第3話 図書館の妖精

 本が並ぶ。また並ぶ。隙間なく並ぶ。この空間を占領せしめているのは、およそ数拾万にも届き得る本の数々だ。管理人はいない。この整理整頓が行き届いていない、煩雑な空間に好奇心が駆り立てられるのは、何も私だけではないだろう。例えば、普段読書をしないような学友がここを訪れたとしよう。すると、たちまち彼らは読書を習慣とするようになるだろう。それだけの魅力が、この図書館には本以上に詰まっている。私が通う大学には、驚くべきことに、いや誇るべきことに膨大な蔵書を有していた。それを知ったのはつい最近のことではあるが、私は既に、この空間の虜となっていたのだ。北へ向かえば専門書、南へ向かえば郷土資料、はたまた西に向かうと雑学書。そして何より、東には小説の大海原が広がっている。いやしかし天晴だ。日本中の作品を一挙に集めでもしない限り、ここまでの量にはならないのではないか。私は心を弾ませながら、本と本の隙間を練り歩く。足一本分の通り道を転ばないよう慎重に進んでいくと、少しだけ開けた場所に出た。実を言うと、私は未だにこの図書館の構造を理解していないのだ。いま辿り着いたこの空間も勿論、新天地なのだ。この数多の物語でできた洞窟を攻略したものは、果たして存在するのだろうか。もしいないのだとしたら、私がその先駆者になろうではないか。まあ、そんな先のことなど後でゆっくりと珈琲でも飲みながら考えればいい。差し当たって考えなくてはいけないこと。それは本日、私が読むべき一冊だ。数拾万分の壱冊。そう考えると、自然と竦んでしまう。全てを読めるわけではない。これは単に時間という問題ではなく、この洞窟を洞窟として残していく必要があるからには、抜き出せない一冊なども存在してしまうのだ。私は兼ねてより、読んでみたい小説がこの洞窟の入り口付近に存在するのだが、それはこの空間の大黒柱であるのだ。大黒柱を腐らせてはならないのだから、腐らずにはいられない。読めないものは、読めないのだ。あまり気落ちをしていても仕方がないので、私は単なる問題の方の早期解決に動くことにした。周囲を見渡し、視界に入ってきたものを手に取る。『微睡』という名を持つこの小説、作者こそ知らない名前であるが、単純な真っ白い表紙に題名だけ書かれたその風貌に、私の琴線は大いに震えた。その堂々たるや、世間の風当たりなどは、どうでもよい――私がこれを書く理由は、読ませることに非ず。書くことにこそ、意味があるのだ。と、そう豪語しているかのようである。兎角、私はそれを持ち出し、外へ出た。

 

 入り口付近へ出ると、何やら本を見つめる男がいた。私の知らぬ男であったが、男は私を知っていた。

「やあ、お前さん。今日も本探しかい?」

 同じ学生なのだろうか。しかし、嫌に老けて見えるのだから疑わしい。何より、その風貌は甚兵衛に下駄ときた。時代錯誤も甚だしい。

「ええ、そちらも本探しかい?」

「いいや、俺は、もう既に此処等は読みつくした。」

「へえ、読めぬ蔵書もあるだろうに。如何様にして読んだというのだ?」

「ああ、それはな、こうなる前に読んだのさ」

 そう聞くと、自然、嫌な予感がする。

「もしかしてだが、この洞窟を作り上げたのは……」

「うむ、紛れもなくこの俺だ」

 …………。

 確かに、この蔵書でできた空間は、私の心を刺激するものである。いや、しかしだからと言って、読めない蔵書を作り出したこの男には何か一言、言ってやっても良いのではないだろうか。

「私の読みたい小説は、今ではそこで大黒柱の役割をしている!」

 そうして私は、その小説を指さす。遅れて男がそれを見る。見るや否や、にんまりと笑う。

「お前さん、この蔵書はね、こうして大黒柱として、この空間を支えている方が幸せなのだよ」

 …………。

「しかしまあ、読みたいというなら、抜き出せばいい。この洞窟を崩してまで読む価値は、これにはあるかもしれない」

「読んだ君からして、この小説は、崩すに値するかい?」

「言っただろうに。この空間を支えている方が幸せなのだと」

「つまらなかったのかい?」

「奢るんじゃあないぞ、お前さん。この世につまらない一冊など存在しない。作者の感性を受け取れないつまらない読者が存在するだけだ」

 この男は、どうやら面白い人間だ。

「私も、同じ考えだ」

「はは、お前さんとは仲良くできそうだ」

「しかし、ならば何故、この小説が柱であることを好としているんだ?」

「俺個人としては、お前さんにも是非、これを読んでほしい。が、しかしだな。同時にこの小説は、ここで大黒柱となっていたいと、そう言っているんだ」

「……つまり、物語を支える物語であると、そういうことかい?」

 そう言うと、男はまた、にんまりと笑う。

「ああ、お前さんはよく分かっている。感服だ」

「嫌に照れ臭いな」

 はは、と笑う男を横目に、その小説を見入る。

「で、お前さんは、こいつを読むのかい?」

 男が言う。

「いや、辞めておくよ。君の、元い、この小説の意思を汲みたい」

「ありがとう」

 そういった後に、男が私の手に持つ小説を見た。

「おう、お前さんが手に持っているそれ、その小説は面白い。直感で選んだのであれば、とりあえず正しい。今度、感想でも聞かせておくれよ」

 そう言うと、男は颯爽と図書館を後にした。名も知らぬ男ではあったが、同胞とも呼べるその男とは、もう暫く小説談義をしてみたかった。そんなことを考えながら、私も図書館の入り口まで出た。

 そうして、いま一度、後ろを振り返る。私が魅了されたこの洞窟は、一人の男が読み進めていった道程であったのだ。北へ向かえば専門書、南へ向かえば郷土資料、はたまた西に向かうと雑学書。そして何より、東には小説の大海原が広がっている。いったいどれほどの時間を、読書に当てたのだろうか、定かではない。風貌やその異常さから、うっかりすると二度と会えないんじゃあないかと思うような人物ではあったが、図書館から生まれた妖精ではない限り、いつかは会えるだろう。今度会った時は、色々な話を聞こう。

 私はそれを聞けることを、心から願った。

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