番外編 星の子
桜がやけに映えるような夕焼けの所為だろう。姿勢を崩すことなく目の前を歩いている彼女の背中がオレンジ色に包まれているのを見ると、どこか不思議な感覚に陥る。この世のものとは思えないような、陽だまりを見ているような。きっと、俺の背中を見たところで、他の誰の背中を見たところで、こんな感覚にはならないのだろう。彼女の名前は、確か。そうだ、笹田だ。下の名前まではさすがに憶えていないが、彼女はうちの高校ではそれなりに有名人だった。どうやら国内屈指のピアニストだとかなんだとか。俺はそこまで音楽に精通してはいないが、それでも国内屈指と聞けば、それだけで尊敬の念を抱くものだ。彼女の振りまく陽だまりを、数歩だけ後ろから拾い集めるように歩きながら、思考を巡らせる。彼女はいったいどこを目指して足を動かしているのか。木漏れ日の中を、道とも言えないような道を歩く。時折、小枝を踏みつけるようなパキッという軽快な音が、耳をかすめるばかりで、彼女は何も話そうとはしない。もちろん、これが何を目指しているのかなど知る由もないが、言われるままに後ろについて来ている自分がなんだかおかしく感じた。
「なあ、一体どこを目指しているんだ」
日が落ち、細道がより一層細く、狭くなったところで、俺はとうとう不安になって訪ねた。
「天文台」
ああ、そういう……。
声には出さないものの、俺は大方の事情を察した。どうやら彼女は、天文台に向かっているらしい。
「どうして俺を連れて」
「おかしなこと言わないでよ。天文台に行くのには、どうしたってあなたが必要でしょ?」
「……親の趣味だよ」
「すごいわね、趣味を仕事にできているなんて」
笹田が何処でその情報を知り得たかは分かりかねるが、確かに俺の母親は天文学者だった。今は何をしているのだろうか。この地を離れて、名前すらないような星々を転々としているのかもしれない。
「私はね、君に見つけてほしい星があるの」
「見つけてほしい星?」
「お父さんが死ぬ前に、私の名前の星があるって」
「へえ」
笹田の父親は、もうこの星にはいないのか。奇しくも俺の名前も、星からとられたものだった。
「興味なさそう……」
少しだけ不満そうな顔を見せる彼女を、少しだけかわいいと思った。
「ちがくて、名前知らないから」
しばらくの沈黙の後、彼女は応えた。
「あるは」
「……え」
「愛するの愛に、言葉の葉で愛葉」
俺は笑った。決して名前を馬鹿にしたとかではなく、俺の名前と全く同じだったからである。
有羽と書いて、あるはと読むのが俺の名前だ。
「俺と同じ名前だったのか」
「知ってるものかと思ってた」
「知らなかったよ、でも、その名前の由来は知ってるよ。多分俺と同じだから」
彼女は目を見開いた。説明を待っているかのような、そんな目で俺を見つめている。
「つまりさ、あるはってのは一等星のことなんだよ」
「どうして一等星が『あるは』なの?」
「一等星には別の言い方があって、それがα(アルファ)星」
そこまで言えば、彼女は察しがついたらしい。彼女は少しだけ微笑むと、空を見上げる。
辺りは既に暗くなり、街灯もない暗い森の頭上には、星々が輝いている。
「きれいな夜空ね、街中じゃ見られない」
「ああ、綺麗だ」
「私ね、今度のコンクールで、きらきら星変奏曲を弾くの」
「モーツァルトか?」
「そう、それで思い出したんだ。小学校の時、名前の由来を聞いたの。そしたら、夜空を見上げて一番輝いてた星から貰った名前だって、そう言ってたの」
「素敵じゃないか」
彼女は、また歩き出す。それに引っ張られるように、俺も歩き出す。
「ねえ、君はどの星だと思う?」
彼女の名前は一等星を指すものだった。それはこの空には、たくさんあってどれかひとつを指す言葉ではない。
「きっと、夜空を見上げて一番輝いている星なんじゃないかな」
そう言うと、彼女は笑っていた。
それから俺たちは、星のことを話した。ピアノのことを話した。親のことも話した。語るうちに夜は一層深くなり、春を彩る星々が、夜道を照らした。歩を進め、着いた先には、天文台は無かった。後々知ったが、数年前に取り壊されていたらしい。
それでも、星の子たちは草原に寝ころび夜空を見上げた。何日も、何日も。今日もまた、目的の星を探す。
きっともう、どれが一番輝いて見えるのかを俺たちは知っている。俺は横目でちらっと君を見るだけだし、君も何も言わない。言葉は誤解のもとだから。
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