第109話 合流
外から見ているだけでも豊楽殿から立ち上る炎と煙は尋常ではなく、近づくにつれて火の粉が降り掛かり、焦げ付くような熱波が肌を撫でる。
「紫乃様、これは近づくのは難しいのでは……下手したら死んでしまいます」
「いや、行く」
「しかし……ここで紫乃様に何かあっては、先代様ならびに
「それでも行く」
黒羽が渋るのも当然だ。
目の前の光景は尋常ではなく、仮に紫乃が逆の立場であったらきっと「やめろ」と言っていただろう。
しかし、どれほど危険があろうとも、紫乃は行かなければならない。
行くと決めた以上、行くのだ。
既に料理は作ってあるし、ここで止めるという選択肢は存在しない。
いかに炎が激しかろうとも、凄まじい戦闘が繰り広げられていようとも、紫乃の意志を削ぐことは不可能だ。
「黒羽、嫌だったら残ってくれてて構わないよ。そこまで私に付き合う義理はない。花見と野菊も」
この紫乃の言葉に、三人は一様に顔を顰めた。
「紫乃様をお守りするのが
「ワテが紫乃の側を離れると思ったのかにゃあ。見くびらないでほしい」
「ですのう」
「みんな……」
死地に赴こうとする紫乃に、躊躇わずついていくと言ってくれる三人。
これは紫乃のわがままだ。
このまま安全なところで待っていれば、あるいは凱嵐が
倒すだけではだめだという思いは、単なる紫乃のわがままに過ぎない。
それでも……。
紫乃の中に押し寄せる感情が、窮奇に救いをもたらしたいと思ってしまう。
例えどれほど強大な妖怪でも。
例えどれほど無謀な試みであろうとも。
窮奇の赤黒い瞳の奥に隠された、底知れぬ闇の深さを感じ取ってしまった今、じっと待っているなど出来そうになかった。
この紫乃を突き動かす衝動にも似た思いが、紫乃の中に流れる「調伏」を得意とする皇族の血によるものなのかはわからない。
理由は何にしろ、紫乃は行かなければならないのだ。
「紫乃様、手拭いに水を浸して、口元を覆いながら行きましょう」
黒羽の提案により、紫乃と黒羽は御膳所を出てすぐの井戸で手拭いを浸し、それを首に引っ掛ける。
「花見と野菊は大丈夫なのか?」
「ワテらはニンゲンとは体の作りが違うから平気だにゃあ」
「ですのう」
「そうか……」
ふと、紫乃はもう一つ持っていた手拭いを水に浸して軽く絞った。
「二つ持っていくんですか?」
「いや、これは陛下の分」
黒羽に聞かれて紫乃は答える。
被害が豊楽殿のみで止まっているのは、あの場所で凱嵐が窮奇を抑えているおかげだ。
炎に包まれた場所で一人戦う凱嵐に、せめて濡らした手拭いくらいは持っていってやらなければ、と思う。
「よし、行こう」
紫乃は前を向き、再び宣言する。
四人は豊楽殿へと走り出した。
豊楽殿の被害は想像以上だった。
建物はほぼ壊れて見る影もなく、燃え盛る炎は近づくにつれ威容を増し、尋常ではない熱と黒煙を発している。
窮奇のいる場所はすぐにわかった。
何せ体が大きい上に今なお建物を破壊して暴れ回っている。
腹の底に響くような咆哮も相まって、居場所の特定は容易だ。
進んでいくと、羽釜を持った花見が危機感を抱いた声を出した。
「ーー熱っ、紫乃、これヤバいよ、熱気で釜の中身が再沸騰しそうだにゃあ」
確かに花見の言う通りだ。なぶるように熱波が押し寄せ、熱いなんてものではない。しかし紫乃は敢えて気軽な声を出した。
「熱々を食べてもらえるから、いいんじゃない?」
「姐さん、呑気ですのう」
野菊が困ったような声を出しながら、膳を手についてくる。黒羽は落ちてくる煤や時折倒れてくる柱から紫乃を守るように腕を大きく広げ、周囲に気を配りつつ歩いていた。
「紫乃様、煙を吸わないように濡らした手拭いを口元に当てていてくださいよぉ! ーーゲホッ! ウェッ!!」
「黒羽、喋らない方がいいよ。煙が肺に入る」
黒羽は影衆とは思えない程声が大きい人物で、今も大口を開けて喋っては口いっぱいに煙を吸い込んでむせていた。
先導する花見は、焦げ付く匂いに顔を歪めながらも言葉を重ねる。
「しっかしこんだけ壊されてるとなると、あの男が生きてるかどうか怪しいもんだにゃあ」
「ただの人間がこれほど炎と煙に呑まれた場所で生きているとは、考えづらいですのう」
「某は今代陛下を詳しく知りませんが、いくらなんでも長時間いられる場所ではないですね……ゲホッ!」
「いや、陛下はきっと生きてるよ」
「ゲホッゲホッ、なんで言い切れるんですか?」
「うーん……なんとなく、あの人は死にそうにないから」
「そんな適当な……!」
皆の意見を一蹴し、紫乃は断言する。
舐めるような炎に包まれ、ほぼ全壊状態の豊楽殿の中を進むのは並大抵ではない。
それでも花見と野菊は手に羽釜と膳を持ちながらも危なげない足取りで、なんとか進めそうな道を選んで先を行ってくれているし、黒羽が紫乃に危険がないようにしてくれている。
おかげで紫乃は皆について行けばいいだけの状態で、ずいぶん楽だった。
やがて崩壊の物音が聞こえた只中に辿り着くと、そこだけぽかりと穴が空いたように開けた場所に出る。
めらめら燃える建物に囲まれたその場所で、膝をつき、額から汗を流し、それでも紫の瞳に強い意志の色を失わせていない、
「あ、でもほら、見えてきた」
「! なんと、本当に生きておりましたな!」
「しぶとい男だにゃあ」
「妖怪並みの体力ですのう」
予想だにしていなかったであろう紫乃たちの登場に、今代皇帝、雨 凱嵐はこれでもかと目を見開き、驚きをあらわにしていた。
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