第6話 友達の距離

 その朝、私は頭が痛かった。

 大雨の後で、霧が濃く出てるせいもあるかも知れない。天気が悪いときは頭が痛くなる――そう言うことってよくあるんじゃないか。それに、昨日寝つきが悪かったせいでもある。けっこうガンガン響くタイプの頭痛だった。

 でも、気分はそんなに悪くない。昨日のことを思い出すと、自然とにやけてしまう。


 ――あ、傘持ってくるの忘れた。


 そう気づいて私は、司のことを思い出した。幸せに浸りすぎて忘れていたけど、考えてみれば昨日のあれは全部、第三者の傘の下で起こったことなのだ。

 そう考えると少しげんなりする……いや、嬉しさが減るわけではないか。冷めるわけではないけど、なんだか釈然としなかった。人から借りた傘なんて、恋愛小説的には明らかに不純物である。司が恋のキューピットでもない限り、意味が分からない。

 しかし、贅沢は言えない。小説と現実は違うのだし。むしろ、もうすでに贅沢すぎた——おなかいっぱいだ。


 ――でも、司には謝らないとな……。


 いつも通り、司とは徒歩で登校中に会った。

 いつも二人とも、線路沿いで合流する。司の家は多分、だれよりも学校に近い。それでも、今日みたいに部活がない日も早起きして登校するのを心がけてる(ちなみにバスケ部だ。晴翔も一緒)。

 昨日は例の「先生」と一緒に帰った、と言っていた。先生は本当に傘を持っていたらしい。そう聞いて少し罪悪感が和らいだ。


「……………………。」


 そのままの流れで、二人並んで歩いてしまう。

 

 全然、抵抗を感じない。


 こんなに至近距離にいるのに、だ。


 昨日の先輩ほど近くはなかったけど、少なくともこれは、普通の友達同士の距離感じゃないはずだ。


 かといって当然ときめきもしない。

 

 ただ、その位置関係が当たり前みたいな感じだ。体も心も、慣れきってしまっている。


 わざわざこれ見よがしに離れるのも気まずい。


 ――でも、そろそろこれもどうにかしないとな。


 別にやましいことはない。司はただの……友達みたいなものだ。でも当然な話、世間体と、先輩との信頼の問題がある。私は昨日の先輩の態度を思い出す。


 ――結構、嫉妬するタイプみたいだし。


 ――思い切って、言おう。こういうことは言ってあげないと、気づかない。


 そう思うのに、なぜか言えない。

 

 変な話だけど、自分から司は距離を置くというのは、自分の歯を抜くくらい気合が要ることのように思える。……それくらい大事、って意味じゃない。ないけど……なんと言えばいいのか。

 

 恋じゃない。そう言うのじゃない……ただ、なんというのか、習慣みたいなものと言うか。

 

 自分の部屋の壁紙を替えるのと同じで、長い間当たり前だったものが変わるのは、何となく抵抗がある。そういう種類のものだ。

 

 司との関係は、むしろ兄弟と似ているのかもしれない、と思っている。一緒に生活することに慣れてるから、理由もなくわざわざ避けようとするものでもない。

 

 でも、ここ数年間は、避けなきゃいけない理由なら、あった。


 意識的に避けようとしていて……だとしても、それはやっぱり気まずいことだった。

だから、同時にあまり気にしすぎないようにもしていた。わざとらしく避けてると思われたくなくて。


 その結果、今みたいなよくわからない距離感になってしまった。


 いつのまにかこういう何気ない場面で、気が付くとまるで空気みたいに、司はそこにいる。そういうことが、当たり前になってしまった。


 やっぱり、徹底的に意識しながら、徹底的に避けるしかないのだろうか。それは――すごく、難しい。


 一回、こういわれたことがある。


「――叶多、僕のこと嫌い?だとしたら、ごめんね。無理に話してくれなくても、いいよ。」


 本当に気の毒そうに、申し訳なさそうに、不快感なんてみじんも含んでいない、あの、あの純真そのものの顔で――


 なぜかこっちが、罪悪感を、持たされてしまう。


 元はと言えば……元はと言えば、司が悪いのだ。司が原因なのだ。決して許されないことをしたんだから。私は悪いことなんてしてない。


 でも、でも……心の中は、私の方が醜い感情でいっぱいだった。それを直視したくない。

 司がやったことは間違ってるけど、その心には一点の悪意も、やましいところもなかった。その差を見せつけられるのが、腹ただしくてしょうがない、だから――


 だから、全部なかったことにして、普通の友達として接しようとする。でも司の場合、「ただの友達」の関係だとしても、今みたいな距離感に落ち着いてしまう。むしろ、こっちが油断して、ついつい間合いに入(い)れちゃう部分もある。


 司は多分、だれにとってもそういう存在だから。

 

 この状況をどうにかしたければ、私が司のことを嫌いになることを、正当化する理由が必要だった――でも、そんなものはない。


 司は、誰にも自分のことを——だって、「良い子」だもの。


 ――ああ、気まずい。


 気まずい、気持ち悪い。考えていたら頭痛もひどくなってしまった……なのに。


 司が歩く。

 

 司と歩く。

 

 お互いの肘や腕が時折触れ合う。


 司の靴音が鳴る。


 早くもなく、遅くもない。


 落ち着いていながら、軽やかなリズム。


 司の肩が上下に揺れる。


 司のくせっ毛が、耳の上でふわふわ跳ねる。


 気が付くと、自分の歩みもそのリズムに従っている。


 髪の毛からシャンプーの匂いが漂ってくる。桃の香りだった。なんかムカつく。でも憎めない。


 …………心地いい。


 つい、この二人きりの状態を、そのまま受け入れてしまう。


 腕が触れ合う距離でも、違和感が全くない。


 まるで、二人とも幼児に戻ったみたいに。


 本当だったら、確かに本当の本当に本音で言って、私はこいつのことが嫌いなはず、なのだ。

……でも。


 実際に目の前にいられると、なぜかそんな気がしない。


 嫌いってことを忘れてしまうみたいだった……まるで魔法か何かみたいに。

 

 その場にいるだけで、毒気を抜かれる。

 

 その場にいるだけで。声を聞くだけで。顔を見るだけで。


 だから司は人に好かれる。


 特に同性の人にとっては、初対面の印象としては、ものすごくいけすかない奴だろう。

 でもみんな、彼と関われば関わるほど、けっきょく好きになってしまう。昔からそうだった。それは誰もが欲しがるような、魔法みたいな才能。文字通り無敵。

 だから、「嫌いになりたい」なんて願いは、叶わない。勝ち目はない。

 一度ここまで距離を詰めてしまった以上、司はそれ以降、変わらない接し方をしてくる――詰んでしまった、ってことだ。


 結論、天愛司と距離を置きたいなら、そもそも関わってはいけない。仲良くなってから離れようとするなら、つまり「嫌いだ」と意思表明するなら、自分が悪者になってしまう。

 絶交を宣告したら司は受け入れてくれるかもしれないけど、きっと私は耐えられない。

 それに、そのことを悪意無く友達に言われるのが怖い。そうしたら私が変な目で見られるし、なんなら一部の女子からは『司君のこと傷つけるなんてサイテー』みたいな反感を買うことにもなるだろうし……。

 それが怖いから私は今、身動きが取れない状態だ。


 ――でも……。


 私はため息をついた。


 ――いい加減しょうがないよね。勇気を出して、きちんと言おう。


 周りで人が聞いていないことを確認する。

 小学校の先生さながら、このお花畑に世の中のルールを説いてあげなければ。

「あのさ、司。」

「ん?」

「その、私は、結人先輩の恋人になったわけだけど。」

「うん。」


 はっきり口にするとけっこう恥ずかしいな、と思いながら私は続ける。


「恋人って言うのは……特別な関係なわけじゃん。もう知ってるでしょ?」

「他の人とはその、接し方が違うわけじゃん。」

「……うん。」


 司はつらいことを思い出したみたいにちょっと顔をゆがめる――事情を知らなければ可哀想に見えてしまう。


「で、その…………司はさ…………私の、彼氏じゃないじゃん。ないよね?」


 なんで私、確認してるんだろう。


「そうだね。今は。」

「……あー、うん。だからさ……私達は今、区別しなきゃいけないの。結人先輩と、他の人。

 ……で、その他の人の中に、司も含まれるから。」

「……ああ。なんだ、そんなことか。」


 司は合点がいったように声を上げた。


「近すぎ、だよね。ごめん。」

「……え?……わ、わかってたの?」

「僕もう子供じゃないし。」

「…………。」


 私は心の底から困惑した。


 ――わかってたなら、なんで。

 

 司はひょこっと身を引いた。


「――これくらいかな?もっと?」

「えっと……いや、えっとその、物理的な距離だけの話じゃなくて……一緒に登下校すること自体、やめてほしい、って言うか……。」

「——それでいいの?」

「え?」


 次の瞬間、司は表情の読めない顔で、意味不明なことを言う。


「――だって叶多のこと、守れなくなっちゃうよ?」


 ――え?……え?え?


「え……それって、どういうこと——」


と、私の声が小さくなったのは気後れしたからじゃない。その瞬間、私たちの横を電車が通り過ぎ、轟音で私の言葉をかき消したのだ。

 しかもその間に、司はなぜか線路と反対側に離れていく。私の質問は聞こえていなかったらしい。

 その先にあったのは、今時珍しい駄菓子屋だった。私たちも小さいころ時々来たことがある。その前に小さな女の子がいた。司は彼女の元に駆け寄っていって、しゃがみこむ。


 ――え、何この子、汚っ!


 その子は髪の毛はぼさぼさで、服も何日も着たみたいに汚れていた。教科書で見た戦後孤児に似ている。


「あかねちゃん、いつもいる所からけっこう離れてるけど、どうしたの?」


司が慌てた様子で話しかける。どうやら知り合いらしい。


「…………おかし、かおうとおもって。」.


 その口から出た声は、子供と思えないほどしわがれたダミ声だった。話し出した拍子に、口の端からはだらりとよだれが垂れ出す。私は、小さい子に対してこんなに不快感を覚えることなんて今までなかった。


「……もしかして、ごはん、食べてないの?」

「うん。」

「…………まずいな。」

「……司?その子、誰?」  

「あかねちゃん。僕の友達だよ。」


 司は小さい子供も「友達」と呼ぶ。それにしても「あかねちゃん」は、何か家庭の事情がありそうな雰囲気が全開だった。司は相変わらず、こんな「友達」ばかり増やして回っている。……うんざりする。


「……お母さんは、ご飯作ってくれないの?」

「うん。」

「お父さんは?」

「いないの。」

「お仕事?」

「うん……おきゃくさん、さがしてるの……ぱぱがかえってくるまで、ごはんたべちゃいけないの。」


 話が長くなりそうだった。


「……ね、ねえ司、先に、行ってていい?」

「あ、うん。」


 付き合っててもしょうがないので、私はそそくさと歩き出した。


 ――司のあれ、やっぱり直ってなかったんだな。


 私はあきれてため息をつく。

 そして、さっきの司の言葉の意図を聞き損ねたことを思い出した。

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