第112話 天に愛された娘
紫乃が見ている先で、
同時に紫乃の頭に水滴が当たった。
見上げると、炎に包まれ照らされた闇夜から、雨が降り注いでいるのがわかった。
雨脚は強さを増し、やがて水滴は大粒に変わる。
かつて妖怪、
紫乃も窮奇も、凱嵐も花見も、野菊も黒羽も。
その場にいる全員が一斉に天をふり仰ぎ、今起こっている奇跡にも似た光景にしばし心を奪われた。
「……あぁ」
ポツリと言葉を漏らしたのは、窮奇だった。
顔中に雨を浴びながら、心地の良さそうな顔をして、言葉を紡ぐ。
「…………ぬしは随分と、天に愛されているようだ」
そうして窮奇は視線を紫乃へと向ける。
戦意が完全に抜け落ちた窮奇の顔は、穏やかだった。
きっとかつては優しい性格をしていたんだろうな、と紫乃は思った。
何があったのかはわからないが、過酷な環境と向けられ続ける悪意により、攻撃的な思考になり性格が歪んでしまったのだろう。
窮奇の姿にかつての花見を重ね、少し切なくなる。
凱嵐に任せておけば、あるいは討ち取っていたのかもしれない。
人に仇なし、封じるしか手段がなかった存在である窮奇を倒せたとなれば、きっと人々は安堵する。
討伐という手段を選ばなかったのは紫乃の身勝手な考えで、吉と出るか凶と出るかわからない。
紫乃に出来ることは料理を作り、窮奇の心の隙間を埋めて、人への憎しみを少しでも減らすことだけだ。
雨が全身を打ちつけ、燻っている火もやがて消える。
泥混じりの水の匂いが鼻をつき、空気が澄んでいく。
窮奇を囲むようにして居並ぶ面々は、緊張の糸が切れたかのようにその場に座り込んだ。
「全く、無茶をする」
言ったのは凱嵐だ。
紫乃は首を動かし、目線だけを凱嵐に向けた。
雨に打たれた凱嵐は、窮奇との激戦を繰り広げ、あちこちに傷がある。額から血を流し、水縹色の着物は焼け焦げ、黒髪は艶を失って毛先が燃えて縮れていた。
にも関わらずいつもと変わらない余裕の態度を見せており、それが強がりなのか素なのか紫乃には判断がつかなかったが、おそらく素なのだろう。
草履で泥水を跳ね飛ばしながらそばに寄ってきた凱嵐は、紫乃の右隣に胡座をかいて座り込んだ。
真っ直ぐ体ごと窮奇に向かうと、紫乃と同じ紫色の瞳で今しがた大人しくなったばかりの妖怪に話しかける。
「それで、窮奇よ。戦意は削がれたのか」
「ああ。もうよい」
凱嵐に話しかけられながらも、窮奇の視線は紫乃を捕らえていた。
「ぬしの飯を食べたら、募っていた憎しみが小さくなった」
「食べたくなったら、いつでも作るよ」
この言葉に、窮奇の口元が緩む。
「ぬしは変わっているな。この私を殺そうとせず、飯を食わせようなどと考えるなど」
紫乃は返事の代わりに肩をすくめる。
ぴしゃ、と水音をさせつつ紫乃の左隣にやってきたのは花見だった。花見はしゃがみ込んで目線を合わせると、八重歯を剥き出しにして勝ち誇った笑みを浮かべた。
「どうだ、ワテの主人はスゲエだろ」
「ぬしはこの猫又の主人なのか」
「主人っていうか、一緒に暮らしてるよ」
「紫乃姐さんの料理は、世界一ですからのう」
「野狐まで従えているとは、ぬしは一体何なのだ」
「何と言われても、ただの御料理番だよ。皇帝陛下の、御料理番だ」
「皇帝?」
「隣に座っているこの男。国で一番偉い人」
紫乃が雑に指し示すと、窮奇は紫乃と凱嵐を交互に見比べる。
「あまりの強さ故、兵かと思うていた」
この窮奇の反応に、凱嵐はからりとした笑顔を浮かべた。
「まあ、間違いではない。俺は皇帝であり、兵だな。だからお前を屠ろうとした」
「今はよいのか。絶好の機会だぞ」
「よい。やめだ。お前の処遇は紫乃に任せた」
「ぬしは、この私をどうするつもりだ」
窮奇は紫乃を、探るようにじっと見つめてきた。
「殺さないと言ったな」
「言った」
「封じるのか」
紫乃は首を横に振る。窮奇は意外そうな顔を見せた。
「殺さないし封じない。代わりに、私に使役されるというのはどうだろう」
「使役?」
「と言っても、別に何かをしてもらうつもりはないけど。もう人間に危害を加えないと約束してくれるなら、自由にしていい」
窮奇は紫乃の言葉をどう受け止めたのか、じっと考え込む。
「…………時々、ぬしの料理を食べさせてくれるのならば、良い」
「いいよ。さっきも言ったけど、いつでも作るよ」
何せ紫乃に出来ることといえば、料理を作ることだけなのだから。
紫乃の返事に満足したのか窮奇は小さく首を縦に振った。
「さて」
これをもって一件落着となればいいのだが、そうはいかない。
まだ紫乃には、行くべき場所があり、やるべきことがある。
隣にいる凱嵐に目を向けると、彼もまた同じことを思っていたのだろう。
先ほどから浮かべていた笑みを引っ込め、真剣な表情を作った。
「窮奇、教えてほしいことがある。封印を解いた奴がどこにいるか、わかるか?」
問われた窮奇は頭部から生えている黒い耳を動かし、首を巡らせた。
「西の方角におるな。この宮殿の端だ」
天栄宮の西端となると、存在している御殿は容易に思いつく。
ーー
示し合わせた訳でもないのに、紫乃と凱嵐の二人は同時に立ち上がった。
「紫乃も行くか? 場所は俺が案内する」
「うん、よろしく」
柿色の着物の
「お祖母様に会いにいかないと」
紫色の瞳には、揺るぎない強い意志が宿っていた。
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