第12話 先輩の秘密

「――ごめん、今日はちょっと用事あるから無理。」

「あ、そうですか……。」


 そんなやり取りの後。


 先輩は私に背を向け、歩き去って行く。いつもみたいにちゃんと目も合わせてくれない。本当に忙しいらしい。


「…………?」


 彼の背中を見て、私は違和感を覚えた。

 結人先輩が歩いて行ったのは、一階に続く階段の方じゃなかった。特別室棟……放課後に用があるのは、廃部寸前の美術部くらいだ。美術の授業は予算不足で廃止されたし、めったに使わないからどの部屋も埃まみれだ。……放課後なんて、特に人気が無い。


 ――後は、図書室、とか。


 ……………………………いや、疑ってるわけじゃない。


 ……でも、ちょっと気になる。


 いや、疑ってなんか、ない。

 

 疑っちゃ、駄目だ。


 でも、でも――


 ちょっとだけ、恐いことを、思い出してしまう。


 ――どうしよう、どうしよう、もし…………。


 また、私は「失敗」しているんじゃないか――そんな恐怖の影が襲ってくる。


 ――別について行っても、悪く無い、よね。自分の気持ちを、落ち着けるだけ。

 

 私は自分に言い聞かせながら、先輩の尾行を決意する。


 ――大丈夫。あの時とは違う。先輩は信頼できる、絶対……絶対?

 

 まだ付き合い始めたばっかりなのに?なんでそんなこと言えるの?私が先輩の何を知ってるって――


 私は頭の中に浮かんでくる反論を振り払った。


 一本道で吹き抜けの廊下を渡ると、すぐ右手に階段がある。


 私は先輩の姿が階段の上に消えるのを見てから、できるだけ静かに廊下を駆け抜けた。一つ上までしか階はないから、どこに行ったかわからなくなることはない。この校舎は四階建てで、さっきまでいたのが三階、私たち二年生の教室がある階だ。


 階段から一番近くにあるのは美術室だ……開いていない。カーテンが閉まっていて中は見えない。物音もない。


 その代わり、隣の部屋からは人の話し声が聞こえた――図書室!

 入り口は閉まっていた。

 でも隙間が開いている。そして人の声が聞こえる――私は背筋が凍った。


 ……両方とも、男の人の声だった。


 ひとまず安心している自分がいた。

 そして直後に、疑ってしまった自分を嫌悪する……でも、今度はただの好奇心で、何気なく覗いてみた。


 先輩は、司書の先生と話していた。先生は銀髪で、黒ぶちの眼鏡をかけている。

 目立たないけれど、図書室はちゃんと運営していたらしい。


 ――あれ?私あの人と会ったことあるか。でも、いつだっけ……。


「――そういえば、小山君は元気かい?もうすぐ招待するんだろ?」

「元気?ああうん。元気だろうな。知り合いの家に泊まってるって。……親ももう、あいつのこと忘れてるんだろ。」

「そっか。薄情だねぇ、親って奴は本当に。」

「……ほんとにな。まあこの場合しょうがねえけどな。」


 先輩が皮肉気に言いながら、カウンターに両手をつく。

 司書さんは優雅に足を組みながら回転椅子を回す。一挙手一投足がやたらと美しい。


「あとそれからさ――叶多ちゃんは、新しいお友達なのかい?」

「違う。」


先輩が突然不機嫌そうに言う。私は急に自分の名前が出てきて、なんとなく緊張する。


「じゃあ、花嫁候補か。」


司書さんは微笑みながら言う。


「……うん。」


 ――え、『花嫁』って言われて肯定した!?

 そこまで考えてくれてるってこと!?


 私は鼓動が高鳴るのを感じた。


 今の発言は、そう言うこととしか捉えようがない。


 ——え……え!?えぇ!?


 私はさっきまでの自分がすごく恥ずかしくなった。先輩は……一途、どころの話じゃなかった。


 ――花嫁って、そんな……。


 目頭が熱くなってくる。


 それほど多くを望むつもりはなかった。両想いだった、ってだけで奇跡みたいだと思ったし、この関係がいつまで続けられるかとか、考えていなかった――真剣に考えるのが、怖かった部分もある。それなのに……。


 ――やばい。ほんとに結婚、できたりして……。


 思いがけず聞いてしまったから、頭が追い付かない。


「へえ~……。で、僕たちのお友達にもなってくれるんだよね?」

「…………それは、その……もうちょっと時間がかかるって言うか。夜遊びとかしないタイプみたいだし……。」

「あ、そう。ほんとにうまく行くの?」


 そう言えばこの人、確か先輩の遊び友達とかだっけ。……学校の教員がこんなのでいいんだろうか。


「……なんとかするから。来月には乾杯する予定だから。」


 ――え?『乾杯』って何?一緒にお酒飲むってこと?


 別に、年齢制限を破ることに抵抗はない。と言うか普通にうれしい。先輩は私のために、いろいろプランを立ててくれているらしかった……ただ、ここで聞いちゃいけなかった気がする。


 私はそろそろ立ち去ろうと思った。


 ……でも、つい聞きたくなってしまう。先輩が私に見せない内心が、もっとわかるかもしれない。そう思って。


「——今度こそ、うまく行くと良いね。」

「……ああ。」


先輩の返事が、なんだか暗い。


「あの二人みたいにならないと良いね?」

「…………っ!」


 先輩が苦しそうな顔をする。


「ああごめん、思い出したくなかった……?ハハッ、恋人って難しいねぇ。」

「あいつらは!恋人なんかじゃなかった!」


結人先輩は突然叫んでカウンターに手をついた。


「ああ、そっか。ごめんよ……そりゃそうだよね。彼女たちは君のことを裏切ったんだから。」

「俺は本気だった!向こうも受け入れてくれてるって思ったのに……あいつらはマジで最悪だったんだ、性根が腐ってるクズだったんだ!思い出させんな!」


 先輩は司書さんに詰め寄るように言う。


 ――『恋人なんかじゃなかった』、って……。


 ……だから、私が初めてだって言ったんだろうか。


 その二人との間には、何か……無かったことにしたいことがあったんだろうか。


 私はもはや、その場から離れる訳にはいかなくなった。


「あーわかったわかった……だよね。先に彼女たちが君を裏切った。だから脱落しちゃったんだ。仕方ないよね。」


司書さんの言い方は、なだめているようでありながら、少し皮肉っぽかった。

 

 ――何だろうこの人、面倒見は良さそうなのに、少し、毒も強い感じがする。


「そうだよ、俺が捨てたんじゃない……なのに更紗の奴、最後に『見捨てないで』とか……!何なんだよ、もう……どうすればよかったんだよ!」

「まあまあ、落ち着いて……大丈夫、君は悪くないんだから。……君はただ、自分の願う幸せを求め続ければいいんだよ。」


司書さんは優しく先輩をなだめる。


 少しの間の沈黙を経て、先輩は顔を上げた。


「……先生。……俺さ、最近……少しだけど、さ、不安になるんだ。」

「何が?」

「……本当に俺、幸せになれるのかな、って。……また、裏切られるんじゃないかって——」


 私は息をのんだ。



 ――そっか。結人先輩も、怖かったんだ。


 私と、同じように。


 過去に恋愛に失敗した経験があって、それを頑張って忘れようとしていたのだ。


 それでも、不安から逃れきれなかったんだろう。


 それは、私との接し方にも時々現れていた。


 ある時はものすごく迫ってくるのに、次の瞬間には迷うように離れて行ってしまう————恐かったんだ、拒絶されるのが。


 どう接したらいいか、わからないでいるんだ。


 その恐怖は、私には痛いくらいわかった。


 しかも、二人連続なんて……いや、しかも匂色先輩もいるのだった。


「そんなことないよ。大丈夫、努力すれば必ず報われる……まあ確かに、難しいことは多いだろ

うけれどね。欲しいのがお金とかものとかじゃなくて、『愛』っていうのはさ。」

「『愛』ってのはありふれた言葉だけどさ……正直、ほとんどの人がその実在を心底信じてなんかいやしない。」

「君みたいな純情な子は少ないよ、本当に……でも、だからと言って不可能じゃない。この世界には許されない願いなんてないんだから。」


司書さんはなんだか難しいことを言う。


「……ああ、そうだよな。————たとえ世界中が後ろ指を指しても知ったことじゃない。俺自身が証明してやるんだ——恋は無価値な欲望なんかじゃないって。」


先輩が決意のこもった表情で言う。


「先生、俺、やってみせるよ――叶多を愛しきって、二人で幸せになって見せる。」

「おぉいおい、気障だなぁ……ハハハッ!」

「はぁ?」

「いやごめんって……応援してるよ。」


「……………………!」


 私は絶句していた。

 キュンキュンしすぎて、心臓が破れそうだった。


 ――完全に、プロポーズのセリフじゃん……。


 やっぱり、今聞かない方がよかったかもしれない……でも、聞けて良かった。


 ――いつかもう一度、面と向かって言ってもらえたらいいな。


 私は我に返って、こっそり退散することにした。


 ……だからその後、図書室の後方にいた司が、二人に話しかけたことにも気づかなかった。

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