<幕間>~神谷永介の捜査日記①~

 雨宮県水瀬市みなせし某所、午前七時。


 先日から早朝にかけての大雨の後で、あたりには霧が立ち込めていた――雨宮県の名物である。その霧の中、日々の仕事で疲れた人々が、夢の中にいるようにぼんやりと、スクランブル交差点で信号を待っている。


 その中で一人だけ、青信号を何度もやり過ごしている男がいた。


 彼の名は神谷永介かみやえいすけ。私立探偵である。


 現在、とある事件の捜査活動中だ。


 水瀬市は歴史的な港町である。県内で最も人口が多く、最も栄えている。……ただ同時に、最も治安が悪いとも言われている。

 つい先月も、とある遊園地で幼児が誘拐される事件が起きた。

 

 神谷が捜査しているのは、まさにその事件であった。

 実はその事件の半年前にも、近くの別の街で児童が行方不明になっていたのだ。そして神谷はその際、子供の両親から捜査依頼を受けた。

『雨宮県警は誘拐の可能性を全く考慮していないし、捜査を真剣にやっていない。信用できない。』、と。神谷も同意した。

 残念ながら、雨宮県警の捜査力の低さは公然の周知である。

 それに彼は知っていた。過去五年間の間に、県内で同様の児童行方不明事件が三件も起きており、そのすべてが未解決であることを――


 ――自分なら警察よりも早く、この事件の真相を見つけ出すことができる。


 神谷はそう自負していた。


 警察は遊園地での事件も当初、単なる「行方不明」事件としていた。

だが、防犯カメラの映像にウサギのマスコットの着ぐるみを着た人物がその子供の手を引いていく様子が映っていたことから、誘拐事件としての捜査に切り替わった。

 

 遊園地のスタッフの中にはその時、マスコット役をしている者はいなかったらしい。着ぐるみはスタッフ以外立ち入り禁止のバックヤードで管理されており、不審者がそこに立ち入る様子も防犯カメラに映っている。


 しかし奇妙なのは、その侵入行為の際、周辺は警備員が見張っていたうえ、付近にスタッフも数名いた、ということだ。

 それに誘拐そのものも、人気のない所に誘い込んで、と言うのではなく、周りに客がいるところで堂々と行われている。


 何から何まで、あまりにも大胆すぎる――なのになぜか、目撃者は全くいない。


 不自然だった。


 運がいい、で済ませてよいものか――神谷も強い違和感を抱いたが、だからと言って何かのトリックを使う余地などない。

 しかも、特に犯人の足取りを追う手掛かりにつながるとも思えず、そのことはひとまず頭の隅に置いておくにとどめた。


 実際、手掛かりは全く違う形で与えられた。


 本当に、偶然だった。


 それは一週間ほど前。


 今日のように霧深い日。市内のこことは別の場所で、神谷自身があっさり犯人を発見したのだ。しかも奴はあろうことか、事件当時と同じ着ぐるみを着ていた。

 

 まるでそれを自分のトレードマークにした、とでも言うかのように。


 どうやら、道行く人々に風船を配っているらしい。

 

 惜しいことに、人ごみに紛れて見失ってしまったが、確かにあの遊園地のマスコットだった。見間違えではない。


 ――なんのつもりだ。捕まえてくれと言ってるようなものじゃないか。……警察を舐めているのか?


 だが実際、警察は舐められて当然だったと言える。

 

 神谷が通報したその後、警察が動く様子はない。着ぐるみの目撃情報も募っていない。

 神谷は苛立ちを覚えた。県警は市民に協力を求める気さえないのだ。毎度のことだが、捜査情報を全く公開しようとしない。大体、あれが誘拐事件であると認められたことも、神谷が個人的な関係筋からようやく知ったくらいだった。


 ――やる気が無さすぎる。


 そして今、またしてもウサギ男は神谷の前に現れた。一度ならず、二度も。どうやら神谷は運がいいらしい。


 ――今度こそ、逃がすものか。


 彼はまたしても、風船の束を手に持っている。

 しかし、彼の風船を受け取るものは誰一人いない。みんな無視して脇を通り過ぎていく。そしてウサギ自身も、受け取ってほしそうな様子は見せていない。ただ、棒のようにその場に突っ立って、通りを眺めているだけだ。


 神谷はしばらくそうして、ウサギ男を睨んでいた。




 ……やがて一段と、霧が濃くなってきた。


「……………………、っ!」


 神谷が長い間見張っていると、ウサギ男の下にようやく、誰かが近寄っていくのが見えた――それはまだ幼い少女だった。

 近くにいる母親らしき人物は信号を待ちながら、スマートフォンに目を落としている。


 そしてその時、ウサギ男の方も初めて動いた。腰をかがめ、少女に風船を差し出す――母親は、気づいていない。


 ――まずい!


 神谷は信号が変わらないことに焦る。

 いっそ無視して駆け出そうかとも思ったその時、ようやく信号が青になった――なってしまった。



 その日はちょうど、平日にしても特に人通りが多い日だった。



 あっという間に、横断歩道の向こう岸との間に人の壁ができる。


 慌てた神谷は、乱暴に人々を押しのけながら進んだ。そのあいだも、視線は向こう岸から離さない。

 だが、人だけでなく霧も視界を阻んでくる。


 人と人の隙間から、辛うじて奴の様子が見えた――神谷が危惧した通り、ウサギ男は少女をさらおうとしているところだった。


 彼女を羽交い絞めにし、口に何か布のようなものを押し付けている。


 彼の手を離れた風船の束が、ビルの間をふわりと上っていく――白い霧の中に溶け込むように、消えていく。


 彼女は母親の方に腕を伸ばし、必死に抵抗していた。だがその母親は、背を向けたまま無慈悲に離れていく。横断中も、スマホから目を離していなかった。


 ――馬鹿野郎っ!


 神谷は心の中で毒づき、母親に警告しようとした。……だが次の瞬間、開きかけた口を閉じてしまう。


「――――!?」


 ウサギ男が急に、人々の間に埋もれて消えたのだ。


 そう思った次の瞬間、人の壁がようやく散り去り、奴の姿が見えるようになった。


 ――身長が、縮んでいる!?いやちがう。あれは――!


 男と少女は、ところだった。


 …………沈む?どこに?


 だが実際、沈んでいるとしか言いようがなかった――彼らの真下の、水たまりの中に、である。


「――何だと!?」


 神谷は一瞬茫然としたが、それでも足は止めなかった。

 自分が突き飛ばした誰かが文句を言ってくるが、気に留めない。と言うか、彼らはこの異常事態に気づかないのだろうか。


 近くまで駆け寄ると、その男が何か言っているのが聞こえてきた――着ぐるみのせいでくぐもってはいるが、かなり大きな声だった。


「ああ、虹っ……!きれいだねぇ、君の、瞳の中の虹ぃ……!」


 もはや少女の姿は地面の下に消え、ウサギの頭もまさに沈まんとしている。


 ――後、もう少し!


 横断歩道の端、最後の一歩――スライディングするかのように、神谷は空中に身を投げ出し、腕を伸ばした。地面から生えたウサギの耳をつかもうとする。



 

           ……だが果たして、彼の手は空を切った。


 神谷はその場に倒れこんだ。伸ばした腕は水たまりにたたきつけられ、はねた水が顔にばしゃりとかかる。




 ――間に、合わなかった……。


 いつの間にか、霧が晴れていた。


 横断者たちは地面に伏す神谷を迷惑そうに避けて歩み続ける。今しがたすぐそばで起きた怪奇現象のことなど、まったく知らず。

 彼らから見れば、神谷は突然駆け出して水たまりに倒れ伏した頭のおかしい男にしか見えなかったことだろう。

 だが神谷自身も、自分の正気を疑いそうになった。今自分が見た出来事が、まったく信じられなかった。幻覚だった――そう考えた方がましだろう。


 だが――



「――え?ハナちゃん?どこ?え……?ハナちゃん!?」


少女の母親が、今更その子の名を呼びながら、辺りを見渡し始める。


「あの、すみません!さっきまでそこに娘がいたんですけど!どこに行ったか見てませんか!?」


 そんな呼びかけに対して、通り行く人達は首を振るばかりだった。


 そして彼女は、倒れこんでいる神谷に気づいて更に困惑する。だが、彼が娘がいた方に向かっていたことに気づき、関係があるのかもしれない、と思った。


「あ、あの……そこに倒れてる方!えっとその、もしかして、娘がどこにいったか、知りませんか!?」


「…………幻覚、じゃ、ない。」


 神谷は起き上がりながら、茫然とつぶやいた。


「え?」

「わかりません、私も……今、自分が何を見たのか。……だが少なくとも、これだけはわかる。」


 神谷はあきらめて、事実を認めることにした。


「――――娘さんは、消えてしまった。」


      



     ……そう、まぎれもなく、少女とウサギ男は消えてしまったのである。

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