第7話 「司君が救ってくれるんだから」
――けっきょく、聞けなかった……。
『――叶多のこと、守れなくなっちゃうからさ。』
あの言葉は、どういう意味だったんだろう。司は私のことを、守ってくれるって言うのだろうか……何から?
私は一人きりの帰り道でつらつらと考える。その日は部活の練習もなかったので、さっさと家に帰ってごろごろしようと思っていた。
司は先に帰ってしまったらしい。結局、登下校の件は結論が出ていない。
――まさか、先輩に嫉妬してるの?……なんて。『叶多を守るのは、僕の役目だ。誰にも渡さない』、みたいな……。
いや、その考えはさすがにうぬぼれが過ぎる。私は頭を振った。司がそんなこと思う訳ない。
きっとまた何か、食い違いがあるんだろう。
何か、ずっと前に私が言った「お願い」を真に受けて律義に守り続けてるとか――
「————あ。」
――あった。私の「お願い」。
私と司の、「約束」――
『何があっても絶対、僕が叶多のこと守るから――約束する。』
「あの時の……。」
私はぐっと唇を噛んだ。
そしてごくり、とのどを鳴らす。
何かを、飲み込もうとするように。
思い出すな。感じるな――その感情に、溺れるな。
今さら、どうでもいいんだ。くだらないことなんだから。今となってはもう、無意味なんだから。
……そう、なのに司は、私が司のことを拒絶しても、ずっと今でも――
「……っ!」
――考えちゃ、駄目。
私はゆっくりと深呼吸する。
そして、自分に言い聞かせる。
――私は、悪くない。
まだ何かを飲み込み切れていない感じがして、口に出してもう一度言った。
「…………私は、悪くない。」
…………私は落ち着いてもう一度考えをさかのぼる。そう、問題は登下校のことだった。
――そう、登下校は先輩と一緒にしたいなって思ったから……。
ちなみに今日は、先輩はサッカー部の練習があった。お互い、毎日時間が合う訳じゃない。一週間のうち、何回くらいだろうか、なんて考えながら歩く。
――部活と言えば、今週も匂色(にいろ)先輩来てないな。最近ずっと来てない。どうしたんだろう。
匂色つぼみ先輩。文武両道、眉目秀麗(綺麗っていう意味だったはず、たぶん)。女バレが去年躍進したのは六割くらいあの人のおかげ、というぐらい強いし、リーダーシップもあるし、誰よりも努力家だ……やりすぎなんじゃないかってくらい。どこかの幼馴染みたいだった。
教訓垂れるのが大好きな顧問も、あの人を見習えとはさすがに言わない。しかも進路希望は医学部だと言う噂だ。……ますます遠い存在に感じる。
性格も、良い。おしとやかだし、すごく優しい。でもいつも意見がはっきりしてて、きびきびしてて、怒るとめちゃくちゃ怖い——怒鳴るんじゃなくて、静かに怒るのだ。本人はそういう時、たいてい「怒ってない」って言う(だから余計恐い)。
後、軽々しく労ったり、気を使って「休んでください。」とか言うのはタブーだ。先輩にとってそれは軽く見られているのと同じことだ。プライドも高い。
まあそんなところもあるけど、基本的に優しくていい人。つまり、外身も中身も最高なので、当然モテる。
なんだか、そういう『よくできた』人たちを毎日見ていると、時々自分がみじめに感じる……とか思ってたら、また「呼んだ?」とばかりに目の前に現れたのは、
「……司?何してるの?」
そろそろと不審者みたいに歩く司だった。
「尾行だよ。」
「尾行!?」
思いっきり不審者と言うか、犯罪者だった。
その視線の先にいるのは――
「……あかねちゃん、だっけ?」
「うん。家、どこにあるか調べようと思って。」
司は真顔で言う。
「……え?な、なんで?」
「最初に会った時から痣が多いから気になってたんだけど。今朝見たらもっとひどくなってたから。」
「えっと、それって……虐待とか?」
思わず聞いてしまい後悔した。
「うん。袖の中とか、お腹とかまで痣だらけだったから、たぶんそうだと思う……お父さんによく叩かれてるって言ってたし。」
――だからって、尾行するのはさすがに……。
「……そ、そういうのってさ、児童相談所とかに任せたらいいんじゃない?」
私は無駄だと思いつつ提案する。
「連絡したけど、駄目だった。」
「え。」
「あの子、どこに住んでるかわかんないんだよね。いつも全然違うところで会うから、昼間は、町の中だったらどこでも歩き回ってるんだと思う。『目障りだから出てけ』って言われるんだって……。相談所にそう伝えたら、『どこの誰かもわからないし、確証もないから何もできない』って言われちゃってさ……。」
それもそうだろう。市内だけでも虐待の「疑惑」だけの報告なんてたくさんあるに決まっている。
私はお父さんの言葉を思い出す。雨宮県、特にこの辺りは最近治安があまりよくないから、虐待とか些末な問題まで、行政が気を遣う余裕がない、とからしい。
とは言っても私たちは引っ越すつもりはない。勤め先が近いから仕方ない。
治安が悪いとか言っても、ごく一部のエリアだけだ。そういうところにうっかり入ったりしなければ――いわゆる町の「裏側」に入らなければ、基本的に安心して暮らせる、てこと——そう、首さえ突っ込まなきゃ。
「でも、尾行ってそれ、ストーカーじゃん。本人に住所聞けばいいのに。」
「自分の家の住所、知らないんだって。そもそも『住所』って言葉の意味も知らなかったし。せめて行き方を聞こうとか思ったんだけど、全然教えてくれなくて……お母さんに『知らない人にお家を教えちゃダメ』って言われたって。」
「で、でもさ、人の家の事情だよ?どうしようもないじゃん。その、ご両親が違うって言うかもしれないし。……もし違ったらさ、失礼だよ?ね?」
私はなおも食い下がって止めようとする。さっさと聞かなかったことにして帰ればいいのに。私も私だ。
そうして話している間に、一緒にかなりの距離を歩いてしまった。
こうしてまた、司のペースに呑まれていく。
――ああ、なんで気にかけちゃうんだろう。
心配だから?――いや、ちがう。
司がこうやって余計なことをして人を助けようとしてるのを見ると、すごく――いらいらするのだ。
その考えを否定せずには、いられない。
こんなのやめさせないと。そうしないと――そうしないと、どうなるって?
……知らない。とにかく私はこういう時、見ていられないと思いながら、結局ついて行ってしまう。絶対にそんなはずないってわかっているのに、司が諦めるのを期待して。
「……はぁ。」
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とりあえず、周りの人に怪しまれて何か言われたら、適当に言い訳しないとな……なんて思っていたけど、そんな必要はなかった。だって道中、人とすれ違うことは一度もなかったから。
司は何度も見知らぬ角を曲がって、ずんずん進んでいく。
「ちょっと、どこまで行くの?」
「さあ、どこまでだろう……ていうか、叶多はもう帰っていいよ。」
「いや……司だって、もういいんじゃないの?」
「駄目。今のあかねちゃんを助けられるのは僕しかいないんだから。」
「…………。」
――また、その言い方……!
私はあのことを思い出してイラっとした。
二十分くらい歩いただろうか。
やけに日当たりの悪い通りにたどり着いた。錆びれたテナントビルばっかりが立ち並んでて、どこからか変なにおいがする。十メートルくらい先のあかねちゃんは、とぼとぼと重い足を引きずるようにして、一つの建物に入っていった。
小さくて、錆びだらけで赤茶けてて、今にも崩れそうな、遺跡みたいなアパート。
――もしかしなくても、ここ――もう若干、「裏側」よりなんじゃない?
そう気づいたときには、もう遅かった。
携帯で位置情報を確認する司。
「住所……メモしてるの?」
「うん。」
「じゃあ、もう帰ろうよ。」
「ううん、まだ様子見る。」
「え、で……でもこの場所、なんか雰囲気怪しいし、危なそうだって。わ、私、帰りたいけど、一人じゃ帰れないし。……スマホは持ってるけど……もう暗いし、何があるか、わかんないでしょ。」
「え……ついてこなければよかったのに。」
司のあきれた顔を見て、私はムカッとした。
――しょうがないでしょ!
「……わかった。一緒に帰ろう。――大丈夫。僕が守るから。」
「…………。」
またその言葉が、不意に放たれた。
なんと答えればいいかわからない。ひとまず私は自分の無表情がいつも通りであることを確認した。その時――
ガーンッ! と、アパートの中から何かがぶつかる音が響く。
その音が発されたのはまさにたった今、あかねちゃんが入った部屋だった。
続けて、男の人が怒鳴る声。
「俺の視界に入るんじゃねえ!」
遅れて聞こえてきたのは子供の泣き声。それに続いて今度は女の人の金切り声が聞こえる。その後は訳の分からない怒鳴り合いが続く。
――ヤバいヤバいヤバい――これ、ガチの奴じゃん!
部屋の壁が薄いからか、一部始終が筒抜けだった。
――い、いつも、こんななの?周りに住んでいる人はどう思ってるんだろう。と、そんな私の
心の声を聞いたかのように、その部屋の階下から別の声がする。
「おい、うるせえぞ!!いい加減にしろ!!!」
それに対して、さっきの男の人が怒鳴り返す。
「――黙ってろハゲ!ひとん家の事情に口出すんじゃねえっ!」
「身内の喧嘩ならよそに迷惑かけんなってんだよっ!いっつもうるせえって言ってるだろ、ああんっ!?よそでやれよそで!」
「よそでやれだあ……!?ここは俺の家だぞ!こんなゴミ溜めみてえな場所だけどよぉ、むしろ俺は我慢して住んでやってんだよ!ああ!?そっちこそ黙ってろや!」
「ああっ!?勝手なこと言いやがって!ふざけんじゃねえぞてめえ!……そういうことならてめえ、こっちももう我慢の限界だっての……表出ろや!」
一階の一室の扉が叩きつけるように開かれ、外に飛び出したのは、ランニング姿の禿おやじだった。かなり痩せてるのに、お腹だけがポッコリ突き出している……目つきが怖いし、生理的にも無理なタイプだった。
私は反射的に、電柱の陰に身を隠す。
その私を庇うように同じく身を寄せる司。
――え、ちょっ、近い……。
司の整った顔がすぐそばにある。シャンプーの匂いが鼻孔をくすぐる。私の心拍数が若干上がった。
幸い周囲は日暮れで大分暗くなってきたところだし、結構離れているから、そこのおじさんには見られてなかった。
「ああいいよ!後で謝っても許してやらねぇからな!?喧嘩売ったのはそっちなんだからよぉ!」
何だかとんでもないことになっていた。
二階からはまた女の人と言い合う声と、物がぶつかる音が何度かして、男の人が部屋から出てきた……こちらも見た目は最悪だった。ハゲで目つきが悪くてものすごく太っている。ひげは伸び放題。憎々しげに嚙みしめられた歯は真っ黄色で虫歯だらけだった。黒い革製の上着は高そうな割に黄ばんでてボロボロ。クリーニングもしてなさそう。おなかが窮屈らしく、はだけた上着の内側から、これまた黄ばんだ肌着に包まれたお腹が突き出している。明るいところで見たら吐いていたかもしれない。離れた距離からでも、その汚臭を直接嗅いだような気がして気持ちが悪くなった。
――でも、目の前の司の匂いで中和されてるから……って、全然よくないし!何、この状況!?
とりあえず色々と危険なのは確かだった。
「――まずいよな。」
司が深刻そうにそう呟いて、私から体を少し離す。でもそれは、私と密着してることを言っているんじゃなかった。彼の目線はあくまであの汚いおっさんたちに向いたまま。私にはすぐに、司があの二人のけんかを止めようとしてるのがわかった。
――さすがに無理だって!
と、口に出して言うこともできずに固まっていると、司が耳元でささやいてくる――
「――叶多、やっぱり先に帰ってて。」
司の吐息が耳にかかってぞわぞわした。
「……っ!え、え、ちょっと待って――」
そうしている間に、二人の汚い男たちは顔を合わせて言い合いを始めた。そして当然のごとく、すぐに殴り合いになる。先に殴りかかったのは痩せている方だった。意外にも筋力はあるらしく、結構痛そうな音がした。
――ヤバっ、やっちゃったし……。
デブ男は不意打ちされたことに驚きながらも、すぐに奇声を発しながら反撃した。もう一人の男はうめき声をあげる。こっちのパンチのほうがやっぱり重かったらしい。
「――っ!ちょっと!そこの二人!」
司が電柱の陰から飛び出していった。
――ああもう、どうしたらいいの!
そう思った時。
「――司君、こんなところで何をしているのかな?」
背後から、よく通る男性の声が聞こえてきた。
「……あれ、途ヶ吉先生?」
司がその名前を呼ぶ。
――途ケ吉って……あ、例の司書の人か――うわ、ほんとに銀髪だ。
そういえば、私も遊園地で見た気がする。今日はあの黒いタートルネックの上に、白いトレンチコートを着ていた……どっちにせよ季節を完全に無視している。
「あらら、揉め事みたいだね~。これは大変。……よし司君、後は僕に任せて。愛本君も、しばらく待っててね。」
途ケ吉さんは、当然のように言ってのけた。
――え……?任せ…………え?
「大丈夫。あの人は僕の知り合いでさ。話せばどうにかなるよ。」
そう言いながら私たちのそばを過ぎ去る途ヶ吉さん。
そもそも途ケ吉さんは何でこんなところにいるのか――そんな私の疑問をよそに、彼は軽い足取りで歩いて行き、デブ男に声をかけた。
「やあこんばんは、川上さん――ひさしぶり。お取込み中すみませんねぇ。」
「……!?あんた、は……。」
デブ男はひどく動揺した声を上げる。
「実は今そこに、僕の可愛い生徒たちがいてさぁ。あんまり過激な場面は見せたくないんだ——教育上よろしくないからね。」
私たちのことにわざわざ触れる必要があったのかどうかはわからないけれど、途ケ吉さんは見事にデブ男を黙らせ、更にまだ「邪魔するんじゃねえ」と喚いているランニング男もなだめすかす。そしてそのまま、穏やかに二人のおっさん達と会話し始めた。でも、その二人の顔は笑っていなかった。むしろ気のせいか、少しビビっているようにも見える。
……そして二分後。ところどころ何を言ってるのかわからなかったけど、彼はあっという間に喧嘩を仲裁してしまった。
「――ああ、お待たせ。もう帰っていいよ。僕はちょっとこの人と、話したいことがあるから。」
「あの……。」
「あかねちゃんのことだろう?大丈夫――それももう解決するよ。」
途ケ吉先生は目を細めて笑う。
言わなくても司が何の心配をしているかわかったらしい。
「……先生、ありがとう。やっぱり先生はすごいね。」
「どういたしまして――じゃあね司君、また明日。」
「うん、バイバイ!」
途ヶ吉さんは上品な笑みを浮かべ、私たちに手を振った。外套の白い光の下で、良く映える笑顔だった――今更だけど、相当イケメンだった。なのになぜか私は、全く感じるものが無かった。恋人ができると、割とそんなものなのかもしれない。
ふと私は、お礼を言わなきゃいけないことに気づいた。ひょっとしたら危ない目に合ってたかもしれないんだから。
「あの……あ、ありがとうございます。」
とは言っても、当のデブ男の前で『助けてくれて……』って続けるわけにもいかず、何に対するお礼かよくわからなくなった。
「どうも。何、そんなに大げさなことじゃないよ――君は何も心配せずに生きていくと言い。君がピンチの時はいつだって、司君が救ってくれるんだから。」
「……え?」
私たちを茶化しているんだろうか――そう言う訳ではなさそうだった。先生の目つきからは、感情が読み取れない……でもなんだか、笑顔とかみ合っていない気がした。
「じゃあね、二人とも!……ああ、愛本くんもたまには本を読んでね。」
――本……?あ、そっか。司書さんだもんな。
確かに、最近あんまり本読まないな。私の部屋の棚には、何となく捨てられないでいる恋愛小説が、埃を被って並んでいたけど。
私と司は並んで歩き始める。
ちらっと振り返ると、途ケ吉さんはまだ私たちのことを見送っていた。にこやかすぎて、なんとなく、視線を合わせることに抵抗を感じる。
「……ねえ、司。」
「ん?」
私は興味本位で聞いてみた。
「途ヶ吉さんとは、仲いいの?」
「うん。だってもう累計で5年以上だしね。」
「……累計?」
――近所に住んでるとかかな?
「……叶多は覚えてないんだね。」
司は困惑している私の様子を見て、苦笑する。
「え?覚えてって……私も会ったことあるってこと?」
「うん。だって、ほら。途ヶ吉先生は僕たちの————じゃん。」
「……ふーん。」
――そういえばそうだったかな。
その後は、二人ともしばらく無言で歩いた。
………………………………。
――話す話題がなくなると、気まずいな。えーっ、と……。
途ヶ吉先生が……なんだっけ。まあいいか。
私は考えるのがめんどくさくなってやめた。本当に、今日は疲れた。
「――司、やっぱりさ……もうああいう所は行かない方が良いよ。」
「……危ないのはわかってるよ。でもやっぱり人の命がかかってるからね。」
「…………。」
まずそもそも、自分がどうにかしなきゃいけない問題だと思ってるところからおかしい。
黙っている私を見て、司はちょっと硬い表情で言う。
「……叶多が僕のこと、心配してくれてるのはわかるよ。でも大丈夫だから。もう僕は子供じゃないよ。」
『子供じゃない』――司は私が、彼のことを子ども扱いしてると思ってる。
……確かにあの時、
『何もわかってない……!なんでそれくらいわかんないの!子供じゃないのに!』って言ったけど……。
「はあ……もういいよ。」
「そう。気にしたくないことは、無理に気にしなくていいんだよ。僕は単に、僕がやるべきことだと思ったことをしてるだけだから。僕の責任であって、叶多は――」
「違う、そう言うことじゃない……!」
私は思わず声を荒げてしまい、顔を伏せた。
「……全然、良くないし。」
「…………そっか。」
司は困った顔をする。別に司も、私の気持ちがまったくわからない訳じゃないんだろう。どうしても司のことが心配なんだってことも、私がわざわざそんな心配して神経すり減らすのが嫌なんだってことも。
私だって司のことはよくわかってるつもりだ。いつだって、司にとっては他人が第一……司には、それができてしまう強さがある。私は弱いからできない。そして司は、その弱さを責めたりしない――ただ、『弱い人たちの分、僕が頑張れば』とか思っている。
だけど、それは良いことなんかじゃない。その助ける相手が家族とか友達ならまだしも、赤の他人はやりすぎだ。
自分が関わらなくていい問題で悩んで、助けなくていい人まで助けようとする。
司にとっては、場合によっては身近な人を特別幸せにすることよりも、すべての人の命を平等に助けることの方が大事なのだ。でも、それは……。
私は司のこういう一面を知って、気づいた――「正しい」って言う言葉が、いかに空虚なものか。
――だって、そうじゃん。
誰かを庇ったり、助けたりする理由は、何?「正しいから」?違うでしょ。
確かに建前では、人間はみんな同じように尊くて、助けるべきなのかもしれないけれど——実際は、そうじゃないことはみんな知ってる。
誰にだって好きな人も、嫌いな人もいるし、一人でみんなを助けてあげることなんてできないし。結局は誰かを選んで、誰かを選ばないことになる。
司は単に、「困ってる人は誰でも助けないといけない」みたいなルールというか、ただの原則に従っているだけだ。大人たちから教わった通りに、従順に――
そんなの中身は人間味のない、ただの冷たい「論理」だ——そんなものが「愛」であるはずがない。
人が本気で誰かを思いやるんだったら、それは同時に、必然的に選ばれない人もいるってことだ。というか、そういうことは必要だ。絶対に。
もしそうせずに、ただ正しいことのために人助けする、なんていうのは……要するにただの偽善だ。そこには本物の感情なんてない。
司はただ、簡単にできちゃうからやってるだけ。やらない理由がないから、やってみせる。そう言う無自覚に嫌味な優等生だ。
でも、私たちには――普通の、ごくありふれた凡人共には、そんなことはできない。私たちは自分のために、自分の好きな人だけを守ろうとする。それはエゴなのかも知れないけど。
俗に『愛』って言うものはやっぱり――本質的に、差別が必要なんじゃないか。
誰だって、そうやって生きてる。「正義」とかが好きな人も、本当はわかってるはずだ……ただ、認めたくないだけで。
ただ、ときどき司みたいに、そういう偽善に気づかないでうまくできちゃう人たちもいる。
そう言う人は気づいてない――自分たちがそう言う生き方を「正しい」って言って振りかざすのは、私たち凡人を悪人扱いしてるのと同じだってことに。
自覚はないんだと思う。
「みんな僕と同じように生きればいい」――そう思ってるんだろうし、実際昔の司にとっては。そう言うことが前提みたいだった。道徳の授業でほめられるようなことをみんなに向かって何の屈託もなく言って回る。
――でも、そんなこと……できる訳ないでしょ。
私たちは、弱いんだから。
司にだって当然、限界はあるはずだ。
――全ての人を救うなんて無理だよ。
そもそも、一人の人を特別愛してあげることもできない奴が。
いい加減気づけ、って思う。
人間は、自分が好きな人を、自分のために守る。そういうものだって。
正しさなんかじゃなくて。ただ、愛してるから――
むしろそのためには、他の関係ない人たちを切り捨てる覚悟くらい、できないといけない。
愛すること。
人として――これこそ「正しい」ことは他にないはずだ。
人として、一番大切なことだ。
人として、最低限必要なことだ。
人として――人として?
私は自分で思ったことに対して、心の中で苦笑した。
――でも司には、そういうのがないんだよね?
じゃあもしかして、司は人間じゃないのかな…………なんて 。
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