘇り、当初の目的を達成しよう、と決意を固めた。そのためなら核兵器の使用も躊躇うまい。あの時のように……。


 イワンが大統領府の総務局次長に就任した時、フチン共和国の体制に変わって6年が経過していたが、まだ政治は不安定で、内部の共和国の一部は独立しようという動きを見せていた。


 イワンは、それらの国々の独立阻止役を大統領に買って出た。簡単なことではないとわかっていたが、ユーリイなら何とかしてくれるという漠然とした安心感の上に座っていた。


 ユーリイと会ったのはトロイアのスポーツジムだった。イワンが隣国の独立阻止対策を話すとユーリイが苦笑した。


「首謀者を黙らせればいいとは、簡単に言ってくれるな……」


「厄介なのはチェルク共和国ぐらいだ。あそこは与党が一致して独立を主張している。他の2国は毒を飲ませるか金をつかませれば意見を変えるだろう」


「なるほど。情報分析は済んでいるようだな」


 2人はランニングマシンで肩を並べ、休日のキャンプの計画を立てるように打ち合わせた。


 その後の作戦はユーリイが実行した。彼はチェルク共和国内で反政府組織を結成してビルの爆破活動を展開、社会を混乱に陥れた。


 イワンは、チェルク共和国の首都にフチン共和国軍を入れて独立を先導する複数の大臣や議員を殺害し、テロの被害者に見せかけた。同時に反政府組織を制圧、実際それはユーリイとの出来レースで簡単だった。イワンは戒厳令を敷いて、親フチン共和国派の政権を樹立。チェルク共和国独立の機運をくじくことに成功した。


 他の2国は簡単だった。ユーリイが独立派の指導者をあぶりだし、国家防衛省治安局の息のかかった暗殺者の手で始末した。


 そうやって大統領の信頼を得たイワンは第1副首相に任命された。


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