第113話 お祖母様

 豊楽ほうらく殿の火事により大騒ぎが起こっていた天栄宮の中で、いつもと変わらぬ静けさを保っていた場所がある。

 それが奥御殿。白元妃はくげんぴが住まい、支配している場所だ。

 白元妃は絢爛豪華な広間の畳に座し、悠々と燃える豊楽殿を眺めながら宿敵たちが滅んでゆくのをじっと待っているはずだった。

 異変に気がついたのは、雨が降る少し前。

 豊楽殿の方角から絶えず聞こえていた破壊音が止み、同時に窮奇の纏う憎悪の気配が縮むのを感じた。

 妖気自体は感じるにも関わらず、憎しみにかられたあの焼け焦げるような気配が薄くなったのだ。

 何故、と思う。

 訝しんだ白元妃は、手にしていた茶器を置き、廊下に出るため立ちあがろうとした。

 瞬間、部屋の入り口から慌てた女官の声がする。何を話しているのかまでは聞こえないが、ただならぬ雰囲気は伝わってきた。

 バタバタと複数人の足音がし、うちの一つは明らかに女人のものではない。

 力強い歩みが床を打ち、その足音の主人あるじが誰なのかを予想した白元妃は未だ持ったままであった茶器を取り落とす。

 落ちた中身が畳に滴り落ちるのも構わずに、今しがた入ってきた人物を見据えた。


「邪魔するぞ、白元妃」


 女官の静止を振り切り、言いながら入ってきたのは馴染みの顔である凱嵐。

 随分と窮奇と炎に手こずった様子で、常日頃の佇まいとは異なり火傷と打撲にまみれていたが、それでも立っているだけで発している威圧感は健在だ。 

 白元妃の目を奪ったのは凱嵐だけではない。

 隣にいるーー知らない小娘。

 柿色の着物を着た娘を、白元妃は確かに知らないはずだ。

 しかし、知らないと言い切るにはあまりにもその風貌が、己の息子に酷似していた。

 意志の強そうな紫色の瞳に真っ直ぐに伸びた黒髪。そして、この真雨皇国の民が持ち得ない白磁のように透き通った白い肌。

 いつもいつも部屋で伏せっていた秋霖しゅうりんの顔を知っている者が、今現在の天栄宮の中にどれほど残っているだろうか。

 死んだ息子は、二十歳であった。

 娘は息子よりやや幼いが、もう数年もしたらますます似てくるだろうと思わせるに十分な顔立ち。

 幾重にも着込んだ豪奢な着物の下で、胸が締め付けられるかのような思いに駆られ、呼吸が圧迫される。

 知らないうちに浅い呼吸を繰り返しており、紅を差した唇からは己のものとは思えない苦悶の声が漏れる。


「……なぜ……窮奇きゅうきはどうした」

「調伏した」


 喘ぐような白元妃の質問に答えたのは、娘だった。


「調伏? アレは調伏できるような妖怪ではないはずじゃ」


 俄には信じ難い言葉に白元妃がさらに問いを重ねると、娘は唇に弧を描き、体を少し横にずらす。

 後ろに立っていたのは、血まみれの白い着物を着て、黒い虎の耳を頭から生やした女人だった。赤黒い瞳を持つ女人は明らかに只者ではなく、纏う雰囲気に今更ながらこの人物の正体に気がついた。


「まさか……本当に……」


 あり得ない、と思う。

 四凶の一角に名を連ね、人間への憎しみを極限まで膨らませた大妖怪をこの短時間で調伏するなど、人間業ではない。

 まだしも討伐したと言われた方が納得する。

 しかし、紫乃の後ろに控えている女人は紛れもなく窮奇と同じ妖気を有している。

 人型となった窮奇から殺意は感じ取れず、大人しく娘に付き従っていた。


「何故、何故じゃ!」


 混乱する頭を抱え、白元妃は綺麗に整えられている己の髪をかきむしりながら半狂乱になって叫んでいた。

 冷静さを失い始めた白元妃とは対照的に、娘の態度はあくまでも涼やかであった。

「何故? それは、あなたが一番よくわかっているのではありませんか。私の身には……希少な血が流れている」

 白元妃の動きがぴたりと止まった。

 血走った目で娘を見つめ、口からは浅い呼吸が絶えず漏れている。


「『調伏・使役』に優れた皇族の血、妖術に長けた隣国・雅舜がしゅん王国の血。それらが混ざった私であればこそ、窮奇を従えるのが可能だったのだと、あなたが一番理解できると思っています……お祖母様」


 最後の一言に、とうとう白元妃の全身から力が抜けた。

 その場にくず折れ、畳に手をつく。朱色に塗られた爪でぎりりと畳をつかんでみても、どうにもならない。

 お祖母様。

 込められた言葉の意味に、白元妃は敵意を失ってしまう。

 お祖母様。

 ……せめてこの娘の顔が、自分から息子を奪った憎き御料理番頭と似ていればよかったのにと思う。

 何故、秋霖しゅうりんに似ているのだろうか。これでは憎み切ることなど、不可能ではないか。

 記憶の中の息子の顔が、白元妃に笑いかけてくる。

 母上、不出来な息子で申し訳ないと謝る様が白元妃の胸を抉る。

 病弱に生んでしまった母を許しておくれと、謝りたいのはこちらの方であるというのに。

 瓜二つの顔を目の前に、息子に「もうここまでだ」と言われているような気持ちになり、白元妃は己の敗北を認めざるを得なかった。

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