第111話 紫乃と窮奇

 荒い息を吐きながら、窮奇きゅうきの背中に乗ったまま花見が顔を近づける。


「おい、窮奇……声、聞こえてるんだろ? 喋ってみろ」


 窮奇は赤黒い瞳で花見を睨め付けたまま、唸り声をあげる。獣の声であり、意味のある言葉を発するとは思えなかった。


「人に化けてみろ。悪いようにはしないにゃあ」

「………………!!」


 窮奇は花見を睨み、しかしこれ以上抵抗する力を持たないのか、やがて姿が黒い靄に包まれる。

 窮奇を包む靄が晴れると、現れたのは黒い虎の耳を頭から生やした二十代ほどの女だった。白い着物を血まみれにして横たわる女は、花見に馬乗りにされ、凱嵐がいらんに見下ろされている。

 紫乃は野菊、黒羽こくうと共に、膳を持って近寄った。

 人に化けた窮奇は、這いつくばったままになおも殺意のこもった眼差しで紫乃を見上げ、噛み付くように言う。


「どうせ殺すのだろう。さっさとするがいい」

「殺さない」

「なぜ……そのような嘘を吐く!」

「嘘ではない。殺さない。でも代わりに、」


 紫乃は膝をつき、窮奇に見えるように膳を目の前に置き、それから羽釜の蓋を取った。

 時間が経ってなお、羽釜の中に入っている飯は湯気を立てており、この暴力的なまでの熱と煙に支配された環境においてはかなりの場違いな感じがする穏やかさだった。

 窮奇は赤黒い瞳を見開き、戸惑いの色を見せる。

 紫乃は羽釜の中身をすくい、腕に盛り付けた。

 窮奇としっかり目を合わせると、一言一句を刻みつけるように、言う。


「ーー代わりに、私の作った飯を食べてもらおう。今日の献立は、大根の葉の炒め物と、麦粥の梅干し乗せだよ」


 奇しくも作り上げた麦粥は、最初に凱嵐に振る舞ったものと同じであった。

 紫乃の言葉が予想外のものすぎて、窮奇は困惑と怒りが混ざった顔つきで怒鳴った。


「……こんな状況で、飯だと!? 何を考えている!」

「何をって、食べて欲しいんだよ」


 紫乃の言葉に嘘偽りはない。

 底知れぬ深い闇を心の内に抱く窮奇に料理を食べて欲しくて、紫乃は花見達を巻き込んで危険極まりない豊楽殿までやって来た。

 食べてもらえなければ、来た意味がまるで無くなる。

 窮奇の赤黒い瞳と、紫乃の紫色の瞳が交差した。

 人間の形態になってなお、凄まじい憎しみを宿す瞳から紫乃は目を逸らさない。

 ここで誠意を見せなければ、きっと窮奇が紫乃の料理を食べるなどあり得ないだろう。

 こうしている間にも炎は勢いを増しており、煙が風に吹かれて渦を巻いている。

 ガラガラと音がして壁や天井が崩落する音も聞こえてくる。

 それら全てを意識の外に追いやって、紫乃はただ窮奇だけを見つめた。

 数秒が数刻に思え、熱気にじわりと頬を汗が伝い、煙で喉がカラカラになる。

 やがて窮奇の方から視線を逸らすと、全身に入っていた力が抜けるのがわかった。

 ずっと馬乗りになり続けていた花見が窮奇から降りると、窮奇は上体を起こし、正座する。

 そうして徐に、おいてあったさじを手に取ったのだった。

 


+++


 最初はただの、虎だった。

 山間に住んでいた虎は、毛の色が黒で少々珍しかった。

 悠々と暮らしていた黒虎は、ある日人間に見つかった。

 珍しい色合いの虎だと人間達は執拗に追いかけ回し、山に踏み入り、住処を荒らす。

 捕らえられた黒虎は首に縄をかけられ、檻に入れられて方々を引き摺り回され。

 見世物として人前に出され、芸を強要され、碌な食事も与えられず、暴れないように常に無数の矢や短刀を打ち込まれた。

 傷だらけの黒虎は憎しみを募らせる。


ーー平穏に山で暮らしていた自分に、どうしてこのような非道い仕打ちをするのか。


 檻の中で血を流しながら怒りに震えていた黒虎は、ある日とうとう檻を食い破る。

 自身を捕まえ縄をかけた人間どもを喰い殺し、檻の前に集まっていた人々を踏み躙る。

 恐怖で逃げ惑う人を怒りのままに蹂躙し、感情が命じるままに暴れた。

 そうして人里から離れ、山に行き着く。心にこびりついた人間への嫌悪感と憎しみは晴れず、黒虎は度々人里に降りては人を襲うようになる。

 人々は黒虎を恐れ、討伐しようと山に人を差し向けた。

 来るもの達をいくら返り討ちにしても、また別の兵がやって来る。

 黒虎には、わからなかった。

 誰かを殺せば、その人の家族や友人が黒虎を憎み、恐れ、何としてでも討伐しようと立ち向かって来ることを。

 黒虎は人に憎悪を向けられて、黒虎自身も平穏な時を奪い去った人間を憎悪し、憎しみだけが交差する。

 永い時を生きて人の血を浴びすぎた黒虎はいつしかただの獣ではなくなり、その身を妖怪へと変化させた。

 月のない夜に現れ出ては人を喰い荒す妖怪に恐れをなし、いつしか「窮奇」と名がつけられた。

 やがて時の皇帝自らが窮奇討伐に向かい、しかし倒すことは叶わずに封印という手法をとる。

 狭い壺の中、常闇の牢獄に囚われた窮奇はますます怒りを増幅させる。

 一体何年が過ぎ去ったのだろうか。

 じっと耐え忍ぶ窮奇の耳に、女の声が響いた。


ーーここから出してやろうかえーー


 ピクリと耳を動かし、頭をもたげた。声はなおも聞こえてくる。


ーー出してやろう。暴れるのじゃ。憎しみを力に変えて、惜しみなく振る舞うといいーー


 程なくして、本当に窮奇は壺から出られることとなった。

 自由を手に入れた窮奇は、壺に閉じ込められていた間の憎しみを発散させるべく、己の力を解放する。

 人間とは、忌み嫌うべきものだ。

 私利私欲のために罪のない黒虎を住処から連れ出し、自由を奪い、都合の良いように支配しようとする。

 許してはならない生き物だ。

 どのような者であれ、「人間」である以上殺さなければならない。

 何百年も抱えてきた思いは凝り固まり、窮奇の思考を支配していた。

……なのに。

 窮奇は目の前に座る娘を見て、思う。

 なぜこの小娘は、澄んだ瞳で己を見るのだろうと。

 瞳の奥に潜んでいるのは、窮奇への憎しみでも蔑みでもない。

 ひたむきな思いと一抹の憐憫の情が見え隠れしており、窮奇の胸を抉ってくる。

 優しい目で見つめられたことなどあっただろうか。

 窮奇の想いに寄り添ってくれる人間など、いただろうか。

 永く生きれば生きるほどに、窮奇の死を望む声は大きくなる一方だった。

 今、この娘は、間違いなく窮奇の死など望んでいないだろうと断言できる。

 しばしの逡巡のうちに、窮奇は匙を手に取った。

 憎み、恨み、憤り。大嫌いな人間の姿に化けるなど屈辱以外の何者でもないはずなのに、不思議と受け入れられている。

 震える手で粥をすくい、口へ運ぶ。

 血で滲んだ口内に、優しい味わいが広がった。

 少し酸っぱさのある赤い実の味と、白と茶色の粒々とした実が水分を含んでじわりと口の中を満たしてゆく。

 血と暴力に満ち満ちた窮奇の生の中で、場違いなほど優しさに満ちた味だった。

……あぁ。

 窮奇は、思う。

……人の肉以外のものを食べたのは、いつぶりだろうか。

 匙を取り落とした窮奇は、視界が滲むのを感じた。


「……美味いな……」


 匙がかつん、と地面に落ちて跳ねる。

 同時に、地面に水滴が滴り落ちるのを、窮奇は見た。

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