第4話 にゃんにゃんにゃん

 吾輩は猫である。名前はつい先日、ある男に貰った。その男の名前を、吾輩は知らないし知る必要もないと思っている。猫にとって名前という概念は、それほど重要でないのだ。男が呼びたいように呼べばいいし、男が呼ばせたいように呼ばせればいい。兎にも角にも吾輩は男から「エスプレッソ」という名を貰った。どうやら吾輩の毛色が黒一色だったことから連想したらしい。吾輩はこの名前がそれなりに気に入っている。耳障りが何とも絶妙で、呼ばれれば素直に返答したくなるものだ。

 吾輩は飼い猫ではない。故に本日も拠点としている繁華街の路地裏に丸まってただ自堕落な時間を過ごしている。しかし、我々猫にとっては寝ることが仕事なのだ。それ以上にすることもない。全く自由過ぎるのも困ったものだ。一日が24時間というのはどうも長すぎる。吾輩は、しびれを切らして街に出た。こういう場合の行き先は決めてある。男が働いている喫茶店だ。

 店に着くと、開いたままの扉をするりと抜け店内に忍び込む。一歩足を踏み入れた途端、珈琲の香りが鼻を擽る。ここだけ時間の流れが遅く感じるような、とても落ち着く香りだ。吾輩はこの香りが好きだ。すこしだけ年季の入ったような机や椅子、フローリングに本棚の書物。少し薄暗くて、眠気すら誘う店内。どれをとっても吾輩好みのよき店なのだ。吾輩は慣れた足取りで店内最奥の小さな椅子を陣取ると、そこで初めて男がこちらに気が付く。

「なんだ、エスプレッソじゃないか。よくきたなあ」

 男は何とも頼りがいのないような、少しだけ臆病な、そんな男だ。何かにおびえているわけでもないだろうに、いつだって何処か自信のなさげなしゃべり方をする。しかし、それが全く不快でなく、どこか安心するのだから可笑しなものだ。吾輩は、ひとこえ鳴き返事をする。

「おお、エスプレッソちゃんは今日も来たのかい」

 白いひげを蓄えた、見るからに老人な男が奥から出てきて吾輩に話しかけてきた。この老人はいつになったら吾輩がオスだと気が付くのだろうか。いっそのこと、この男の顔面のまえで仁王立ちでもしてやろうか。

 ……いや、やめておこう。この老人のことだ。どれだけ策を講じようとも、吾輩が恥をかく結果に終わる気がする。

「エスプレッソちゃんって、この猫さんの名前ですか?」

 カウンターに座る女性が、自然な流れで会話に入った。吾輩の知らない顔だ。様子から察するに、男には馴染みの顔なのだろう。

「ええ、ついこの間、名前を付けたんです。野良なんですけど、この店によく入り浸っているので、名前で呼びたくなって」

 男は、いつもより数段へなへなした声で女の質問に応える。おいおい、鼻の下が伸び切っているではないか。猫である吾輩の眼にも明らかな顔の緩みを、この女が気づかないはずがない。きっと、男の気持ちにとっくに気が付いているのだろう。顔のしわが良く動く男とは対照的に、あまり感情を表に出さない女の方からは何も読み取れない。これは困ったものだ。我が名付け親は、このままでは恋半ばで枯れてしまうのではないか。いや吾輩に関係のある話ではないのだが、それでも見知った者の成功を願うのは、猫でなくても当たり前のことなのだ。御託を並べてはみたが、単純にこの男には幸せであってほしいのだ。吾輩の知っているこの男には、女には見えていない優しさや魅力があるのだ。どうにかして気づかせてやりたい。吾輩は話せない。文字もかけない。伝えることができない。吾輩が猫であることを痛感する。自由の象徴は、時間を持て余しはすれど、言葉一つしゃべれない。

 吾輩は沈黙した。隣で男の落ち着きのない話し声が聞こえるが、どこか背景の一部のように、まるで頭には入ってこなかった。女の返答は、どれも単調で、メトロノームを聞いている気分にさせた。老人は、男の手助けをするつもりはないらしい。先ほどから少し離れたところで、雑誌を読み耽っていた。できることも無いので、吾輩は今一度、目の前に座る女を観察してみることにした。人間の好みなんて知り得ないが、猫好みの整った容姿をしている。そう思うと、男が惚れるのも必然的にすら思えるものだ。肩ほどで綺麗に揃った髪の毛は、綺麗さの中に少しだけ幼さを感じさせ、頬が少しだけ赤らんでいるのが、幼さをより際立たせている。そして何よりも姿勢がいいのだ。彼女の座る姿勢は、牡丹の花を連想させる。凛々しい、という表現で上手いこと説明がいくだろう。さてさて、視線を少しだけずらす。男の方はどうだろう。容姿の程は、平凡も平凡。吾輩は普段の男の話す声が好きだ。だが、この女を前にして、この男あらず。先程から緊張の所為か、ゾウリムシの育成方法について論説している始末だ。誰が気になるというのだ。女の顔は、そろそろ引き攣り始めている。その顔を見て、吾輩はもう何も考えなくなった。

 

 その日の晩、男は項垂れていた。恐らくは冷静になればなるほど、昼間の自分が如何に異常だったのかを理解しているのだろう。

「なああ、エスプレッソぉ。私は、私はなんて馬鹿者なんだ」

 知るか、馬鹿者。と言いたい気持ちは山々だったが、それでも吾輩は男の頬を舐めてやった。自分で理解出来ているのなら、その時点で他の誰の言葉もこの男には響かないだろう。ましてや猫の撫で声など以ての外だ。しかし吾輩は、そこまで失敗には感じていなかった。帰り際、女は男に向かって、こう言ったのだ。

「また、逢いましょう」と。

 ゾウリムシの話が有効であったかは甚だ疑問ではあるが、女は最後に笑っていたのだ。感情が表に出にくい女が、笑っていたのだ。それで逢い引きが失敗などとは、吾輩は思わない。吾輩の出る幕は、どうやら無かったようだ。老人は恐らくそれに気がついていたのかもしれない。他人の出る幕では無いと。この男は、時間はかかるかもしれないが、それが牛の一歩でも、必ず彼女に近づいていくのだろう。吾輩の知るこの男は、そういう人間なのだ。

 あの女は、どういう人間なのだろう。帰り際、女は吾輩にも言葉を残していった。

「大丈夫よ、エスプレッソちゃん。彼の魅力はこういう所なのよ」と。

 猫である吾輩の思考までも、理解ができたというのだろうか。吾輩は、男の表情の出やすさを非難しておきながら、女の前でポーカーフェイスすら出来ていなかったらしい。いやはや、末恐ろしい人間だ。

 しかし吾輩は猫なのだ。男の恋路が上手くいっていると言うならば、猫である我輩には、もうどうでも良い。薄情だって?そんなことは無い。どう思おうが吾輩の自由であるし、猫は自由であるべきだ。自由であることを不自由に思うことなど、あってはならない。

 そうして私は、嘆く男を店に置き、我が寝床へと歩いていくのであった。

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